盗み聞きの代償——フリッツの忠誠と葛藤
レオンハルトの客室の隣、小さな従者用の部屋。窓から差し込む薄い光の中で、手帳を開いている。いつもは公務の記録で埋まるページが、今朝は白紙のままだった。
昨夜、書斎の前を通った。殿下に温めた麦酒を届ける途中だった。書斎の扉は完全には閉まっておらず、中から声が漏れていた。
——転生。処刑。前世の知識。
断片的に聞こえた言葉の意味を、フリッツは一晩中考えた。転生とは何だ。前世とは。処刑される未来を知っている——それはどういう意味だ。
セラフィーナ嬢の声だった。そしてエミル殿の声。二人が深刻な顔で語り合っていた。内容の全てを聞き取れたわけではない。しかし断片だけでも——これが普通の会話ではないことはわかる。
レオンハルト殿下に報告すべきか。
従者として当然だ。主人に関わる重要な情報は全て報告する。それがフリッツの職務であり、誇りであり、存在意義だ。レオンハルト殿下を守ることが、フリッツの全てだ。
しかし——
セラフィーナ嬢の声には、恐怖が混じっていた。聡明で冷静な女性が見せた、剥き出しの恐怖。あの声を聞いて、フリッツの中の何かが躊躇した。報告すれば、殿下はどう動くだろうか。セラフィーナ嬢を問い詰めるか。それとも——
手帳を閉じた。革の表紙が手に馴染む。八年間、毎日書き続けてきた手帳だ。殿下の予定、来客の記録、会議の議事録。全てを正確に記してきた。革の角が擦り減り、綴じ糸は幾度も修繕されている。この手帳はフリッツの分身であり、忠誠の証だ。しかし今朝の白紙のページが、自分の頭の中と同じだった。何も書けない。何も決められない。窓の外で鳥が鳴いている。いつもなら心地よい朝のさえずりが、今日はどこか遠い。
◇
朝食の席で、セラフィーナ嬢と目が合った。
一瞬だけ、彼女の瞳に探るような光が走った。気づいている。自分の様子がおかしいことに。この女性は観察力が鋭い。隠し事をしている人間を見抜く目を持っている。
スープの匙を口に運んだ。味がしなかった。隣ではレオンハルトが穏やかにパンを食べている。主人のこの表情を守りたい。だからこそ報告すべきなのか。報告しないべきなのか。
食後、廊下でエミルとすれ違った。銀縁の眼鏡の奥から、一瞬だけ鋭い視線が飛んできた。こちらの動揺に気づいている——いや、昨夜の足音の主がフリッツだと、既に見抜いているのかもしれない。あの男は学者の穏やかさの下に、恐ろしい洞察力を隠している。
レオンハルトが書類整理のために客室に戻った。フリッツが後に続く。いつもの朝の業務だ。インク壺を確認し、ペンの先を整え、手帳を開いて今日の予定を読み上げる。
「殿下、本日は午前中に辺境の税収報告の確認、午後にルキウス殿と護衛隊の現況視察、夕刻にギュンター殿との——」
「フリッツ」
レオンハルトが書類から顔を上げた。
「お前、今朝から様子がおかしいぞ」
心臓が跳ねた。やはり見抜かれている。当然だ。八年間仕えてきた主人に、フリッツの動揺が見えないはずがない。
「いえ、殿下。少し寝不足で——」
「嘘をつくな。余の前で」
短い言葉だった。しかし声には怒りではなく、静かな確信が込められていた。レオンハルトはフリッツの嘘を許さない。同時に、真実を語る猶予は与える。
「……殿下」
手帳を膝の上に置いた。指が微かに震えている。
「セラフィーナ嬢の知識の出所を、殿下はお気にされませんか」
間接的な問いかけ。直接「昨夜盗み聞きしました」と言う勇気はなかった。
レオンハルトが椅子の背にもたれた。窓からの光が横顔を照らしている。
「彼女が有能であることに、理由が必要か?」
即答だった。迷いのない声。まるでその質問を予想していたかのように。ペンを置き、フリッツの目を真っ直ぐに見ている。
この目だ、とフリッツは思った。殿下がセラフィーナ嬢のことを語る時に見せる、揺るぎない光。婚約を破棄された相手を、なぜここまで——その理由の一端が、今明かされようとしている。
「しかし殿下、複式簿記や先物取引は——この国のどの学問にも——」
「知っている」
フリッツの言葉が凍りついた。
知っている。殿下は——知っているのか。
レオンハルトの表情が変わった。穏やかだが、有無を言わせない王太子の目。
「フリッツ、昨夜お前は書斎の前を通ったな」
「……はい」
「何か聞いたか」
沈黙が部屋を満たした。窓の外で鳥が鳴いている。正直に答えるべきか。従者として、嘘はつけない。しかし——
「断片的に。転生、という言葉と——処刑される未来、という言葉を」
レオンハルトが目を閉じた。長い数秒の沈黙が流れた。そして目を開いた時、その瞳には決意が宿っていた。
「フリッツ。余が次に話すことは、お前の忠誠に値する秘密だ。他言すれば——この国の根幹が揺らぐ」
フリッツの背中が伸びた。
「セラフィーナは——余たちの知る世界とは異なる場所の記憶を持っている。詳細は省くが、彼女の知識はそこから来ている。そして彼女は、自分が処刑される未来を回避するために動いている」
処刑される未来。セラフィーナ嬢が。あの聡明で、領民に慕われ、辺境の経済を立て直した女性が。帳簿を開く時の真剣な目。領民に話しかける時の柔らかい声。あの人が処刑される——想像するだけで、胸が潰れそうになった。
「殿下は……いつから」
「しばらく前からだ。エミルが仮説を立て、余と三人で話し合った。余は全てを聞いた上で、彼女を守ると決めた」
全てを知った上で。殿下は全てを知っていた。そしてフリッツには伝えなかった。
胸の奥で、小さな棘が刺さった。信頼されていなかったのか。八年間の忠誠は——
「伝えなかったのは、お前を守るためだ」
レオンハルトの声が柔らかくなった。窓辺に立ち、外を見ながら言葉を選んでいる。主人の声というより、友人の声。
「この秘密を知る者が増えるほど、危険が増す。特に教会が関わっている。先日のヴィクトル神官の訪問は、その端緒だ。お前を巻き込みたくなかった」
教会。あの白い馬車で来た穏やかな神官。あの男が関わっている。秘密の重さが、さらに一段増した。
守られていた。排除されたのではなく、守られていたのだ。八年間の忠誠を軽んじられたのではない。八年間の信頼があるからこそ、危険から遠ざけようとしてくれた。
フリッツの目頭が熱くなった。視界が滲んだ。八年間仕えてきて、初めて殿下の前で涙を見せそうになった。手帳を胸に抱えて、深く頭を下げた。
「殿下。私は——殿下とセラフィーナ嬢の秘密を、命に代えてもお守りいたします」
「大げさだ。命を賭ける必要はない。ただ、いつも通りにしてくれればいい。目を配り、耳を澄ませ、異変があれば余に報告する。お前がこの八年やってきたことと同じだ」
レオンハルトが微かに笑った。しかしその笑みには安堵が混じっていた。信頼できる人間が、一人増えた。秘密の重さを分かち合える者が。
「フリッツ、お前に一つ頼みがある」
「何なりと」
「余の目が届かない場所での、セラフィーナの安全を——見守ってくれ。お前の目と耳は、余にとって何より信頼できる」
「はい、殿下」
フリッツは手帳の新しいページを開いた。白紙だったページに、一行だけ書いた。
「セラフィーナ嬢護衛任務——最優先」
文字がまだ少し震えていた。しかし心は定まっていた。
◇
その日の午後、セラフィーナはフリッツが廊下の掃除を手伝っている姿を見かけた。従者の仕事ではない。しかしフリッツは黙々と拭き掃除をしていた。セラフィーナと目が合うと、今度は逸らさなかった。
「セラフィーナ嬢」
「はい」
「殿下からお伝えするよう仰せつかりました。今夕のギュンター殿との会合に、殿下も同席されるそうです」
普通の業務連絡。しかしフリッツの目の奥に、昨日までなかった光があった。決意の光。何かを受け入れ、覚悟を決めた人間の目。
レオンハルトが話したのだ。フリッツに。全てを。
エミルの予測通り、フリッツは忠誠心ゆえに動いた。しかしその結果は最悪ではなかった。味方が一人増えたのだ。
「フリッツ殿。ありがとうございます」
その一言に、複数の意味を込めた。業務連絡への謝意と、秘密を受け入れてくれたことへの感謝と、これからの道を共に歩いてくれることへの信頼と。
フリッツは深く頭を下げた。その背中に、八年分の忠誠が宿っていた。
「何かありましたら、いつでもお申し付けください。殿下の不在時も——私が、ここにおります」
小さな従者の大きな覚悟。その言葉が、思った以上に胸に響いた。
秘密を知る人間が、また一人増えた。危険は増す。しかし今日は——心強さの方が勝っていた。




