宮廷魔術師の仮説
元は物置だった部屋を改装し、壁一面に書棚を据えた。書棚には王立学院から持ち込んだ文献と、辺境で入手した古文書が並んでいる。机の上には魔力計測器が三台、聖光草の押し花標本が数十枚、そしてエリザベートの研究ノートの写本が広げられていた。
エミルが研究室にセラフィーナを呼んだのは、昼過ぎだった。ヨハンには「学術的な打ち合わせ」と伝えてある。嘘ではない。しかし打ち合わせの内容は、学術の領域を遥かに超えている。
「お茶をどうぞ。オルガさんに新しい配合を作ってもらいました。集中力が持続するそうです」
「ありがとうございます」
茶を受け取った。エミルは穏やかに微笑んでいるが、目の奥に真剣な光がある。この人が笑顔の裏で何を考えているか、半年以上の付き合いでも完全には読めない。
「単刀直入に話します。辺境の魔力異常について、仮説がまとまりました」
エミルが壁に掛けた図表を指した。手書きの図だが、緻密な線で描かれている。学者の手は美しい図を描く。横軸に時間、縦軸に魔力濃度。右肩上がりの曲線が描かれ、その頂点に「聖女覚醒」と赤い文字で記されていた。
「この世界には、周期的な魔力循環があります。百年に一度、地下の魔力脈が活性化し、地表の魔力濃度が上昇する。聖女の覚醒は、その頂点で起きる自然現象です」
「つまりリリアーヌさんの力は——」
「彼女個人の問題ではなく、世界規模の魔力循環の一部です。彼女の力が覚醒しているのは、世界がそう求めているから。制御は可能です。ただし——」
エミルが図の右端を指した。頂点の後に、急激な下降線が描かれている。
「百年前の記録では、聖女覚醒の後に必ず大きな厄災が起きています。前回は北方の大魔獣侵攻——この辺境を含む北方三領地が壊滅的被害を受け、復興に二十年かかった。その前は東の大洪水で港町が三つ消えた。さらに前は——記録が残っていない。消された、あるいは記録する者が全滅した可能性がある」
記録する者が全滅した。その言葉の重さが、部屋の空気を変えた。
「聖女の覚醒は、厄災の予兆なのですか」
「正確には、厄災に対抗するために覚醒すると僕は考えています。世界の免疫反応のようなものです。病が来る前に、体が熱を出す。聖女の力は、世界の熱です」
世界の免疫反応。前世の知識で言えば、抗体反応のようなものだ。病原体が侵入する前に免疫系が活性化する。聖女はこの世界の免疫系。だとすればリリアーヌの力は彼女個人のものではなく、世界全体の防衛機構の一部だ。
エミルの仮説は美しかったが、裏を返せば——聖女が覚醒するということは、それだけの厄災が迫っているということだ。北の空の光。魔力脈の活性化。地下に眠るもの。全てが繋がっている。
「そしてもう一つ」
エミルの声のトーンが変わった。学者の声から、共犯者の声に。
「セラフィーナさん。あなたは最初から結末を知っているかのように動いている」
心臓が止まった。
「婚約破棄。辺境への撤退。攻略対象の回避。全てが計画的で、全てが合理的で——しかし合理的すぎる。まるで答えを見てから問題を解いているかのように」
否定しなければならない。しかし——エミルの目は全てを見透かしている。転生の秘密を共有した夜から、この男はセラフィーナの行動の全てを学者の目で観察し、分析し、仮説を立ててきた。七つの矛盾を指摘し、転生者仮説を証明したあの夜から。
「……何が言いたいのですか」
「あなたがこの世界の構造を知っていることが、教会に知られれば——」
エミルが言いかけて、口を閉じた。茶を一口飲んだ。間を取っている。
「教会の古文書『異界接続論』の写本を、フリッツ殿に王都の図書館で探してもらっていました。先日その報告が来ました」
「何が書いてあったのですか」
「この世界が『外部からの観測者によって構造が固定される』という仮説です。教会はこの仮説を異端とみなしていますが——排除はしていない。むしろ、積極的に研究している節がある」
「つまり教会は——」
「ええ。『異界の魂』の存在を、理論的に予測しています。そしてその魂が世界の構造に干渉することを、教義上の脅威とみなしている」
教義上の脅威。前世の佐藤凛は、ただの過労死したOLだ。経理部で帳簿をつけていた、取るに足らない存在だった。上司にも同僚にも、生きていた時さえ気にされなかった。しかしこの世界では、その魂の存在自体が、宗教的な禁忌に触れる。皮肉だ。前世では誰にも必要とされずに死に、今世では存在するだけで世界の構造を脅かす。
「教会はどこまで把握しているのですか」
「現時点では、あなたが転生者であることは把握していません。しかしマルガレーテが母上の教会記録に言及していたことを考えると——糸は辿り始めている。母エリザベートが教会を追放された理由、聖光草の研究、辺境との繋がり。その先にあなたがいる」
エミルが指を組んだ。思考を整理する時の癖だ。
「母上の件は、むしろ盾にもなります。教会が追放した修道女の娘を、再び教会が迫害する構図——世論の反感を買う。ただし、あなたが異界の魂だと判明すれば、同情は恐怖に変わる」
「仮にそうだとして——」
セラフィーナは声を絞り出した。
「物語の結末が『悲劇』なら、構造を壊す方法は?」
言った瞬間、自分が何を口にしたか気づいた。「物語」という言葉。エミルの目が光った。しかし——追及しなかった。代わりに静かに答えた。
「登場人物が、物語の役割を拒否することです」
物語の役割の拒否。悪役令嬢が悪役を演じない。聖女が教会の道具にならない。王太子が運命の恋人を「運命だから」ではなく「自分の意志で」選ぶ。
「ただし」
エミルが最後の警告を口にした。
「教会がこの仮説に辿り着いた場合——あなたは異端者として処刑されます。転生者の存在は、教会にとって世界の秩序を脅かす最大の脅威ですから」
処刑。また処刑だ。ゲームでは悪役令嬢として処刑され、教会の教義では異端者として処刑される。どちらに転んでも結末は同じだ。
「そしてもう一つ。教会の古文書には、過去に『異界の知識を持つ者』が現れた記録が三件あります」
エミルの声が、静かに、しかし確実にセラフィーナの逃げ道を塞いでいく。
「全員、教会に処刑されています」
沈黙が落ちた。窓の外で、聖光草の光が揺れていた。金色の光。美しくも残酷な光。
「一人目は三百年前。異国の言葉を話す行商人で、教会に自首した。二人目は二百年前。聖女の側近だった女性で、異界の知識で聖女を操ったとされた。三人目は百二十年前。学者。世界の構造について論文を発表しようとして捕まった。全員、火刑です」
火刑。断頭ではなく火刑。教会にとって異界の魂は、より重い罪なのだ。
「……怖くないと言ったら嘘になります」
声が震えた。前世の死の瞬間を思い出した。深夜のオフィスで倒れた時、最後に見たのは蛍光灯の白い光だった。あの光と——聖光草の金色の光が、記憶の中で重なる。
「僕はあなたの味方ですよ」
エミルが静かに言った。学者の目でも参謀の目でもなく、一人の人間の目だった。
「物語を書き換えましょう。あなたと僕で」
あの夜と同じ言葉だった。転生の秘密を明かした夜。あの時エミルは「物語を書き換えましょう」と言い、レオンハルトは「余が許さない」と言った。二人の言葉が、今のセラフィーナを支えている。
エミルが差し出した手は、あの時と同じ温度だった。学者の手だ。剣も槌も持たない手。しかしその手が握るペンは、この世界の構造を解析する力を持っている。
「……ありがとうございます、エミル殿」
「一つだけお願いがあります」
「何ですか」
「あなたが知っている『物語』のことを、もう少し教えてください。僕が分析します。構造を壊す鍵は、構造を知ることから始まる」
迷った。しかし——もう一人で抱え込む段階は過ぎている。レオンハルトに処刑の未来を告白した夜から、この世界の人間を信じると決めたのだ。
「……わかりました。ただし、ここだけの話ですわ」
エミルが微笑んだ。学者の笑みだった。同時に——共犯者の笑みだった。
その夜、セラフィーナはエミルにゲームの大まかな構造を話した。全てではない。登場人物の名前や、個々のイベントの詳細は伏せた。しかし「悪役令嬢が処刑される物語」の骨格と、「聖女覚醒→教会介入→断罪」の流れだけは伝えた。
エミルは全てを聞き終えた後、ペンを取って紙に図を描き始めた。物語の構造図だ。分岐点と結末を線で結んでいく。
「これは——分析できます。物語の構造には法則がある。法則があるなら、例外も存在する。例外を見つけることが、僕の仕事です」
ペンが紙の上を走る音だけが響いた。深夜の研究室で、二人の共犯者は物語の構造と向き合い続けた。
一方、ルキウスが護衛隊の夜間哨戒を強化していた。北方の森から聞こえる獣の声が、日に日に近くなっている。ラウルが偵察から戻り、「森の奥で樹木が枯れ始めている。魔力汚染の可能性がある」と報告した。
嵐が近づいている。しかし——嵐の構造を知る者が、ここにいる。




