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処刑エンドの悪役令嬢に転生したので攻略対象を全員回避して辺境で起業したら、なぜか王太子が追いかけてくるんですが  作者: ぽんぽこライフ


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嵐の前——処刑エンドのカウントダウン

 風がない。鳥の声が遠い。薬草園の聖光草だけが、金色の光を放ち続けている。昨夜の覚醒の残響だろう。リリアーヌの額の紋章も、まだ微かに光っている。


 セラフィーナは執務室で、全ての情報を整理していた。帳簿と同じだ。入ってくる情報を項目ごとに分類し、優先順位をつけ、対策を割り当てる。しかし帳簿の数字と違って、ここに並ぶのは脅威のリストだ。


 一、教会の大使節団。枢機卿直属の高位神官団と聖騎士、総勢五十名。目的は聖女の「迎え入れ」——実質的な奪取。到着まで推定十日以下。


 二、北方の魔獣。三体確認。うち二体が領地の境界に接近中。リリアーヌの感知によれば、あと三日で到達。ルキウスが護衛隊とラウルの偵察班で対応中。


 三、カーティスの商業妨害。ノーヴァル商会は商務大臣の指揮下で再編中。直接的な攻撃は減ったが、教会との連携は続いている。


 四、父アルベルトの意図。手紙への返答はまだ来ていない。沈黙が意味するものが——協力の検討なのか、拒絶の前兆なのか、読めない。


 五、ゲームのシナリオ。聖女覚醒完了。次のイベントは——「悪役令嬢の断罪」。


 五つの脅威が同時に動いている。前世の佐藤凛なら——この時点で心が折れていたかもしれない。深夜のオフィスで、締め切りの重なった仕事の山を前に呆然と立ち尽くした夜を思い出す。あの時は一人だった。隣の席は空っぽで、上司は帰宅済みで、清掃員だけが廊下を通り過ぎた。一人で抱えて、一人で潰れて、一人で死んだ。


 しかし今は違う。隣の席にはヨハンがいる。廊下にはヘルガがいる。門にはルキウスがいる。研究室にはエミルがいる。中庭にはナターリアとリリアーヌがいる。もう孤独ではない。


 エミルが研究室から来て、報告した。


「全てが同時に動いている。これは偶然ではありません」


「偶然ではない?」


「この世界には——ゲームのシナリオが『引力』のように作用している可能性がある。聖女が覚醒すれば教会が動く。教会が動けば断罪のシナリオが起動する。魔獣の接近も、百年周期の魔力循環の一部。全てが——一つの構造の中で連動している」


「つまり——抗えないということですか」


「いいえ」


 エミルが首を横に振った。


「あなたは既に物語を大きく変えている。婚約破棄を自分の手で行った。辺境を経済的に自立させた。攻略対象を味方にした。聖女を守り、聖女が自分の意志で覚醒した。これだけの変数が積み重なっている。だからこそ——結末も変えられる」


「根拠は」


「根拠は——あなた自身です。あなたが存在すること自体が、物語の想定外だ。佐藤凛の知識と、セラフィーナの立場と、辺境で築いた全ての絆。この組み合わせは——ゲームのどのルートにも存在しない。物語の構造は、あなたのような変数を処理できない。だから——勝てる」


 勝てる。エミルが「勝てる」と言った。この男が感情ではなく分析に基づいてそう言うなら——信じられる。


 しかしエミルはもう一つ、警告を付け加えた。


「ただし——一つだけ、僕にも予測できないことがある」


「何ですか」


「地下に眠るもの。母上のノートが警告したもの。魔力脈の活性化と聖女の覚醒が重なった時、地下の封印に何が起きるか——データがない。百年前の記録にも、封印の状態については何も書かれていない。あるいは——記録する前に全滅した可能性がある」


 記録する前に全滅。ep077でエミルが言った言葉が蘇った。百年前の前回の記録が一部欠落しているのは——記録者がいなくなったからだ。


「最悪のケースは——教会と魔獣と地下からの脅威が同時に来ることです」


 三正面作戦。いや、教会と魔獣と地下で三方面、さらにカーティスと父の動きで五方面。経理部主任時代に「三つ以上の案件を同時に抱えるな」と教わった。しかし今は——五つ同時だ。


「やるしかないですわ。帳簿を閉じる時が来るまで」


 エミルが頷いた。共犯者の頷きだった。


 午後、レオンハルトから緊急の密書が届いた。鴉便ではなく、専用の早馬で運ばれたものだ。封蝋を切る手が震えた。


『セラフィーナ。


 教会が大使節団を派遣する。規模は五十名。枢機卿直属だ。余は議会を動かして阻止する準備をしている。百五十年前の先例——王権が教会裁判を拒否した「ヴィーゼンベルク勅令」をフリッツが発見した。この先例を根拠に、王太子命令として教会裁判の管轄権を否定する宣言を出すことが可能だ。


 しかし——この宣言は、教会との全面対立を意味する。王国を二分する可能性がある。父上——国王陛下の承認が必要だ。今、父上を説得している最中だ。


 最悪の場合に備えよ。教会が大使節団で押し切ろうとした場合——余は辺境に向かう。王太子自らが辺境に立てば、教会は王族の面前で強行手段を取れない。政治的なシールドになる。


 共に戦う。そなたの手紙の言葉を、余はそのまま返す。


 一つだけ——頼みがある。生きていてくれ。何があっても。余が着くまで』


 最後の一文で、視界が滲んだ。涙ではない。涙ではないと自分に言い聞かせた。前世の佐藤凛は——こんな言葉を、誰からも言われたことがなかった。「生きていてくれ」。ただそれだけの言葉が、どれほど重いか。深夜のオフィスで倒れた時、最後に見たのは蛍光灯の白い光だった。「生きていてくれ」と言ってくれる人が一人でもいたら——倒れる前に、助けを求められたかもしれない。


 手紙を胸に押し当てた。温かくはない。紙だから。しかし——言葉の温度が、紙を通して伝わってくるような気がした。


 ヨハンが入ってきた。セラフィーナが手紙を胸に当てているのを見て、一瞬だけ足を止めた。しかし何も言わず、いつも通り茶を置いた。この男は——見ている。全てを見ている。しかし見たことを口にしない。それが——ヨハンの優しさだ。


「ヨハン」


「はい」


「全員を集めてください。これから——最後の作戦会議をします」


「承知いたしました」


 ヨハンが去った後、セラフィーナはレオンハルトの手紙を丁寧に折り畳み、執務机の引き出しにしまった。母のノートの隣に。母の遺言と、レオンハルトの約束。二つの手紙が——セラフィーナの背中を支えている。


 夕方、セラフィーナは仲間たちを集めた。全員が会議室に集まっている。ルキウス、エミル、ギュンター、ヨハン、ヘルガ、ナターリア、リリアーヌ。オルガとマルクスも呼んだ。ラウルも、偵察から戻ったばかりだ。


 全員の顔を見回した。一人一人が——この辺境を守るために、ここにいる。この半年で築いた絆だ。帳簿の黒字だけでは測れない。しかし——この絆こそが、セラフィーナが前世で手に入れられなかったもの。そしてこの世界で手に入れた、最も大切なもの。


「皆さんに報告があります」


 声を出した。震えていないか、確認した。震えていなかった。


「教会の大使節団が来ます。総勢五十名。目的は——リリアーヌさんの連行です。そして——私自身も、教会の調査対象になっています。最悪の場合、教会裁判にかけられる可能性があります」


 静まり返った会議室に、セラフィーナの声だけが響いた。


「しかし——私たちが築いたものは、誰にも奪わせません」


 ゲームの正体は明かせない。「物語のシナリオ」とは言えない。しかし——言わなくても伝わることがある。


「この辺境は、皆さんが作りました。ヘルムガルド鋼を打つマルクスさん。薬草園を守るオルガさん。帳簿をつけるヨハン。茶を淹れるヘルガ。剣を握るルキウスさん。知恵を絞るエミルさん。情報を集めるギュンターさん。噂を流すナターリア。力を制御するリリアーヌさん。偵察に走るラウルさん。全員が——この場所の一部です」


 マルクスが腕を組んだ。「俺は鉄を打つだけだ。でも——ここの鉄は、ここで打つから価値がある」


 オルガが微笑んだ。「フリードリヒが見たら、喜ぶわ」


 ルキウスが短く言った。「守る」


 リリアーヌが手を握り締めた。額の紋章が光っている。「私も——守ります」


 ヘルガが目を閉じた。四十年の記憶が、その瞳の奥にある。「エリザベート様。お嬢様は、あなたより——強くなりましたよ」


 セラフィーナは息を吸った。全員がいる。全員が、ここにいる。


「教会が来ても。魔獣が来ても。私たちは——ここにいます」


 窓の外で、日が沈んでいく。辺境の空が赤く染まっている。北方の山の向こうで、光が脈動している。魔獣の気配だ。そして南の方角からは——教会の大使節団が、王都を出発している。


 枢機卿直属の高位神官団と聖騎士。総勢五十名。同時に、北方の空が真昼のように光り、魔獣の咆哮が風に乗って辺境の城壁まで届いた。低く、重く、地面を震わせる咆哮だった。


 教会と魔獣。二つの嵐が、同時に辺境を襲おうとしている。


 しかし——嵐の中心にいるのは、独りではなかった。帳簿と剣と知識と薬草と、蜂蜜菓子と聖光草の光を携えた仲間たちがいる。


 処刑エンドのカウントダウンが始まった。ゲームなら、ここで調べが変わる。不穏な旋律が流れ、画面が暗転し、「第七章——断罪」のタイトルが表示される。


 しかし——ここはゲームではない。楽の音はない。タイトルもない。あるのは——風の音と、仲間たちの息遣いと、遠くから聞こえる魔獣の咆哮だけだ。


 カウントダウンの先にある結末は、まだ決まっていない。決めるのは——自分たちだ。

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