姉と妹——ナターリア、辺境に立つ
領主館の見張り台からヨハンが声を上げた。街道の向こうから土煙が上がっている。ルキウスの護衛隊が先導し、その後ろに一台の馬車が続いている。華美な装飾はない。フェルディナントが手配した実用的な旅馬車だ。しかし窓の隙間から覗く顔を見た瞬間、セラフィーナの心臓が跳ねた。
金色の髪。自分と同じ色だが——もう少し柔らかい巻き毛。旅の疲れで頬が少し痩せている。唇が乾いて、少し切れている。長い旅路の過酷さが、その小さな傷に凝縮されていた。しかし——瞳の色は同じだった。母エリザベートから受け継いだ、澄んだ青。ヘルガが語った母の「きらきら光る目」。その面影が、目の前の少女にも宿っている。
ナターリアが馬車の扉を自分で開けて降りた。従者に手を借りない。それだけで、この少女の決意が伝わってきた。
旅装は簡素だった。公爵令嬢の絹のドレスではない。侍女の服を借りたのだろう。裾に泥がついている。靴は歩き慣れないものだったのか、踵が少し擦れている。髪も旅の風で乱れ、普段の丁寧な結い上げとは程遠い。公爵家の温室育ちの少女が、身一つで飛び出してきた証拠だった。
二人の間に、数歩の距離があった。
セラフィーナは前世の佐藤凛として、妹を持ったことがなかった。一人っ子で、家族らしい家族もなく、孤独に働いて孤独に死んだ。この世界で初めて「妹」という存在を得た。手紙では何度もやり取りした。しかし——面と向かうのは、これが初めてだった。
「姉上」
ナターリアの声が、震えていた。涙をこらえている。旅の間ずっとこらえていたのだろう。
「ナターリア」
名前を呼んだ。それだけで——ナターリアの目から涙が溢れた。
「姉上の手紙を読みました。『自分で選んでほしい』と。私——選びました。父上の駒でいることを、やめました。怖かったです。でも——」
「来てくれたのね」
「はい。自分の足で、来ました」
抱きしめた。小さな身体だった。自分より少し低い背丈。旅の汗と埃の匂いの下に、薔薇水の微かな残り香がある。王都から持ってきた最後の贅沢品だろう。そして——その奥に、ヘルガが淹れるハーブティーに似た温もりがある。母の血が流れている身体の温もり。同じ母から生まれた姉妹の血。
心臓の音が聞こえた。ナターリアの鼓動。早い。旅の疲れだけではない。不安と、期待と、勇気を振り絞った末の震えが、その速い鼓動に全て詰まっている。
ナターリアの腕がセラフィーナの背に回った。最初は遠慮がちに。やがて——力を込めて。旅の間に溜め込んだ全ての不安を、その抱擁に注いでいる。
前世では一度も抱きしめた人がいなかった。抱きしめられたこともなかった。この感覚は完全に未知だ。しかし——正しい。この温もりは、正しい。涙が出そうになった。こらえた。ここで泣くのは姉の役目ではない。
門の前で、全員が見守っていた。ヘルガが腕を組んで頷いている。目が赤い。四十年前にこの門をくぐった母の姿を、娘たちに重ねているのだろう。唇が微かに動いていた。何かを——おそらく母の名を——声にならない声で呟いている。ヨハンが嬉しそうに笑っている。リリアーヌが泣いている——自分が辺境に来た時のことを重ねているのだ。エミルが穏やかに微笑んでいる。ルキウスだけが背を向けて空を見上げていた。しかしその肩が微かに揺れていた。この不器用な男なりの、感情の表現だった。
やがてナターリアが顔を上げた。涙の跡が頬に光っている。しかし——その瞳には、もう迷いがなかった。この子は、自分で選んで来たのだ。
◇
ナターリアの到着が伝わると、マルガレーテの反応は早かった。
午後のうちに使者が来た。護衛騎士の一人だ。
「高位神官マルガレーテより伝言です。ヴァルトシュタイン公爵家の令嬢がいらっしゃる以上、この場での武力行使は控えます。枢機卿への報告を優先し、一時撤退いたします」
予想通りだった。公爵家の現当主の娘が辺境にいる。その場で強引にリリアーヌを連れ去れば、教会と公爵家の全面対立になる。宰相の娘に手を出すリスクは、教会にとっても大きすぎる。
しかし——マルガレーテは自ら来なかった。使者を通じて伝えた。それは「私個人は退かない」という意思表示でもある。教会の組織としては撤退するが、マルガレーテ個人の執念は消えていない。百年ぶりの真聖女を見つけた高位神官が、簡単に手を引くはずがない。
「枢機卿への報告は変わりません。必ず再びお伺いします」
使者が最後に付け加えた台詞には、マルガレーテの声の調子が映っていた。この女は何度でも来るだろう。何度追い返されても。それが信仰なのか執念なのか——あるいは両方なのか。
エミルが呟いた。
「時間は稼げました。しかし——次に来る時は、もっと大きな力を伴って来るでしょう」
◇
夜。領主館のセラフィーナの私室に、ナターリアを招いた。
ヘルガが母のブレンドのハーブティーを淹れてくれた。二つの杯から立ち上る湯気が、同じ香りを漂わせている。母が好んだ配合。姉妹が同じ香りを分かち合うのは、おそらく初めてだ。
「姉上、辺境は——思っていたのと違います」
「どう違いましたの」
「もっと寂しい場所だと思っていました。荒れた土地に、壊れかけた館があって、姉上が一人で帳簿と向き合っているのかと。でも——温かい。門の前で皆さんが待っていてくださった。ヘルガさんがお茶を淹れてくださった。リリアーヌさんが部屋を案内してくださって、窓から見える薬草園の花の名前を全部教えてくださった。こんなに人の温もりがある場所だとは」
「辺境を温かくしたのは、私だけの力ではありませんわ。ここにいる全員の力です」
ナターリアが杯を握りしめた。手が小さい。指が細い。社交界で鍛えられた手ではない。まだ何者にもなっていない少女の手だ。
「姉上。私、父上に逆らいました。生まれて初めて」
「怖かったでしょう」
「怖かったです。父上の怒った顔を想像しただけで足が竦みました。でも——姉上の手紙に書いてあったこと。『あなた自身の足で』って。あの言葉が背中を押してくれました」
ナターリアの目に涙が光った。しかし——泣き顔の奥に、強い光がある。リリアーヌと同じだ。恐怖を抱えたまま、それでも自分の足で立とうとする少女の光。
「ナターリア。あなたは十分に強いわ。誰に何と言われようと、それだけは確かです」
「……本当ですか」
「ええ。公爵家を出るのに、どれだけの勇気が要ったか。想像はつきますわ」
本当は正確にはわからない。佐藤凛には家族がなかったから。捨てる家もなかった。だから「家族を捨てて出る」勇気の重さは、想像するしかない。しかし——わからないからこそ、その勇気を尊いと思う。
姉妹の時間が流れた。ナターリアは王都の社交界の息苦しさを語り、セラフィーナは辺境の薬草園と帳簿の話をした。互いの知らない世界を、言葉で橋渡しした。ナターリアが「私も帳簿を見てみたい」と言った時、セラフィーナは思わず笑った。血は争えない。この妹にも、数字に惹かれる何かがあるのかもしれない。
扉をノックする音が聞こえた。ヨハンの声が控えめに響いた。
「セラフィーナ様——ナターリア様の従者の方から報告です。公爵家から追手が出たそうです。三日以内にこちらに到着する見込みだと」
ナターリアの顔から血の気が引いた。
「父上が——」
「大丈夫ですわ。ここは私の領地です。あなたを守りますわ」
同時に——窓の外で、エミルの声が聞こえた。温室から飛び出してきたらしい。
「セラフィーナさん、聞いてください。北の空の光が——以前の三倍の強度になっています。魔力脈の活性化が加速している。これは——」
エミルの声が途切れた。言葉にするのを躊躇している。
窓の外を見た。北の空に、明らかに以前とは違う光がある。星とは違う。魔力の光だ。冷たく、しかし強く脈動している。
公爵家の追手。北の魔力の異変。教会の再来。三つの嵐が同時に、この小さな辺境の領地に収束しようとしている。
ナターリアが不安そうにこちらを見ている。手が震えている。杯の中のハーブティーが波打っている。
「姉上……大丈夫ですか」
「ええ。大丈夫ですわ」
嘘ではなかった。怖くないと言えば嘘になる。しかし——隣に妹がいる。仲間がいる。母の遺した知識がある。一人で全てを背負っていた前世とは違う。
ナターリアの手を取った。冷たい指だった。しかし握り返す力は確かだ。
「今夜はゆっくり休みなさい。明日からは忙しくなりますわ」
「はい、姉上」
ナターリアが微笑んだ。旅の疲れで目の下に隈があるのに、その笑顔は春の花のように柔らかかった。母に似ているのだろう。会ったことのない母の面影を、妹の笑顔に見る。
夜が深まった。ナターリアが客室に戻る時、扉の前で振り返った。
「姉上。おやすみなさい」
その一言が、前世では誰にも言ってもらえなかった言葉だった。一人暮らしのワンルームに帰っても、おやすみなさいと言ってくれる人はいなかった。たったそれだけの言葉が、こんなにも温かいとは知らなかった。
「おやすみなさい、ナターリア」
扉が閉まった後も、声の余韻が廊下に残っていた。
領主館が静まった後も、セラフィーナは窓辺に立っていた。北の空の光が、微かに脈動している。まるで何かの鼓動のように。
地下に眠るもの。母が恐れたもの。それが目覚めようとしているのか。
しかし——今夜は。今夜だけは。妹と同じ屋根の下にいる喜びを、静かに噛みしめていたかった。




