経営者の戦場——補給線を守り抜け
作戦室の地図を広げた。蝋燭の灯りで戦況を確認する。ルキウスは第二防衛線に四十名を展開中——北の本隊と交戦が続いている。ラウルは山道に十名。予備兵力は城壁に二十名——しかしこの二十名を動かせば、最終防衛線である城壁の守りが手薄になる。どの駒を動かしても、どこかに穴が空く。
前世なら——これは予算配分の問題に似ている。限られた資金をどの部署に振り分けるか。しかし今は資金ではなく人命だ。判断を間違えれば、誰かが死ぬ。
「ルキウス殿に伝令を。山道への援軍は出せません。第二防衛線の維持を優先してください」
フランツが伝令に走った。
「——ギュンター殿を呼んでください」
ギュンターが息を切らせて来た。商人の顔が、戦場の泥で汚れている。
「山道のバリケードを強化します。鉱山用の発破材はまだありますか」
「ある。坑道の拡張用に備蓄していた分が二十発。硫黄と硝石もまだ残っている」
「それを山道に運びますわ。ラウル殿の十名では数で押し返せない。なら——地形ごと崩す」
ギュンターの目が光った。商人は商機を見つけた時に目が光る。この男は、戦場でも同じ目をしている。
「俺が現場を仕切ろう。山道の地形は商人が一番よく知っている。どの岩を崩せば道が塞がるか、どの木を倒せば通行不能になるか——荷馬車を通す時にさんざん計算した」
「お願いしますわ」
ギュンターが発破材と縄を担いで走っていった。商人が鉱山用の爆薬を持って戦場に向かう。この辺境では、職業の境界が意味を持たない。全員が、できることで戦う。
◇
西の山道に向かう途中、マルクスの弟子二人と合流した。鍛冶場から持ち出した鉄の棒と鎖——即席の罠の材料だ。マルクス自身は鍛冶場を離れられない。矢じりの量産が止まれば、第二防衛線が崩壊する。
「師匠が言ってました。『罠は鋼の値段以上の仕事をする』って」
弟子の少年が言った。あの十五にもならない少年だ。手が震えている。しかし鉄の棒を握る力は強い。師匠の教えが、恐怖を押さえ込んでいる。
山道の入口に着いた。
冷たい風が山から吹き下ろしている。朝露に濡れた岩肌が薄暗い光を反射していた。この山道は、平時にはギュンターの商隊が荷物を運ぶ交易路だ。何度も通った道。しかし今は——魔獣が這い上がってくる獣道に変わっている。
ラウルの十名が既に倒木でバリケードを組んでいた。山道は狭い。馬車一台がやっと通れる幅。両側は急斜面で、切り立った岩壁が十メートルほどの高さで聳えている。上から岩を落とせば道は塞がる。
ラウルが駆け寄ってきた。顔に切り傷がある。
「別働隊の先頭が山道を登り始めている。あと十五分で接触する」
「発破材を持ってきましたわ」
ギュンターが発破材を並べ始めた。山道の両側の岩壁に穴を開け、発破材を詰める。導火線を引き、点火すれば岩壁が崩れて道を塞ぐ。しかし——タイミングを誤れば自分たちも巻き込まれる。
「ギュンター殿。魔獣が山道の中央に入った瞬間に起爆しますわ。早すぎれば入口を塞ぐだけ、遅すぎれば突破される」
「在庫管理と同じだな。タイミングが全て。早すぎても遅すぎても損をする」
ギュンターが乾いた笑いを漏らした。命がけの冗談だが、笑えた。恐怖の中で笑える人間は強い。
マルクスの弟子たちが鎖の罠を山道の入口に設置した。地面すれすれに張った鎖に足を取られれば、魔獣の突進が一瞬止まる。その一瞬が、発破の起爆タイミングを作る。
「セラフィーナ様。ここから先は危険です。城壁に戻ってください」
ラウルが言った。傷だらけの顔に、偵察兵長としての冷静さが残っている。この男はルキウスの次に戦場を知っている。彼の判断は信頼できる。
「補給の指揮を現場で出さないと、連絡が遅れますわ。ここにいます」
嘘だ。本当は——前線に出られない自分が、せめてここまで来たかった。帳簿を持った手で、一メートルでも前線に近づきたかった。城壁の上から数字だけを眺めているのは——もう嫌だった。
魔獣の唸り声が山道の奥から聞こえてきた。低く唸る声が岩壁に反響して四方から迫ってくる。どこから来ているのかわからない。一体ではない。十体以上の咆哮が重なり合い、山道全体が震えている。足の裏に振動が伝わる。近い。
ラウルが剣を抜いた。十名の精鋭が陣形を組んだ。バリケードの後ろに構え、山道の曲がり角を見据える。
最初の魔獣が姿を現した。
黒い鱗の四足獣。体長は人の倍。赤い目が暗い山道の中で燃えている。その後ろに、二体、三体——次々と山道を這い上がってくる。鎖の罠に先頭の一体が足を取られた。一瞬だけ動きが止まる。
「まだ。まだ引き込みますわ」
セラフィーナが声を上げた。声が掠れている。しかし頭は冷静だ。もっと奥まで引き込まなければ効果が薄い。発破の効果範囲に入るまで——あと三体分の距離。
二体目が鎖を踏み越えた。三体目がバリケードに体当たりする。倒木が軋む。ラウルの精鋭が槍で突き、魔獣の突進を受け止める。四体目、五体目が後続から押し寄せる。
「今ですわ」
ギュンターが導火線に火を放った。火花が線を走る。一秒。二秒。三秒——。
爆音が山道を揺らした。
世界が白くなった。一瞬の空白。次に来たのは、全身を叩く衝撃波と、耳を裂く轟音だった。岩壁が崩れ、何トンもの土砂が魔獣の群れを飲み込んだ。煙と粉塵が山道を覆い、呼吸ができない。目に砂が入る。ラウルが腕でセラフィーナを庇った。
咳き込みながら煙の向こうを見た。
煙が晴れた時、山道は岩と土で完全に塞がれていた。高さ三メートルの岩の壁が、道を遮断している。魔獣の別働隊は——土砂の下だ。鱗の欠片が岩の隙間から覗いている。動いていない。
歓声が上がった。ラウルの精鋭たちが拳を突き上げている。ギュンターが煤だらけの顔で笑っている。マルクスの弟子の少年が、座り込んだまま泣いていた。怖かったのだ。当然だ。十五に満たない子供が爆発の中にいた。しかし——逃げなかった。
しかし——その歓声が消えないうちに、足元が揺れた。
発破の振動ではない。もっと深い場所から。地面の下から。
「何だ——」
ラウルが地面を見た。山道の脇にある廃坑の入口——普段は板で塞がれている場所の板が、内側から弾け飛んだ。
暗闇の中から、赤い目が光った。一つではない。無数の赤い光が、坑道の奥から這い出してくる。
地上だけではなかった。地下にも——巣があった。
エミルの声が脳裏に蘇った。「魔核が魔獣を呼んでいるんです」。魔核は地下にある。地下の魔獣は——魔核に最も近い場所で生まれ、育っていた。
「全員退避。山道の部隊は城壁に後退してください」
声が裏返りそうになった。それでも——命令を出す。それが今の自分の仕事だ。
ラウルが精鋭たちに撤退を指示した。ギュンターが弟子の少年を抱え上げ、走り出す。
「セラフィーナ様、走れ」
ラウルの声に従い、山道を駆け下りた。背後で坑道の入口が更に崩れる音がした。岩が砕ける音。そして——無数の爪が岩を削る音。ガリガリと、ガリガリと。地下から這い出てくるものたちの音。
振り返りたくなかった。しかし振り返った。
坑道の暗闇から、地上の魔獣より一回り大きな個体が這い出していた。体表に暗紫色の結晶が密集して生えている。目が四つある。地上の魔獣とは——明らかに種類が違う。魔核に近い場所で変異した、より強力な存在。
足元の地面が膨らんだ。ここだけではない。あちこちで——地面が膨らんでいる。地下の巣が、発破の振動で目覚めた。
走った。全力で。帳簿を胸に抱え、泥だらけの足で山道を駆け下りた。前世の佐藤凛は駅の階段で息が切れる体力だった。しかし今の体は——セラフィーナの体は走れる。辺境の坂道を毎日歩いて鍛えた足が、今この瞬間に命を救う。
城壁が見えた。南門が開いている。ヨハンが門の前で手を振っている。
「早く、早く」
全員が門をくぐった。ラウルが最後に飛び込み、重い門が閉じられた。
門の向こうで、地面が裂けた。廃坑を起点に、地下の魔獣が地表に噴出し始めている。山道だけではない。城壁の北西——廃坑の入口が点在する一帯から、次々と魔獣が湧き出している。
地上の千体に加えて——地下からの増援。これが魔核の力だ。磁石が砂鉄を集めるように、魔獣を呼び、魔獣を生む。母が「目覚めさせてはならない」と書いた理由が、今ようやくわかった。
城壁の上でエミルの報告を受けた。眼鏡が割れている。魔力の消耗で顔が青白い。
「地下の個体は地上のものより魔力結晶の含有量が多い。おそらく——魔核に近い場所で長期間育った個体です。通常の武器では——」
「わかっていますわ」
通常の武器では倒せない。エミルの魔術も限界。残る手段は——リリアーヌの力。しかし、まだ使わせたくない。まだ。
しかし——「まだ」がいつまで続くのか。その答えを、帳簿の数字は出してくれない。




