残業しない勇気——セラフィーナ、心の帳簿を開く
最後の数字を帳簿に書き込み、貸借対照表の最終行に合計額を記入した。借方合計と貸方合計が一致した。差額ゼロ。完璧な決算だ。
ペンを置いた。深呼吸した。机の上に積まれた帳簿の山が、一年間の辺境経営の全てを語っている。税収は前年比三倍。疾病率は六割低下。領民所得は二倍以上。城壁修繕は完了。新規取引先は十二件。アイゼンフェルト領との鉄鉱石取引、ヴェーバー領との融資契約、カーティス・ノーヴァルとの共同研究。全てが数字として帳簿に刻まれている。
窓の外に春の夕暮れが広がっている。桜に似た辺境の花木が、薄紅色の花を咲かせている。一年前の今頃、この執務室に初めて座った。埃だらけの机。朽ちかけた帳簿。前任の代官が三ヶ月で逃げ出した後の荒廃した部屋。前世の記憶と、ゲームの知識と、経理のスキルだけを武器にして、ここに座った。あれから何もかもが変わった。部屋も。帳簿も。自分自身も。
「セラフィーナ様。決算は終わりましたか」
ヨハンが茶を持ってきた。いつもの完璧な温度。
「終わりましたわ」
「では——」
「ええ。答えを出さなければ」
ヨハンは何も言わなかった。茶を置いて、静かに一礼して去った。この従者は必要な言葉だけを使う。
◇
しかし、答えを出す前にもう一人の人間と話す必要があった。
ヘルガの部屋を訪ねた。台所の奥の小さな部屋。ヘルガは椅子に座って、繕い物をしていた。ナターリアのエプロンだ。料理の練習で汚したらしい。
「ヘルガ」
「なんだい」
「聞いてほしいことがあるんです」
ヘルガが繕い物を膝に置いた。セラフィーナの顔を見て、何かを察した。
「座りな」
向かいの椅子に座った。ヘルガの部屋は小さいが清潔だ。壁に干し草の香りがする。窓辺にオルガからもらった薬草の鉢が一つ。
「私——前世で、死んだんです」
ヘルガの手が止まった。
「過労死です。二十八歳で。毎日、朝から夜中まで帳簿をつけて。残業して。休日も出勤して。体が壊れるまで働いて、死にました」
初めてだった。ヘルガに前世の話をするのは。エミルやレオンハルトには断片的に話した。しかしヘルガには——一度も。
「上司に言われるままに働いた。『お前がやらないと回らない』と言われて。断れなかった。逃げられなかった。助けてと言えなかった。深夜のオフィスで、蛍光灯の下で、一人で帳簿をつけていた。死ぬ前日も」
声が震えた。しかし止めなかった。ヘルガの前では——全部言える。
「朝五時に目覚ましが鳴って、六時に電車に乗って、七時にオフィスに着いて、夜中の十一時まで、毎日。休日もメールが来た。休めなかった。体が限界だと知っていたのに——立ち止まることが怖かった。立ち止まったら、自分が空っぽだと気づいてしまうから」
ヘルガの目が赤くなった。しかし泣かなかった。この女性は——人の話を聞く時に泣かない。全部聞いてから泣く。
「だから今世でも——帳簿に逃げるんです。感情が怖い時に、数字に逃げる。レオンハルトに告白された時も、決算期だと言って逃げた」
「知ってるよ。館中に聞こえてたからね。ラウル以外は全員知ってる」
「……ラウル以外」
「あの子は門番だから。で、あんたは決算を言い訳にした。そこまでは知ってる。しかしね」
ヘルガがセラフィーナの目を見据えた。
「あんたが怖がっているのは、決算じゃないだろう。帳簿の締め切りなんて、あんたは寝ててもできるんだ。怖がっているのは別のものだ」
「……はい」
「続けな」
セラフィーナは深呼吸した。
「私はレオンハルトのことが好きです」
言った。声に出した。初めて。
「帳簿を見てくれた時から。丘の上で笑ってくれた時から。辺境が襲われた時に全てを賭けて来てくれた時から。好きです。でも怖い」
「何が怖いんだい」
「幸せになることが。前世で幸せを知らないまま死にました。今世で幸せを掴んで、また失ったら——今度こそ壊れる」
ヘルガが立ち上がった。セラフィーナの前に来た。両手でセラフィーナの頬を挟んだ。硬い手だ。鍋を持ち、パンをこね、この館を支えてきた手だ。
「いいかい、お嬢様」
ヘルガの声が低く、しかし温かかった。
「帳簿はね、つけたらつけっぱなしにしちゃいけないんだよ。棚にしまって、埃をかぶせて、見ないふりをしちゃいけない。——あんたの心の帳簿も同じだよ」
「ヘルガ……」
「残業はしなくていいんだよ。定時で帰っていいんだよ。帳簿を閉じて、好きな人のところに行っていいんだよ。あんたは前の世界で、それを許されなかった。でもここでは許されるんだ」
涙が溢れた。止まらなかった。ヘルガの手が頬を包んでいる。温かい。この手は——「おかえり」と言ってくれた手だ。帳簿を取り上げて朝食を食べさせてくれた手だ。前世にはこんな手はなかった。頬を包んでくれる手も、「帰っていい」と言ってくれる声も。
「ヘルガは——私の母みたいです」
「あんたの母上は聖女だよ。私はただの料理人さ」
「料理人の手の方が——温かいですわ」
ヘルガの目から、ようやく涙が一筋落ちた。この女性は全部聞いてから泣く。
「さあ、行きな。あの馬鹿王子は三日も待ってるんだ。フリッツとかいう従者が可哀想だよ」
泣き笑いした。ヘルガも笑っていた。目が赤いまま。
◇
客間の扉の前で立ち止まった。
深呼吸した。帳簿を開く前の呼吸とは違う。心臓が速い。手が少し震えている。しかし逃げない。
扉を開けた。
レオンハルトが窓辺に立っていた。手に辺境の農業記録を持っている。三日間、この部屋で辺境の資料を読み続けていたらしい。机の上に読了した本が十二冊積まれている。
「——終わったか」
「はい。決算が」
「決算か」
「はい。——そして、もう一つ」
セラフィーナが前に出た。レオンハルトの前に立った。帳簿の山はない。書類の壁もない。二人の間には何もない。
「三日前の質問に、お答えしますわ」
レオンハルトの目が真剣になった。金色の目だ。丘の上で風に吹かれた時と同じ目。しかし今は不安が混じっている。王太子が不安な顔をしている。この男も怖いのだ。
「私もあなたのことを好いています」
レオンハルトが息を呑んだ。農業記録が手から滑り落ちた。床に落ちる音が、静かな客間に響いた。
「帳簿を見てくれた時から。数字の力を信じてくれた時から。辺境を、私の居場所を、あなた自身の居場所にしてくれた時から。鴉便の追伸に『辺境の茶が恋しい』と書いてくれた時から。ずっと」
「……ずっと、か」
「ずっとです。しかし条件がありますわ」
「条件?」
「残業はしません」
レオンハルトがきょとんとした。
「前世で私は残業で死にました。今世では定時で帰ります。帳簿は夕方六時で閉じます。それ以降はあなたの隣にいる時間ですわ」
レオンハルトが笑った。議会の演説の時とも、戦場の時とも違う笑い。辺境の丘の上で、風に吹かれた時の笑い。
「定時で帰る王太子妃か。前代未聞だな」
「前代未聞の帳簿で王国を立て直す王太子妃ですわ」
レオンハルトが手を差し伸べた。大きな手だ。剣を握り、改革案にペンを走らせた手だ。
セラフィーナがその手を取った。帳簿を持つ手ではなく、ただの自分の手で。
温かかった。
客間の窓から、春の夕日が差し込んでいた。辺境の丘の向こうに夕焼けが広がっている。修繕された城壁が、金色に染まっている。
泣いた。笑いながら泣いた。帳簿の数字では表現できない感情が溢れている。借方にも貸方にも入れられない。差引ゼロにならない。それでいい。感情は決算しなくていい。
レオンハルトも笑っていた。少しだけ目が潤んでいた。この男は人前では泣かない。しかし少しだけ、目が赤い。
「三日も待たせてすみませんでしたわ」
「待った甲斐はあった。辺境の農業は勉強になった」
「そこですか」
「冗談だ。いや、半分本気だ。辺境の土壌改良の記録は読む価値がある」
「告白の返事の直後に農業の話をする王太子って……」
「お前に言われたくない。告白の返事に決算期を持ち出した女に」
二人で笑った。馬鹿みたいな笑いだった。しかしそれでいい。完璧でなくていい。帳簿は完璧を求める。しかし人間関係は不完全なままで、温かい。
廊下からヘルガの声が聞こえた。
「ヨハン! 茶を二つ! 一番いいやつを出しな!」
ヨハンの返事が聞こえた。
「もう用意してあります」
この従者は何もかも見えている。三日前から茶を二つ用意し続けていたのかもしれない。
茶が来た。二つの茶碗。いつもの完璧な温度。レオンハルトが一口飲んで笑った。
「辺境の茶だ。やはりこれがいい」
セラフィーナも飲んだ。温かかった。いつもと同じ温度のはずなのに、今日は少しだけ甘く感じた。




