聖女の決意、代償の光
地面を割って這い出てくるそれは、通常の魔獣とは違う。体表に暗紫色の結晶が鎧のように密集し、四つの赤い目が闇の中で脈動している。地下で魔核に最も近い場所で育った個体——エミルが「地核種」と呼んだそれは、地上の魔獣の三倍の体躯を持ち、ヘルムガルド鋼の剣でさえ結晶の甲殻に弾かれた。
城壁の上から見下ろしていた。第二防衛線の丘陵で、ルキウスが五名の精鋭と共に地核種に立ち向かっている。結晶の関節の隙間を狙い、六人がかりで一体を仕留める。しかし——地下から這い出る地核種は止まらない。一体倒す間に、二体が現れる。
エミルの魔術は限界を超えていた。蒼い光がちらつき、攻撃魔術の威力が目に見えて落ちている。三日間ほとんど眠らず魔術を行使し続けた代償だ。
「エミル殿。もう休んでください」
「まだ——やれます。結晶の共振周波数を特定できれば、一撃で砕ける可能性が——」
「倒れたら終わりですわ。あなたの頭脳は剣より貴重です」
エミルが膝をついた。限界だった。眼鏡が割れて片方のレンズが失われている。その目で、まだ数字を追おうとしている。学者の執念が体を動かしていたが、体が追いつかない。
ルキウスが城壁に一瞬だけ戻ってきた。右腕の包帯に血が滲んでいる。聖光火傷の治りかけた傷が再び開いたのだろう。
「第二防衛線は持っているが——地核種を止められない。俺の剣でも、関節を狙って三撃かかる。一体に三撃だ。その間に他の奴が壁を乗り越えてくる」
「援軍は——」
「使えるものは全て使っている。あとは——あの子の力しかない」
リリアーヌ。ルキウスもそう思っている。しかしセラフィーナは首を振った。まだだ。まだ使わせない。
ルキウスは何も言わず第二防衛線に戻っていった。背中の傷が、赤い血で新しい模様を描いている。
負傷者は増え続けていた。野戦医療所のオルガが報告してきた。
「聖光草のエッセンスが残り五本。重傷者は十二名。止血用の薬草もあと半日分」
数字を帳簿に書き込んだ。矢は三分の一。食料は二日分。医薬品は半日分。兵力は——百二十名の護衛隊のうち、戦闘可能なのは八十名を切った。負傷者三十二名、戦死者が——初めてこの数字を書いた——四名。
四人。名前を知っている。顔を知っている。昨日、広場で手を挙げた人たちだ。
帳簿の上で数字が滲んだ。涙だと気づくのに一瞬かかった。拭った。今は泣く時間ではない。
◇
リリアーヌが野戦医療所から姿を消したのは、その直後だった。
ナターリアが息を切らせて走ってきた。目に涙が浮いている。
「リリアーヌが——前線に行きました。止めようとしたけど——あの子、泣きながら走っていきました。『もう我慢できない、みんなの痛みが聞こえる』って」
感情読み取りの力。リリアーヌは戦場の全員の苦しみを受け止め続けていたのだ。負傷者の痛み。死者の恐怖。戦っている兵士たちの絶望。全てが——十四歳の少女の中に流れ込んでいた。
血の気が引いた。走った。城壁の階段を駆け下り、北門を抜け、第二防衛線に向かう。泥に足を取られながら。帳簿を胸に抱えたまま。走れ。走れ。走れ。前世で駅の階段を息切れしながら上がっていたあの体ではない。辺境の坂道を歩いた足が、泥の中を駆ける。
丘の上で、光が見えた。
リリアーヌが——額の聖女の紋章を輝かせ、両手を天に掲げていた。金色の光が少女の体から溢れ出し、辺境の空を白く染め上げていく。夜が昼に変わった。赤黒い魔力の光が聖光に呑み込まれ、消えていく。
「リリアーヌ! やめなさい!」
叫んだ。しかし声は光の中に吸い込まれた。
聖女の光が戦場を覆った。
圧倒的だった。金色の光が波紋のように広がり、触れた魔獣が悲鳴を上げて後退する。黒い鱗が光に灼かれ、煙を上げて剥がれ落ちる。地核種ですら暗紫色の結晶が罅割れ、苦悶の咆哮と共に地面にのたうち回っている。ルキウスの精鋭たちが唖然として動きを止めた。人の力で倒せなかったものが——光の前に膝を折っている。
同時に——傷ついた兵士たちの傷口が淡い光に包まれ、出血が止まった。裂傷が塞がる。折れた骨が——繋がっていく。野戦医療所で横たわっていた重傷者が、自分で起き上がった。奇跡だ。しかし——奇跡には代償がある。
リリアーヌの口から血が溢れた。
鮮やかな赤だった。金色の光の中に、赤い血が滴り落ちる。少女の体が震えている。足が——浮いている。光に持ち上げられるように、地面から数センチ浮遊している。母のノートに書いてあった。聖女の力は生命力を燃料にする。歴代七名のうち六名が三十歳前に死亡。リリアーヌは十四歳だ。この力を使い続ければ——。
「やめて! お願いだから!」
走った。光の中に飛び込んだ。熱い。肌が焼けるような光の圧力。しかし構わず走り、リリアーヌに手を伸ばした。
リリアーヌの目がこちらを見た。涙を流している。しかし——笑っていた。
「セラフィーナ様。あなたが教えてくれたんです。自分で選べと」
「これは——こんなの——」
「私はもう、守られるだけの子供じゃありません」
リリアーヌの手を掴んだ。光が腕を焼く。肌が赤く灼ける。痛い。しかし手を離さなかった。離せなかった。ルキウスが聖光火傷を負った時と同じだ。この子を守ろうとした人は、必ず光に焼かれる。それでも——手を離す人間はいない。
「リリアーヌ。もう十分ですわ。止めてください」
声を絞り出した。光の圧力で声が掻き消されそうになる。しかし届いた。リリアーヌの目が、焦点を取り戻した。
光が——緩やかに収束していった。リリアーヌが力を制御し始めている。暴走ではない。聖光草のエッセンスを使った訓練で学んだ制御技術が、極限の状況でも機能している。エミルの教えが、この少女を守っている。しかし——既に代償は払われた。
リリアーヌの体が崩れ落ちた。セラフィーナが受け止めた。腕の中の少女は——軽い。軽すぎる。生命力が削られた体は、まるで紙のように軽かった。
「リリアーヌ。リリアーヌ」
名前を呼んだ。返事がない。息はある。しかし体温が——異常に低い。
涙が止まらなかった。リリアーヌの頬に自分の涙が落ちる。温かいはずの涙が、冷たい肌の上ですぐに冷える。
前世でも——佐藤凛は一度だけ泣いた。過労で倒れた同僚を救急車に乗せた日。あの時と同じ無力感が胸を満たしている。大切な人が倒れて、自分には何もできない。帳簿の数字で命は救えない。この手には——剣も魔術も、聖女の光もない。帳簿しかない。帳簿では——人を癒せない。
ナターリアが駆けつけた。
「リリアーヌ。リリアーヌ、私よ」
ナターリアがリリアーヌの手を握った。冷たい手を、両手で包み込む。
「私が看ます。セラフィーナ姉様は——戦場の指揮を続けてください。ここは任せて」
ナターリアの目が真剣だった。公爵令嬢の気品は消え、戦場で生きる女性の目になっている。
リリアーヌをナターリアに託した。立ち上がった。膝が震えている。涙の跡が頬に冷たい筋を作っている。しかし——立った。
「二度とこんなことはさせない」
誰に向けた言葉かわからなかった。自分に。神に。この世界の構造に。
戦場では——リリアーヌの光が退かせた魔獣が、再び集まり始めていた。一時的な撤退だ。光が消えれば、また来る。地核種も地上の魔獣も、北の闇の向こうでこちらを窺っている。赤い目が無数に光っている。しかし——時間を稼いだ。少なくとも数時間の猶予。この数時間で何ができるか。帳簿を開いた。手が震えているが、数字は書ける。リリアーヌが命を削って買ってくれた時間を、一秒も無駄にできない。
城壁の南側で、教会の使節団長の老人が空を見上げていた。リリアーヌの聖光が空を染めた瞬間を、最初から最後まで見ていたのだろう。
「これで証拠は揃いました。百年ぶりの真聖女。枢機卿猊下にお伝えせねば」
老人の声が、静かな風に乗って聞こえた。唇の端が歪んでいる。笑みだ。しかし慈悲ではない。長年追い求めた獲物を見つけた捕食者の笑みだ。この老人は——リリアーヌが血を吐いて倒れるのを見ても、微笑んでいた。聖女の力だけが欲しい。聖女の命には——興味がない。
聖女の力が——王都にまで届いた。エミルの予言通りだ。教会の感知網が捉えた。これで教会は、リリアーヌを「迎える」大義名分を完全に手に入れた。
魔獣を退けた光が——教会を呼ぶ光にもなった。守るための力が、新たな脅威を招く。何という皮肉。何という残酷な構造。
これがゲームの「処刑エンド」に繋がるシナリオなのだ。聖女を守る。教会に睨まれる。異端審問。処刑。全てが——リリアーヌの光を利用する形で進行している。
しかし——ゲームのシナリオは書き換える。エミルが言った。「物語の役割を拒否する」ことで構造を壊す。処刑エンドなど、絶対にさせない。
リリアーヌが寝息を立てている。ナターリアが毛布をかけ、冷たい手を温め続けている。この二人を——守り切る。何があっても。




