北の空が燃える夜
北から吹く風に、鉄錆のような匂いが混じっている。春の匂いではない。動物園の獣舎を思い出させる生臭さ。いや——動物園よりもっと原始的な、何かの内臓を裂いたような濃い獣臭だ。
城壁の見張り台に登ったのは、エミルの緊急呼び出しがあったからだった。早朝の帳簿作業を中断させるほどの緊急度。エミルが声を荒げることは滅多にないのだが、今朝の伝令では「すぐに」が三度繰り返されていた。
石段を駆け上がると、既にエミルが見張り台の北側に立っていた。風に外套がはためいている。手に持った魔力測定器の針が振り切れていた。
「セラフィーナさん、北を見てください」
エミルの声が硬い。学者の冷静さが剥がれかけている。
北の空を見た。
赤黒い。夕焼けとは違う。血の色をした光が地平線から空を侵食している。空の端が膿んでいるようだった。その赤黒い光の中を、何かが脈動している。雲ではない。光そのものが生き物のように蠢いている。
足元から低い振動が伝わってきた。地鳴りではない。もっと複雑で、もっと不規則な振動。何百もの足が大地を踏みしめる音。城壁の石組みが軋み、見張り台の欄干に置いた手に細かい震えが伝わってくる。遠い北の森の輪郭が揺らいで見えた。木々が倒れているのだ。森そのものが押し潰されながら、何かがこちらに向かっている。
「魔獣の群れです。魔力脈が活性化して以来、少しずつ南下していましたが——ここ数時間で急激に加速しています。規模は——」
エミルが言い淀んだ。眼鏡の奥の目が、数字と戦っている。学者が数字を口にするのを躊躇している。それ自体が答えだった。
「百年前の記録にある『大侵攻』に匹敵する可能性があります」
百年前。母のノートに記されていた周期。それが今、現実になろうとしている。
その時、城壁の下から角笛の音が響いた。三度の短い吹鳴。ルキウスの護衛隊が定めた警戒信号。意味は「多数の敵を確認」。
同時に、南の街道からも別の角笛が聞こえた。こちらは教会の儀式用の角笛だ。白く澄んだ音色は、礼拝堂の天井に反響するために設計された荘厳さを持っている。その聖なる音が北の獣の咆哮と混ざり合い、不協和音が辺境の空に広がった。聖と獣が同時に辺境の門を叩いている。
「教会の大使節団です。南から接近中。五十名の隊列」
ヨハンが息を切らして城壁に上がってきた。
北から魔獣。南から教会。挟み撃ちだ。
しかし——笑えるほど皮肉なことに、魔獣の脅威が教会の問題を吹き飛ばした。教会の使節団が辺境に足を踏み入れた瞬間、北の空から響き渡った咆哮が大地を震わせ、使節団の先頭を行く騎馬が暴れ出したのだ。
城壁から南の街道が見える。教会の白い隊列が混乱している。聖騎士たちが馬を制御しようと格闘し、高位神官たちの輿が街道の脇に寄せられている。使節団長と思しき人物が——黒い法衣の老人が——北の空を見上げて、奇妙に静かに立っている。混乱の中で、その人物だけが動じていない。
知っていたのか。この事態を。教会は魔核の存在を知っていた。百年周期の活性化も知っていた。ならば——魔獣の大規模侵攻も予測していたのではないか。
考えを振り払った。今は分析の時間ではない。
「まず領民の安全を確保しますわ」
声は自分でも驚くほど冷静だった。しかし机の下——いや、城壁の縁を掴む手は震えている。前世の会社で防災訓練を何度も受けた。地震対応マニュアル。火災避難手順。帰宅困難者の対応。あの退屈だった研修が、今この瞬間に蘇ってくる。
領主館に駆け戻った。大広間に入ると、既にルキウスが地図を広げていた。ヘルガが領民の名簿を持って待機している。ギュンターが南門と北門の様子を報告しに来た。ナターリアがリリアーヌの手を握って隅に座っていた。二人の顔は蒼白だが、目だけは前を向いている。
「ルキウス殿、北方の状況を」
「ラウルが偵察班を出した。報告待ちだ。ただし——城壁の振動から推測すると、相当な数が来ている。先月の偵察で確認した三体とは桁が違う」
「エミル殿、魔力の計測は」
「魔力脈の活性化が臨界に近づいています。魔核の鼓動が地上に伝播し、北方の魔獣を引き寄せている。磁石が砂鉄を集めるように——魔核が魔獣を呼んでいるんです」
魔核。母が「決して目覚めさせてはならない」と警告したもの。それが今、千体の魔獣を辺境に招いている。
「避難計画を立てますわ。ヘルガ、領民名簿を」
「ここにあるよ」
ヘルガが分厚い名簿を差し出した。全世帯の住所、家族構成、年齢、特技。ヘルガが何十年もかけて蓄積した情報だ。この情報があれば、誰をどこに避難させ、誰が何の役割を担えるかが即座にわかる。前世で培った組織管理の知識と、ヘルガの領民データベースが結合する。
「七十歳以上と十歳未満の子供は領主館の地下室へ。妊婦と病人も同じく。ヨハン、伝令を各戸に出して」
「はい、すぐに」
ヨハンが駆け出した。この従者は走ることに関しては辺境で一番だ。
「戦闘可能な成人は後方支援に割り振ります。直接戦うのは護衛隊だけ。残りの領民には食料の配給、負傷者の搬送、伝令、炊き出しを担当してもらいます。全員に役割を与えますわ。役割がない人間を一人も作らない——それが混乱を防ぐ最善の手段です」
前世の災害対応マニュアルが異世界の戦場に適用されていく。避難所の設営、物資の配布ポイント、傷病者の優先順位。横文字の概念を中世の辺境に翻訳していく作業は、かつて経理部で国際基準の会計処理を導入した時に似ている。仕組みは違っても、「人を守るための手順」という本質は変わらない。
教会の使節団については一旦保留にした。南門の外で混乱しているが、魔獣が来ている以上、門を開けて中に入れるべきだろう。しかし——あの使節団長の不自然な冷静さが引っかかる。
「教会の人たちはどうしますの」
ナターリアが聞いた。
「門を開けますわ。今は敵味方ではない。生き残ることが先です」
ギュンターが南門を開けに走った。
使節団が門をくぐり始めたのは、それから間もなくだった。白い法衣の列が南門から流れ込んでくる。聖騎士たちは武装を解かないまま中庭に入り、警戒の目を北の空に向けている。使節団長の老人は最後に門をくぐった。黒い法衣の裾が石畳を擦る音が、妙に耳に残った。老人はセラフィーナの方を一瞥し、何も言わずに聖騎士の輪の中に消えた。
ラウルの偵察班が戻ったのは、それから一時間後だった。ルキウスが報告を受け、大広間に戻ってきた時の顔が忘れられない。
蒼白だった。日焼けした騎士の顔から血の気が完全に引いている。六年間の戦場経験を持つ男が、言葉を選びあぐねていた。
「数百じゃない」
ルキウスの声が掠れていた。
「千を超える。これは——侵攻だ」
大広間が凍りついた。千体。護衛隊は百二十名。戦力比は一対八以上。城壁があっても、この数の差は絶望的だ。
ルキウスが地図の北側を指で叩いた。
「先頭集団は既に北の丘陵を越えている。速度から見て、城壁到達まで半日もない。大型の個体が混じっている——ラウルの報告では、牛ほどの体躯のものが少なくとも二十は確認できたそうだ」
数字は嘘をつかない。そして今、数字は「勝てない」と告げている。
リリアーヌが拳を握りしめていた。額の聖女の紋章が微かに光っている。覚醒を終えた少女の目には、恐怖ではなく覚悟がある。「私も守ります」——訓練の時にそう言った少女の声が蘇る。
しかし——セラフィーナは折れなかった。
震える手を腿の上で握りしめ、全員の顔を見渡した。ルキウス。エミル。リリアーヌ。ナターリア。ヨハン。ヘルガ。ギュンター。ここにいる全員が、自分を見ている。答えを待っている。
「千体であろうと一万体であろうと、やることは変わりません。領民を守る。そのために、できることを全てやる。ルキウス殿には防衛を。エミル殿には魔術支援を。私は——全員が最高の状態で戦えるように、後方を支えますわ」
前世で過労死した自分が、今度は戦場で命を賭ける。怖くないと言えば嘘になる。死ぬのは一度で十分だ。二度目はもっと怖い。
しかし——二度目だからこそ、わかることがある。守りたいものがある時、人は死の恐怖を越えられる。前世にはそれがなかった。今は、ある。この辺境。ここに暮らす二千の領民。帳簿の数字の向こうに見える一人一人の顔。マルクスの無骨な笑顔。オルガの薬草の匂い。ヘルガの辛辣な愛情。ヨハンの忠実な足音。ナターリアの柔らかい手。リリアーヌの光る掌。エミルの知的な微笑み。ルキウスの不器用な優しさ。そして——レオンハルトが「生きていてくれ」と書いた手紙の筆跡。
全てを守る。何があっても。
北の空が赤黒く脈動している。千の魔獣が迫っている。教会の使節団が門の中で不気味に待機している。三つの嵐が同時に辺境を呑み込もうとしている。
しかし——辺境には、この地を愛する全ての人々がいる。それが最大の武器だ。
大広間を出る時、ヘルガが背後から声をかけた。
「エリザベート様も、同じ顔をしていたよ。あの人が領地を守った時と同じ目だ」
振り返らなかった。振り返ったら泣きそうだったから。代わりに、一歩を踏み出した。母が守ったこの地を、今度は自分が守る番だ。




