帳簿の中の亡霊
暴走事件の処理が一段落し、セラフィーナは執務室に戻って領地の帳簿を広げた。エミルとの戦略会議で頭の中は物語の構造図でいっぱいだったが、帳簿を開くと頭が切り替わる。帳簿は正直だ。数字の前では、物語の構造も教会の脅威も——一旦脇に置ける。
問題は、北方警備費の不明送金だった。
以前から気になっていた三件の定額送金。毎月十五日、王都信用金庫経由で辺境の特別会計に振り込まれている。金額は一件あたり五十ギルダー。年間六百ギルダー。小さな額ではないが、領地の総予算に比べれば目立たない。だからこそ見逃されてきた。
一件目の送金元は——既に判明している。アルベルト公爵の私費からの振り込み。父が辺境の警備費を個人的に負担していた。理由は分からない。しかし父が辺境に何らかの関心を持っていたことは確かだ。
問題は二件目と三件目だ。送金元の記載が曖昧で、「王都管理基金」としか書かれていない。王都には様々な管理基金がある。どの基金かを特定するには、王都側の帳簿を突き合わせる必要がある。
ギュンターに依頼して、フェルディナントを通じて王都の金融機関に照会してもらっていた。その回答が、今朝届いた。
「セラフィーナ様。フェルディナント殿からの回答書です」
ヨハンが封蝋付きの書簡を差し出した。封蝋にフェルディナントの私印が押してある。信用できる経路だ。
封を切り、中の書類を広げた。金融機関の照会回答書。送金元の正式名称が記されている。
二件目——「聖光教会中央管理基金」。
手が止まった。
教会だ。聖光教会が、何十年も前から辺境に資金を流していた。
三件目を見た。「聖光教会地方監視基金」。
二件とも教会だった。教会は二つの異なる基金から、辺境に毎月送金していた。合計で月百ギルダー、年間千二百ギルダー。しかも記録を遡ると——最初の送金は三十年以上前からだ。エリザベートが修道院にいた頃から。
「……教会が、この辺境を三十年間監視していた」
声が震えた。三十年。母が追放される前から。つまり——教会は母の研究を通じて辺境の魔力脈を知り、聖女が覚醒する可能性のある場所として監視していた。マルガレーテの来訪も、ヴィクトルの巡回も——突然の出来事ではなかった。三十年間の監視の延長線上にある。
帳簿をさらに精査した。送金の使途を追う。北方警備費の明細に「定期巡回費」「施設維持費」という項目がある。しかし具体的にどの施設を維持しているのかが記載されていない。金額の推移を見ると、最初の十年は月五十ギルダーだったが、十五年前から月百ギルダーに増額されている。何があったのか。ちょうどその頃——母エリザベートが亡くなった年だ。
母の死後、教会は監視費用を倍増させた。母がいなくなったことで、何かの均衡が崩れることを恐れたのだろうか。
前任の領主代官は、この送金を受け取って何に使っていたのか。ヘルガに聞く必要がある。
「ヘルガ。少し聞きたいことがあるのですが」
ヘルガを執務室に呼んだ。帳簿を見せた。
「この送金、覚えがありますか」
ヘルガが帳簿を覗き込んだ。老眼だが、数字は読める。四十年この領地にいる女だ。帳簿の中身に覚えがないはずがない。
「ございます。前の領主代官——ハルトマン様の時代から、毎月届いておりました。ハルトマン様は『王都からの補助金だ、気にするな』と仰っていました。しかし私は不思議に思っておりました。なぜ辺境のような場所に、毎月決まった額の補助金が届くのか」
「教会からの送金だとは知っていましたか」
「いいえ。しかし——」
ヘルガが少し考え込んだ。
「ハルトマン様が亡くなる前に、一度だけ教会の人が来たことがあります。神官服を着た男性でした。ハルトマン様と二人きりで話をして、その後、廃坑の方角に歩いて行かれました。何時間か後に戻ってきて、そのまま帰りました」
「廃坑に」
「はい。あの封鎖された坑道の方角に。当時は何も思いませんでしたが——今思えば、あの神官は何かを確認しに来たのかもしれません」
廃坑。封鎖された坑道。魔力脈が走り、魔鉱石が眠り、母が「地下に眠るものを目覚めさせてはならない」と書いた場所。教会は——あの場所を監視していた。定期的に人を送り、状態を確認していた。
帳簿のページを遡った。送金記録の最も古いものは——三十二年前。エリザベートが修道院で研究を始めた年と一致する。つまり、母の研究がきっかけで教会は辺境の魔力脈に注目し、監視を始めた。母を追放した後も、監視だけは続けた。
母と辺境の繋がりが、帳簿の数字の中に浮かび上がってくる。
さらにページをめくった。帳簿の最後のページに——挟み込まれた紙片がある。見落としていた。前任の領主代官ハルトマンの筆跡だ。メモのようなものが走り書きされている。
『教会からの送金について。封鎖区画の定期点検費用。異常なし。ただし——エリザベート殿の娘がいつかここに来るかもしれないと、あの神官は言っていた。来た時には知らせるようにと。三十年前の約束を、私は守り続けている』
エリザベートの娘。自分のことだ。教会は——セラフィーナがいつか辺境に来ることを、予測していた。あるいは——来るように仕向けていた可能性すらある。
背筋が冷えた。婚約破棄も辺境追放も、自分が計画したことだ。自分の意志で選んだ道だ。しかし——その道の先に、教会の網が張られていたとしたら。
偶然ではなかった。自分が辺境に来たことは——教会の想定の範囲内だったのかもしれない。
「ヘルガ。もう一つ聞きます。母は——エリザベートは、この辺境を訪れたことがありますか」
「ございます」
即答だった。
「エリザベート様は、修道院を追放された後、一度だけこの辺境を訪れました。フリードリヒ——オルガの夫と、聖光草の共同研究をするために。その時に初めてお会いしました。美しい方でした。穏やかで、しかし目に強い光を持った方で——」
ヘルガの声が震えた。
「その時、エリザベート様は薬草園だけでなく、廃坑の周辺も歩いておられました。地面に耳を当てるようにして、何かを確かめていらっしゃいました。フリードリヒが『何が聞こえるのか』と聞くと、エリザベート様は——『眠っている。まだ眠っている。このまま眠っていてほしい』と仰いました」
地下に眠るもの。母はそれを、自分の耳で確かめに来た。研究ノートの警告は、理論ではなかった。母は——実際に、地下の何かの存在を感じ取っていた。
「エリザベート様は、帰り際にフリードリヒに一つだけお願いをされました。『聖光草を絶やさないでほしい。あの草が封印の一部だから』と。フリードリヒはその言葉を守って、亡くなるまで聖光草の世話を続けました。オルガが引き継いだのは——夫の遺言でもあったのです」
オルガが聖光草を育て続けた理由。フリードリヒの遺言。エリザベートの願い。何世代もの想いが、あの薬草園に重なっている。
「その後、エリザベート様は没落伯爵家に戻り、しばらくして結婚なさいました。お嬢様が生まれたのは——その数年後です。エリザベート様は出産の直前にも、一通だけ手紙をくださいました。『もし私に何かあったら、この子を辺境に近づけないでほしい』と。しかし——結局、お嬢様はここにいらっしゃいます」
近づけないでほしい。母は自分を辺境から遠ざけようとしていた。しかし運命は——あるいはゲームのシナリオは——セラフィーナをここに導いた。婚約破棄の後の辺境追放。自分が選んだと思っていた道は、母が恐れた道そのものだった。
セラフィーナは帳簿を閉じた。数字の羅列の中に、母の足跡が刻まれていた。三十年間の監視。教会の思惑。母の研究。そして——自分がここにいる意味。
ハルトマンのメモをもう一度読んだ。『ヘルムガルドに行かせてはならない——あの土地が娘の力を目覚めさせる』。
エリザベートの筆跡ではない。しかし——エリザベートの言葉だ。誰かがエリザベートから聞いた言葉を、ここに書き残した。母は知っていた。自分の娘が——聖女の力に関わる可能性を。
しかしセラフィーナは聖女ではない。リリアーヌが聖女だ。母の予見は外れたのか。それとも——「娘」とは、血の繋がった娘ではなく、自分が庇護する少女のことを指しているのか。
分からない。しかし——一つだけ確かなことがある。
自分がこの辺境に来たことは、偶然ではなかった。母の足跡も、教会の監視も、全てが一つの場所——ヘルムガルドに収束している。
帳簿を閉じて、エミルの研究室に向かった。この発見を共有しなければならない。
エミルは魔力脈の図面を前に作業していたが、帳簿の分析結果を見て顔色が変わった。
「教会が三十年間……。つまり教会は、この辺境が聖女覚醒の場所になることを予測していた。母上の研究がきっかけで辺境の魔力脈を知り、以来ずっと監視を続けていた」
「ええ。そしてマルガレーテの来訪は偵察ではなく——三十年間の監視の『回収フェーズ』です。教会にとって辺境は初見の土地ではない。情報を蓄積した上での行動です」
「帳簿で追えますか。教会の送金先の施設が何なのか」
「追います。それが何であれ——教会がこの辺境で何を見張っていたのか、明らかにしなければ対策が立てられません」
エミルが頷いた。帳簿の数字が、三十年間の謀略を照らし出し始めている。
窓の外が暗くなっていた。薬草園の聖光草が、闇の中で金色に光っている。
母が歩いた場所。母が耳を当てた地面。その下に眠るもの。
全てが——繋がっている。帳簿の数字は、嘘をつかない。たとえ三十年の時が過ぎても。




