リリアーヌの告白
リリアーヌは毛布にくるまったまま、天井を見つめていた。客室の天井は木の梁が走っている。王都の実家の天井とも、聖堂の天井とも違う、簡素だが温かみのある天井。ここに来てから半年。この天井にもすっかり慣れた。
しかし夜が来るたびに、体が震える。光が——溢れ出すから。
指先を見た。薄暗い部屋の中で、爪の下がほんのり金色に光っている。消えない。ここ数日、夜になると手のひらから微かな光が漏れ続けている。隠そうとしても、感情が揺れると光が強くなる。
隣のベッドでナターリアが眠っている。辺境に来てからリリアーヌの部屋に泊まるようになった。「一人で寝るのが怖いから」とナターリアは言ったが、本当はリリアーヌが怖がっていることに気づいているのだろう。公爵令嬢は繊細だが、人の感情を読む力がある。
それから——もう一つ、怖いことがある。
夜になると、人の感情が流れ込んでくる。
領主館で働く使用人の疲労。門番の退屈。厨房で朝食の準備をする料理人の眠気。薬草園の方角から、オルガの穏やかな感情。鍛冶場の方角から、マルクスの無骨な満足感——炉の火が昨夜うまく落ちたのだろう。
そして——領主館の二階から。
セラフィーナの感情が、最も強く伝わってくる。不安。恐怖。それを押し殺す強い意志。帳簿を前にした時の冷静な集中。そして——時折、夜遅くに訪れる孤独。深い、底のない孤独。前世から持ち越した、誰にも見せない孤独。
リリアーヌは知っている。セラフィーナが、辺境に来る前から孤独だったことを。他人の感情が流れ込むようになって、初めてわかった。セラフィーナの強さは——孤独を知っている人間の強さだ。一人で立つことに慣れた人間の強さ。そしてその孤独が、辺境の人々との繋がりの中で少しずつ溶けていっていることも。
泣きそうになった。感情が溢れる。止められない。自分の感情なのか、他人の感情なのか、もう区別がつかない。
朝になるのを待って、セラフィーナの部屋を訪ねた。
ノックすると、すぐに「どうぞ」と声がした。セラフィーナは既に着替えて、窓際に立っていた。朝日が横顔を照らしている。
「リリアーヌさん。どうしましたか」
「……あの。お話ししたいことがあるんです」
椅子に座った。手が震えている。光っている指先を、膝の上で組んで隠した。
「私の体に——変なことが起きています」
セラフィーナの表情が変わった。知っている。既にエミルから聞いているのだろう。しかし何も言わず、黙って聞いてくれた。
「夜になると体が光るんです。手とか、胸のあたりが。それだけじゃなくて——人の感情が流れ込んでくるようになりました」
「感情が?」
「はい。辺境の人たちの感情が。特に——セラフィーナ様の感情が、一番強く伝わってきます」
セラフィーナが一瞬だけ表情を崩した。何を感じ取られているか想像したのだろう。しかしすぐに立て直した。
「他には?」
「辺境の人たちの——幸福が、すごく強く感じられるんです。ここに来る前は、こんなことなかったのに。この場所の人たちは幸せなんです。大変なことがたくさんあるのに。鍛冶場で鉄を打つマルクスさんも、薬草園のオルガさんも、市場の人たちも。みんな、自分の仕事に誇りを持っている。その幸福が、私の胸に直接流れ込んでくる」
涙が出た。こらえられなかった。
「それは——セラフィーナ様のおかげなんです。この場所を作ったのは、あなただから。だから——」
声が詰まった。ナターリアが横に来て、背中をさすってくれた。いつの間にか起きて、ついてきていたのだ。
「リリアーヌさん。あなたの力は——」
セラフィーナが言いかけて、止まった。ゲームの知識を口にしかけたのだろう。一呼吸置いてから、言い直した。
「あなたの力は、あなたの一部です。怖いかもしれないけれど——それはあなたの優しさの延長にあるものだと、私は思います」
「でも……自分が自分じゃなくなるみたいで。夢の中の私は——笑っているのに、泣きたいんです。白い聖堂の上に立って、みんなに見られて、光に包まれて。でもそれは私じゃない。誰か別の人のような気がする」
セラフィーナの目が揺れた。聖堂の夢の話を聞いて、何かを思い出しているのがわかった。リリアーヌの感情読み取りの力で、セラフィーナの中に走った恐怖の波を感じ取った。
「大丈夫です」
セラフィーナがリリアーヌの手を取った。光っている手を、両手で包んだ。温かかった。
「あなたは、蜂蜜菓子が好きで、契約書を書くのが得意で、見本帳に絵を描く人です。聖女でも何でもない——リリアーヌという名前の、一人の女の子です。それは何があっても変わりません」
泣いた。声を上げて泣いた。ナターリアが隣で手を握り、セラフィーナが肩を抱いてくれた。二人の温もりに包まれて、体の光が少しだけ落ち着いた。
しばらく泣いた後、リリアーヌは顔を上げた。目が赤い。しかし——泣いた後の方が、表情が軽くなっていた。抱え込んでいた恐怖を、声にして出せたから。
「……ごめんなさい。泣いてしまって」
「謝ることはないですわ。泣きたい時に泣けるのは、強さですから」
セラフィーナの言葉に、不思議な説得力があった。この人もかつて泣いたことがあるのだろう。秘密を打ち明けた夜に。あの夜のセラフィーナの涙を、リリアーヌは直接は知らない。しかし今——感情が流れ込む力のおかげで、あの夜の残像を微かに感じ取ることができた。
「リリアーヌさん。一つ聞いてもいいですか」
「はい」
「あなたはこの辺境にいたいですか」
迷わなかった。
「はい。ここにいたいです。セラフィーナ様のそばにいたい。この場所が好きです。市場も、薬草園も、マルクスさんの鍛冶場も。この場所の人たちの感情が温かいから——ここにいると、怖くても耐えられるんです」
セラフィーナの目が潤んだ。一瞬だけ。すぐに戻した。
「わかりました。なら——あなたを守ります。教会が何と言おうと」
「セラフィーナ様……」
「ただし。あなた自身も、逃げないでください。あなたの力と向き合って——自分で選んでください。教会に行くのも、ここに残るのも。全てあなたの意志で」
自分で選ぶ。セラフィーナがいつも言う言葉だ。ナターリアも、この言葉に背中を押されて辺境に来た。
「……はい。自分で選びます」
ナターリアが微笑んだ。リリアーヌの手を握ったまま。
「私も、自分で選んでここに来ました。リリアーヌさんも、自分で選んでください。その選択を、私は応援します」
同じ年頃の二人の少女が、互いの手を握っている。一人は公爵家を捨てた妹。もう一人は聖女の力に怯える少女。どちらも——自分の意志で、ここにいる。
午後、エミルが報告に来た。エリザベートの研究ノートに、聖女の力に関する記述を発見したという。
「エリザベート様の研究によると、聖光草には聖女の力を安定させる効果がある可能性があります。聖女と聖光草は本来、共生関係にある。力を暴走させるのではなく——制御する鍵になるかもしれない」
「母上の研究が——」
「はい。しかし同時に——」
エミルが声を落とした。
「研究ノートの余白に、走り書きがあります。『聖女の力は祝福ではない。代償がある』と」
代償。その言葉の重さが、午後の日差しの中に影を落とした。
代償とは何か。歴代の聖女が短命だった理由。力を使うたびに生命力を消耗する——そう書かれている。セラフィーナの顔から血の気が引いた。リリアーヌには、まだ伝えるべきではないと判断した。
「制御法を研究しましょう。聖光草の煎じ薬が鍵になるなら、オルガに相談しますわ」
「僕も協力します。母上の研究を引き継ぐ形で——リリアーヌさんの力を安定させる方法を見つけます」
エミルの目が真剣だった。学者としての興味と、リリアーヌへの配慮が同居している。この人は冷徹な分析者であると同時に、守りたいものを持つ人間でもある。
夕方、リリアーヌは薬草園を訪れた。オルガが聖光草の世話をしていた。
「オルガさん。聖光草って——私が触ると、どうなりますか」
「触ってごらん」
恐る恐る手を伸ばした。指先が葉に触れた瞬間——聖光草が一斉に光を放った。金色の光が薬草園全体を包み込む。花が開き、蕾が膨らみ、種が芽吹いた。生命の爆発だ。
リリアーヌは手を引いた。光がゆっくりと収まっていく。
「すごい……」
「怖がらなくていいのよ」
オルガが穏やかに言った。
「この草は、あなたを待っていたのかもしれない。私の夫——フリードリヒが生きていたら、きっと大喜びしたわ。『聖光草と語り合える人が現れた』って」
フリードリヒ。かつてエリザベートと共に聖光草を研究した薬草師。オルガの亡き夫。この薬草園には、何世代もの想いが重なっている。
リリアーヌは手を見た。光はもう消えている。しかし——指先に、聖光草の温もりが残っていた。怖い。でも——嫌いではない。この力が誰かの役に立つなら。
窓の外で、聖光草の金色の花が風に揺れていた。美しかった。しかしその美しさの裏に、母が見つけた真実が眠っている。代償の影が、春の光の中に潜んでいた。




