交渉決裂——神官の最後通牒
予想より遥かに早い。枢機卿への報告と返答を考えれば、もう数日はかかると見ていた。つまり——マルガレーテは独自に枢機卿と連絡を取る手段を持っていた。鴉便か、あるいは魔術的な通信手段か。
今度の馬車は白ではなく金色だった。護衛騎士は十二名。前回の倍の数だ。そして——マルガレーテの手には、金の封蝋で閉じられた巻物があった。
「教会中央の枢機卿より、正式な聖女召還命令が下りました」
マルガレーテが応接間のテーブルに巻物を広げた。金箔の文字が教会の最高権威を主張している。枢機卿の印章。教会法の引用。そして——「聖女候補リリアーヌを中央総本山に召還する」の一文。
世俗の権限に優先する、と書かれている。教会法最上位条項。王国のいかなる領主も、いかなる貴族も、この条項に逆らった前例はない。拒否すれば、教会との全面的な敵対を意味する。辺境の小さな領地が、王国最大の宗教権威と正面衝突することになる。
応接間の空気が張り詰めた。エミルの眼鏡が窓からの春の陽光を反射して白く光った。ルキウスが扉の脇で壁にもたれ、腕を組んでいる。表情は読めないが、剣の柄を握る右手の指が白くなっている。
しかし——こちらにも切り札がある。
「マルガレーテ殿。召還命令について、一つ確認させてください」
「何でしょうか」
「この召還命令は、聖女候補の保護者の同意を前提としていますか」
「枢機卿の命令は世俗法に優先します。保護者の同意は——」
「教会法でも保護者の同意は必要です。エミル殿」
エミルが立ち上がった。手に書類を持っている。
「教会法最上位条項には確かに『世俗の権限に優先する』と記されていますが、同じ条項の第三項に『ただし聖女候補が未成年であり、かつ保護者が教会法に基づく適格な異議申し立てを行った場合、召還は教会評議会の審議を経なければならない』とあります」
マルガレーテの目が細くなった。教会法の条文をここまで正確に引用できる人間が辺境にいることへの、二度目の驚き。しかし今回は驚きだけでは済まない。
「そして——私には、教会法に基づく適格な異議申し立ての根拠がありますわ」
母の研究ノートをテーブルに置いた。四十年の歳月を経た革表紙のノートが、金箔の巻物と向かい合う。教会の現在の権威と、母が過去に遺した知識が対峙している。時を超えた対決だ。母がこの瞬間を予見していたはずはない。しかし——母が遺した武器が、今この場で娘の手に握られている。
「母エリザベート・フォン・ヴァルトシュタインは、かつて聖光教会の修道女でした」
マルガレーテの表情が凍った。想定外の情報だ。
「母は教会内部の学問を修め、その後——教会を去りました。理由はお分かりでしょう。禁制文献に触れたからです。しかし——教会が追放した修道女の娘が育てた聖女を、今さら召還するのですか。教会の判断の整合性が問われますわ」
「過去の人事と現在の召還は、別の問題です」
マルガレーテの声は平静だった。しかし——その平静さが却って動揺を裏切っている。本当に動じていなければ、わざわざ断言する必要はない。
「別の問題でしょうか。教会がかつて追放した人間の研究成果が、この辺境の薬草園の基盤になっている。その薬草園で育った聖光草が、リリアーヌの力と共鳴している。母が蒔いた種が聖女を育てた。その因果を無視して召還命令を出すのは——教会の判断の整合性が問われますわ」
マルガレーテが口を結んだ。反論したいだろう。しかし——母の過去を持ち出されたことで、教会側の論理に亀裂が入っている。追放した修道女の遺産の上に聖女が育った。その事実を公にされれば、教会の体面が傷つく。
ルキウスが扉の脇から一歩前に出た。腕を解き、自然体で立つ。しかしその自然体の中に、抜刀までの距離を常に計算している剣士の気配がある。
「一つ言わせてもらう。俺は元近衛騎士団所属だ。現在は辺境の護衛隊を指揮している。教会の騎士団が辺境で武力行使を試みるなら——排除する。遠慮はしない」
マルガレーテの護衛騎士たちが身を硬くした。ルキウスの殺気は本物だ。六年間の前線経験が滲み出る圧力。十二名対十二名。数は互角。しかしルキウスの目は「やるなら受けて立つ」と語っている。
膠着した。応接間の温度が下がったように感じた。実際には春の陽光が窓から差し込んでいる。しかし対峙する二つの意志が、空気を凍らせている。テーブルの上の薬草茶が冷め切っている。誰も手をつけていない。湯気が消えた杯の水面が、天井の光を静かに映していた。教会は法的にも軍事的にも、簡単にはリリアーヌを連れ去れない。しかし——枢機卿の命令を空手で持ち帰ることもできない。マルガレーテの表情に、初めて焦りが滲んだ。唇の端が微かに引きつっている。完璧を装う人間が見せる、最初のほころびだ。
エミルが静かに口を開いた。
「一つ提案があります」
全員の視線が集まった。
「リリアーヌさんの力の調査を、王立学術院と教会の共同研究として位置づけてはいかがでしょう。教会単独の管轄ではなく、学術的な枠組みの中で進める。王立学術院は王家の管轄下にあります。レオンハルト殿下の後援も得られるでしょう。そうすれば教会も面目を保てますし、リリアーヌさんの身柄は辺境に留まります。真聖女の研究成果は教会にとっても価値があるはずです」
マルガレーテが沈黙した。妥協案だ。教会にとっても、完全な敗北ではない。枢機卿への報告で「共同研究を提案した」と書ければ、次の手を打つ時間が稼げる。
「……検討します。枢機卿に上申し、改めて回答します」
マルガレーテの声に、わずかな疲労が混じっていた。この女もまた——教会の命令と現場の現実の間で板挟みになっている。完全な勝利ではない。時間稼ぎにすぎない。しかし——今は時間こそが最大の武器だ。前世で四半期決算の期限を一週間延ばすために奔走した経験が活きている。締め切りを動かせれば、その間に別の手を打てる。
マルガレーテが巻物を回収し、踵を返しかけた時——応接間の扉が勢いよく開いた。
ヨハンが息を切らして駆け込んできた。旅の埃をかぶった鴉便の筒を握っている。顔が紅潮している。明らかに良い知らせの顔だ。
「セラフィーナ様、王都から早馬です。ナターリア様が——公爵家を出て、こちらに向かっているそうです」
一瞬、時間が止まった。
ナターリアが。自分の足で。公爵家を出て。こちらに向かっている。
手紙を書いた。「自分で選んでほしい」と。そしてナターリアは選んだ。父の駒であることを拒み、姉のいる辺境を選んだ。あの手紙が届いたのだ。蝋で封をした、あの赤い決意が。
マルガレーテが足を止めた。振り返り、セラフィーナの表情を見た。何かが変わったことを察知している。しかし——何が変わったのかは、まだわからない。
「……また参ります」
マルガレーテが静かに去った。金の馬車が門を出ていく。
セラフィーナは窓辺に立ち、鴉便の書簡を読み返した。手が震えていた。嬉しいのか、緊張なのか、自分でもわからなかった。ナターリアの到着予定は明後日。公爵家の護衛を振り切り、最小限の供回りで強行した旅だという。フェルディナントの手配した馬車に乗り換え、北街道を急いでいるらしい。
妹が来る。自分の意志で。
書簡を握る手が震えていた。嬉しいのか。怖いのか。両方だ。ナターリアが辺境に来れば、教会への強力な政治的牽制になる。公爵家の現当主の娘がいる場所で、強引な身柄確保はできない。戦略的に正しい。しかし——それだけではない。
胸の奥で、佐藤凛が知らなかった感情が溢れた。家族が自分のために動いてくれる喜び。それは前世では一度も感じたことのない温もりだった。ナターリアは駒として来るのではない。姉に会いに来るのだ。「自分で選んだ」と言って。
ルキウスが窓辺に来た。
「お前の妹が来るのか。似ているのか」
「会ったことがないのですわ。この世界では」
ルキウスが怪訝な顔をした。「この世界では」という奇妙な言い回しに気づいたのだろう。しかし追及はしなかった。
「妹が来るなら、護衛が要る。山道は安全じゃない」
「お願いしますわ」
ルキウスが頷き、足早に出ていった。護衛隊の編成を変えるのだろう。この男は言葉より先に行動する。それが騎士の流儀だ。
窓の外に目をやった。北の空に、夕暮れの光とは別の光がある。以前より明らかに近い。明らかに強い。エミルが言っていた魔力脈の活性化。リリアーヌの力の覚醒。そして——地下に眠るものの鼓動。全てが同時に動き始めている。
教会が来る。父の追手が来る。そして——北からも何かが来る。
三つの嵐が、この小さな辺境の領地に向かっている。




