18 穏やかな旅路と消えない影
乳母に付き添われながらゆっくりと馬車へ向かうルーシャへ周りの騎士達は頭を下げ敬意を表す。
「ご無事で」
昨夜は私のことを命懸けで守ってくれた騎士達。皆どこか優しい表情で見てくれる。旅立ちのときは不安でたまらなく、騎士達でさえ疑っていたのが嘘の様に思えた。
全ての準備が終わると馬車がゆっくりと動き始めた。窓の外では宿が少しずつ遠ざかっていった。
「出発したのね」
ルーシャは小さく呟く。
「はい。予定より少し遅れましたが問題ありません」
向かいに座る乳母が答えた。
揺れる馬車の中は思ったより快適だった。身体はまだ本調子ではないものの、昨日までの熱を思えばずっと楽になっている。
少し開けた窓から吹き込む風が心地よかった。皇宮の中庭では感じられない土と草の匂い。
ルーシャはその感覚に目を細めた。
「外の景色を見るのも久しぶりだわ」
「お嬢様は昔からお好きでしたね」
乳母は懐かしそうに微笑む。
「覚えている?庭師に怒られたこと」
「もちろんです」
「東庭の花壇に入り込んで泥だらけになっていました」
「そ、それは子供の頃でしょう」
「八歳でした」
「十分子供よ」
思わず頬を膨らませる。だが乳母は全く譲る気がないらしい。
「その後、高熱を出されたのも覚えております」
「それはもういいでしょう?」
「よくありません」呆れたような返事。だがその表情はどこか嬉しそうだった。
ルーシャもつられて笑う。こんな風に他愛ない話をするのはいつぶりだろう。皇宮を出てからは緊張の連続だった。
北部行き、突然決まった旅、誰かも分からない賊からの襲撃、そして謎の高熱。次々と起こる出来事に気を張ってばかりだった気がする。だからこそ、この穏やかな時間が少しだけ嬉しかった。
窓の外には広い草原が続き所々に小さな村が見えた。畑で働く人々や走り回る子供たち。そして干し草を積む農夫。
皇女として帝国のことは学んできたはずだ。だが実際に見る景色はどこか新鮮だった。
「皆、ああして暮らしているのね」
ぽつりと漏らすと乳母は静かに頷いた。
「お嬢様がお守りになる民です」
その言葉にルーシャは少しだけ考え込む。皇女として生まれた。それはずっと当たり前だった。だが母が亡くなってからは離れた場所でずっと隠れるように生活していた。そんな私が守るべき人々とは…?考えれば考えるほど虚しくなるだけだった。
だが今見える景色にいる人々は笑ったり、悩んだり、家族を大切にしたり。そうして日々を生きている。不思議と胸に残る光景だった。
「北部もこんな感じなのかしら」
「もう少し寒い土地だと聞いております」
「雪も降るのよね」
「ええ」
ルーシャは少しだけ目を輝かせた。実は雪を見た記憶がほとんどない。皇都では滅多に積もらないからだ。
「楽しみだわ」
その呟きに乳母は苦笑する。
「まずは無事に到着することを考えてください」
「分かっているわ」
そう答えながらも期待を隠せなかった。
出発当初の不安が嘘の様に薄れていた。今はただ新しい場所に対する楽しみが芽生えていた。
———
その頃———
ルーシャがまだ高熱で眠り続けていた昨日。宿の一室では宮廷医師が診察を続けていた。
「殿下はどうですか?」
白銀の男が扉から入ってきてルーシャをじっと見つめる。
「少しお話しされた後すぐにお休みになられました。」「熱も下がり始めております。今しばらく安静にすれば大丈夫でしょう」
医師の言葉にセイレンは頷くだけだったがじっとルーシャを見つめる。
苦しそうだった呼吸も少し落ち着いて見えた。
その様子を見た男は踵を返した。
「しばらく離れます」
どこへ…?と医師が聞く前にその男は部屋を去っていた。
宿の外では騎士達が交代で見張りをしていた。その間を白銀の騎士が颯爽と歩いていく。
「団長…?どちらへ、」
白銀の騎士はすでに馬へ跨っていた。
「現場確認だ一刻半ほどで戻る」
男はそれだけ告げると宿を後にした。誰も彼を止めなかった。いや、止められなかったと言うのが正しいのだろう。
向かう先は一つ。襲撃現場だった。
半刻ほど馬を走らせた男は徐々に森へ近づいていた。真夜中で静かな森。男は馬を止める外なく奥へと進む。
やがて見覚えのある場所へと到着した。
倒れた木や壊れた馬車、地面に残る戦闘の後。間違いなく襲われた現場だった。
セイレンは馬を降り視線を巡らせる。
地面には血痕も残っている。そして剣で抉れた地面もしっかり残っていた。
「…ない」
だが、その場にあるべきものがなかった。
賊の死体が1人として無かったのだ。
獣に荒らされた様子も引きずられた跡も無かった。まるで最初から存在しなかったかのように死体だけが消えていた。
それを見た男の表情は険しくなる。ゆっくりと森へ足を進める。黒衣の魔導士が最後に立っていた場所へと辿り着いた。
男の足はそこで止まり無言で膝をつき地面の土をなぞる。
「やはり…」
男の予想通り地面には魔法陣の跡すらない。戦闘の形跡はしっかり残っているのに他はない違和感。
「誰かが後始末をしたか」
低く呟く。
男は立ち上がり魔導士が最初に現れた方角へと進む。もし痕跡があるとするならばこちらの可能性もある。
しばらく歩いたその時、男の足は不意に止まった。
月明かりに照らされた地面に何が落ちていた。
黒い布切れ。
男はそれを拾い上げじっと見つめる。黒い布切れは黒衣のローブのものに酷似していた。
鋭利な刃物で切り割かれた跡があった。
おそらく戦闘の際についた傷だろう。
「…残っていたか」
「……?」
その布には少しの違和感があった。
布の内側、ほつれた隙間から見慣れない刺繍が見えた。
どこかの紋章に近い。帝国のものでもない。貴族や家紋でもない。だが、見たことのない奇妙な印だった。
男の握りしめる手に力が入った———




