北の空に灯る異変
窓の外を見ると、北の空がまた光っていた。昨夜より明るい。夜明け前の薄闇に、淡い金色の脈動が混じっている。星の光とは質が違う。冷たく、規則的で、何かの呼吸のように揺れている。
隣の客室でナターリアが寝ている。昨夜は遅くまで話し込んだ。王都の社交界の話、父の書斎の話、母のことを聞いた。ナターリアは母の記憶をほとんど持っていない。幼い頃に亡くなったから。でも「父上の書斎に、母上の肖像画が一枚だけ残っています。父上は時々、その前で長い間立っていらっしゃいます」と語った。
あの冷酷な父が——妻の肖像画の前に立つ。ブレンナーが言った「愛し方がわからなくなった」という言葉が重なった。感情のない男だと思っていた。しかし感情がないのではなく、感情を失うことを恐れて、最初から持たないふりをしているのかもしれない。
——今はそんなことを考えている場合ではない。
ナターリアを辺境に受け入れたことで、教会は一時撤退した。公爵家の令嬢がいる場所で強硬手段は取れない。しかしマルガレーテは「必ず再びお伺いします」と言い残した。時間を稼いだだけだ。永遠に追い返せたわけではない。
そして公爵家の追手。ナターリアの従者が「三日以内に到着」と言っていた。今日がちょうど三日目だ。
着替えて執務室に降りると、ヨハンが既に朝茶を用意していた。
「おはようございます、セラフィーナ様。エミル殿が早朝から温室にこもっています。至急お会いしたいと」
「わかりました」
温室に向かった。ガラスの壁の向こうで、聖光草が異様に光っている。以前は月明かりの下でほんのり輝く程度だったのに、今は日中でも発光が視認できるほどだ。苗床の一つは昨夜のうちに開花し、金色の花弁が温室の天井に向かって伸びている。
エミルが計測器を手に立っていた。顔色が悪い。徹夜したのだろう。
「セラフィーナさん。報告があります」
「魔力の数値ですか」
「ええ。辺境一帯の魔力濃度が、一週間前の二・五倍です。特にこの温室の周辺——聖光草の群生地が最も高い。そして」
エミルが計測器の針を示した。針が微かに揺れている。
「この揺れは、リリアーヌさんの生体魔力と完全に同期しています。針の動きを記録しているのですが、振幅が日に日に大きくなっている。三日前は微弱でしたが、今朝は明確な波形を示しています。彼女が眠っている時でさえ、体から放出される魔力が聖光草と共鳴し、それが地下の魔力脈を刺激している。悪循環のループです」
「リリアーヌさんの力が強くなるから魔力濃度が上がり、魔力濃度が上がるからリリアーヌさんの力が——」
「さらに強くなる。はい。制御しなければ加速し続けます」
胸の奥で、氷の塊が動いた。ゲームの記憶。聖女覚醒イベント。魔力の暴走→教会の介入→悪役令嬢の断罪。シナリオの歯車が一つ一つ噛み合い始めている。
「リリアーヌさんが夢を見ています。聖光の大聖堂の夢」
「大聖堂?」
「ゲーム——いえ、彼女自身が言っていました。白い石の聖堂で、金色の光に包まれて、何百人もの人が自分を見上げている夢。毎晩同じ夢を見ると」
エミルの目が鋭くなった。「ゲーム」という言葉を聞き逃さなかった。しかし追及はしなかった。代わりに静かに言った。
「その夢の描写——僕が王都の王立図書館で見た、聖光教会の聖遺物画と一致しています。百年前の聖女就任式の記録画です。リリアーヌさんが見ているのは、記憶ではなく——聖女としての集合記憶かもしれません」
集合記憶。ゲームでは「聖女覚醒イベントCG」として描かれていたものが、この世界では聖女の系譜に刻まれた記憶として実在する。ゲームの設定が、現実の層を持っている。背筋が冷えた。
温室の外で、足音がした。振り返ると、ナターリアが立っていた。寝巻きの上にショールを羽織っている。寝起きの顔が不安に曇っている。
「姉上。リリアーヌさんが——声を上げて泣いていたから、心配で」
「ナターリア。まだ朝が早いですわ。戻って——」
「嫌です。何か起きているなら、教えてください。私もここにいるのですから」
妹の目が強い。父に逆らって辺境まで来た少女の目だ。温室育ちの花ではない。根を張り始めた苗の強さがある。
「……わかりました。ただし、あなたに聞いてほしいことがあります。後で」
「はい、姉上」
ナターリアが頷いて、リリアーヌの部屋に向かった。姉妹でもなく、主従でもない。辺境で出会った二人の少女が、互いを支え始めている。リリアーヌにとってナターリアは、セラフィーナとはまた違う安心感を与える存在だ。同じ年頃の、同じ恐怖を知る少女。
「エミル殿。率直に聞きます。リリアーヌさんの覚醒は——止められますか」
エミルが長い沈黙の後、首を横に振った。
「止められません。自然現象と同じです。嵐を止められないように、聖女の覚醒は止められない。できるのは——嵐の中で生き延びる方法を見つけることだけです」
嵐の中で生き延びる。前世でも同じことを言われた気がする。上司に「この状況を乗り越えろ」と言われた深夜のオフィスで。あの時は一人で嵐に飲まれて死んだ。今度は——一人じゃない。ルキウスがいる。エミルがいる。ヘルガがいる。ギュンターがいる。そして今は——ナターリアもいる。
「方法を探しましょう。嵐の中でも、帳簿はつけられます」
「……それは、あなたらしい」
エミルが微かに笑った。この人は、どんな状況でもユーモアを忘れない。学者の矜持か、それとも——恐怖を笑いで薄めているのか。
「もう一つ、報告があります」
エミルの声がさらに低くなった。
「母上の研究ノートを再精査しました。聖光草の封印機能——つまり、聖光草が魔力脈の上蓋として機能しているという仮説ですが、これが正しいなら、リリアーヌの力の増大は封印を不安定にしている可能性がある」
「つまり——」
「地下に眠るものが、目覚めかけているかもしれません」
母が残した警告。「地下に眠るものを、決して目覚めさせてはならない」。竜時代の遺物。ゲームの知識にはない設定だ。この世界独自の、ゲームの外にある危機。
温室の聖光草が、また一つ花を咲かせた。金色の光が揺れている。美しい光だ。しかしその光が照らしているのは、地下に眠る何かの輪郭だ。
昼前、リリアーヌの部屋を訪れた。ナターリアが隣に座って手を握っている。リリアーヌの顔色は白かった。目の下に深い隈がある。
「セラフィーナ様。また夢を見ました」
「聖堂の夢?」
「はい。白い石の聖堂で、金色の光が天井から降り注いでいて、何百人もの人が私を見上げていました。私は祭壇の上に立っていて——手を伸ばすと、光が指先から溢れ出して……」
リリアーヌの声が震えていた。ナターリアがその手を握り直した。
「怖いんです。あの夢の中の私は——笑っているのに、泣きたいんです。自分が自分じゃないような気がして」
ゲームのイベントCGと完全に一致する描写だった。白い石の回廊。金色の光。跪く群衆。聖女の祭壇に立つ少女。ゲームではそのCGの後に、聖女就任式が行われ、悪役令嬢の断罪ルートが始まる。
「リリアーヌさん。大丈夫です。夢は夢ですわ」
嘘をつく必要があった。大丈夫ではない。夢は夢ではない。ゲームのシナリオが、現実の彼女の体を通じて再生されている。
午後、ルキウスが報告に来た。
「北方の森で魔獣の目撃情報が増えている。山岳ルートの護衛隊からも、獣の気配が以前より濃いと連絡があった」
「魔力脈の活性化と関係がありそうですか」
「わからん。だが警備は強化しておく。堀を深くしておくに越したことはない」
ルキウスの判断は常に実務的だ。理由がわからなくても、備えることはできる。この男の堅実さに、何度も救われてきた。
夕暮れ時、ヘルガが茶を持ってきた。
「お嬢様。ナターリア様が、帳簿を見せてほしいと仰っています」
「帳簿を?」
「ええ。『姉上の仕事を手伝いたい』と。熱心な方ですね。……お母様に、よく似ていらっしゃいます」
ヘルガの目が遠くなった。四十年分の記憶が、その瞳の奥にある。
ナターリアに帳簿の基礎を教えた。妹は飲み込みが早かった。数字の羅列を見て「これ、法則がありますね。入と出が必ず対になっている」と言った。さすが公爵家の教育を受けた少女だ。基礎的な算術は完璧に身についている。セラフィーナが教える前世の複式簿記に興味を示し、目を輝かせて質問を重ねた。
「姉上、この二重帳簿の考え方は、外交交渉にも使えますわ。相手の提案の『借方』——つまり相手が得るものと、『貸方』——相手が失うものを整理すれば、交渉の構造が見えてきます」
驚いた。帳簿の論理を外交に応用する発想。この妹には、数字の才能だけでなく、人を読む才能もある。
窓の外が暗くなっても、二人は帳簿に向かっていた。姉妹で帳簿をつける光景。前世にも今世にも、ゲームのどのルートにもなかった場面だ。
しかしその穏やかな時間の裏で、ゲームのシナリオは静かに回り続けている。聖女の夢。魔力の脈動。教会の影。
全てが、一つの結末に向かって動いている——前世では「ゲームオーバー」と表示されるはずの、その結末に。




