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処刑エンドの悪役令嬢に転生したので攻略対象を全員回避して辺境で起業したら、なぜか王太子が追いかけてくるんですが  作者: ぽんぽこライフ


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残業しない勇気——セラフィーナ、心の帳簿を開く

 最後の数字を帳簿に書き込み、貸借対照表の最終行に合計額を記入した。借方合計と貸方合計が一致した。差額ゼロ。完璧な決算だ。


 ペンを置いた。深呼吸した。机の上に積まれた帳簿の山が、一年間の辺境経営の全てを語っている。税収は前年比三倍。疾病率は六割低下。領民所得は二倍以上。城壁修繕は完了。新規取引先は十二件。アイゼンフェルト領との鉄鉱石取引、ヴェーバー領との融資契約、カーティス・ノーヴァルとの共同研究。全てが数字として帳簿に刻まれている。


 窓の外に春の夕暮れが広がっている。桜に似た辺境の花木が、薄紅色の花を咲かせている。一年前の今頃、この執務室に初めて座った。埃だらけの机。朽ちかけた帳簿。前任の代官が三ヶ月で逃げ出した後の荒廃した部屋。前世の記憶と、ゲームの知識と、経理のスキルだけを武器にして、ここに座った。あれから何もかもが変わった。部屋も。帳簿も。自分自身も。


「セラフィーナ様。決算は終わりましたか」


 ヨハンが茶を持ってきた。いつもの完璧な温度。


「終わりましたわ」


「では——」


「ええ。答えを出さなければ」


 ヨハンは何も言わなかった。茶を置いて、静かに一礼して去った。この従者は必要な言葉だけを使う。





 しかし、答えを出す前にもう一人の人間と話す必要があった。


 ヘルガの部屋を訪ねた。台所の奥の小さな部屋。ヘルガは椅子に座って、繕い物をしていた。ナターリアのエプロンだ。料理の練習で汚したらしい。


「ヘルガ」


「なんだい」


「聞いてほしいことがあるんです」


 ヘルガが繕い物を膝に置いた。セラフィーナの顔を見て、何かを察した。


「座りな」


 向かいの椅子に座った。ヘルガの部屋は小さいが清潔だ。壁に干し草の香りがする。窓辺にオルガからもらった薬草の鉢が一つ。


「私——前世で、死んだんです」


 ヘルガの手が止まった。


「過労死です。二十八歳で。毎日、朝から夜中まで帳簿をつけて。残業して。休日も出勤して。体が壊れるまで働いて、死にました」


 初めてだった。ヘルガに前世の話をするのは。エミルやレオンハルトには断片的に話した。しかしヘルガには——一度も。


「上司に言われるままに働いた。『お前がやらないと回らない』と言われて。断れなかった。逃げられなかった。助けてと言えなかった。深夜のオフィスで、蛍光灯の下で、一人で帳簿をつけていた。死ぬ前日も」


 声が震えた。しかし止めなかった。ヘルガの前では——全部言える。


「朝五時に目覚ましが鳴って、六時に電車に乗って、七時にオフィスに着いて、夜中の十一時まで、毎日。休日もメールが来た。休めなかった。体が限界だと知っていたのに——立ち止まることが怖かった。立ち止まったら、自分が空っぽだと気づいてしまうから」


 ヘルガの目が赤くなった。しかし泣かなかった。この女性は——人の話を聞く時に泣かない。全部聞いてから泣く。


「だから今世でも——帳簿に逃げるんです。感情が怖い時に、数字に逃げる。レオンハルトに告白された時も、決算期だと言って逃げた」


「知ってるよ。館中に聞こえてたからね。ラウル以外は全員知ってる」


「……ラウル以外」


「あの子は門番だから。で、あんたは決算を言い訳にした。そこまでは知ってる。しかしね」


 ヘルガがセラフィーナの目を見据えた。


「あんたが怖がっているのは、決算じゃないだろう。帳簿の締め切りなんて、あんたは寝ててもできるんだ。怖がっているのは別のものだ」


「……はい」


「続けな」


 セラフィーナは深呼吸した。


「私はレオンハルトのことが好きです」


 言った。声に出した。初めて。


「帳簿を見てくれた時から。丘の上で笑ってくれた時から。辺境が襲われた時に全てを賭けて来てくれた時から。好きです。でも怖い」


「何が怖いんだい」


「幸せになることが。前世で幸せを知らないまま死にました。今世で幸せを掴んで、また失ったら——今度こそ壊れる」


 ヘルガが立ち上がった。セラフィーナの前に来た。両手でセラフィーナの頬を挟んだ。硬い手だ。鍋を持ち、パンをこね、この館を支えてきた手だ。


「いいかい、お嬢様」


 ヘルガの声が低く、しかし温かかった。


「帳簿はね、つけたらつけっぱなしにしちゃいけないんだよ。棚にしまって、埃をかぶせて、見ないふりをしちゃいけない。——あんたの心の帳簿も同じだよ」


「ヘルガ……」


「残業はしなくていいんだよ。定時で帰っていいんだよ。帳簿を閉じて、好きな人のところに行っていいんだよ。あんたは前の世界で、それを許されなかった。でもここでは許されるんだ」


 涙が溢れた。止まらなかった。ヘルガの手が頬を包んでいる。温かい。この手は——「おかえり」と言ってくれた手だ。帳簿を取り上げて朝食を食べさせてくれた手だ。前世にはこんな手はなかった。頬を包んでくれる手も、「帰っていい」と言ってくれる声も。


「ヘルガは——私の母みたいです」


「あんたの母上は聖女だよ。私はただの料理人さ」


「料理人の手の方が——温かいですわ」


 ヘルガの目から、ようやく涙が一筋落ちた。この女性は全部聞いてから泣く。


「さあ、行きな。あの馬鹿王子は三日も待ってるんだ。フリッツとかいう従者が可哀想だよ」


 泣き笑いした。ヘルガも笑っていた。目が赤いまま。





 客間の扉の前で立ち止まった。


 深呼吸した。帳簿を開く前の呼吸とは違う。心臓が速い。手が少し震えている。しかし逃げない。


 扉を開けた。


 レオンハルトが窓辺に立っていた。手に辺境の農業記録を持っている。三日間、この部屋で辺境の資料を読み続けていたらしい。机の上に読了した本が十二冊積まれている。


「——終わったか」


「はい。決算が」


「決算か」


「はい。——そして、もう一つ」


 セラフィーナが前に出た。レオンハルトの前に立った。帳簿の山はない。書類の壁もない。二人の間には何もない。


「三日前の質問に、お答えしますわ」


 レオンハルトの目が真剣になった。金色の目だ。丘の上で風に吹かれた時と同じ目。しかし今は不安が混じっている。王太子が不安な顔をしている。この男も怖いのだ。


「私もあなたのことを好いています」


 レオンハルトが息を呑んだ。農業記録が手から滑り落ちた。床に落ちる音が、静かな客間に響いた。


「帳簿を見てくれた時から。数字の力を信じてくれた時から。辺境を、私の居場所を、あなた自身の居場所にしてくれた時から。鴉便の追伸に『辺境の茶が恋しい』と書いてくれた時から。ずっと」


「……ずっと、か」


「ずっとです。しかし条件がありますわ」


「条件?」


「残業はしません」


 レオンハルトがきょとんとした。


「前世で私は残業で死にました。今世では定時で帰ります。帳簿は夕方六時で閉じます。それ以降はあなたの隣にいる時間ですわ」


 レオンハルトが笑った。議会の演説の時とも、戦場の時とも違う笑い。辺境の丘の上で、風に吹かれた時の笑い。


「定時で帰る王太子妃か。前代未聞だな」


「前代未聞の帳簿で王国を立て直す王太子妃ですわ」


 レオンハルトが手を差し伸べた。大きな手だ。剣を握り、改革案にペンを走らせた手だ。


 セラフィーナがその手を取った。帳簿を持つ手ではなく、ただの自分の手で。


 温かかった。


 客間の窓から、春の夕日が差し込んでいた。辺境の丘の向こうに夕焼けが広がっている。修繕された城壁が、金色に染まっている。


 泣いた。笑いながら泣いた。帳簿の数字では表現できない感情が溢れている。借方にも貸方にも入れられない。差引ゼロにならない。それでいい。感情は決算しなくていい。


 レオンハルトも笑っていた。少しだけ目が潤んでいた。この男は人前では泣かない。しかし少しだけ、目が赤い。


「三日も待たせてすみませんでしたわ」


「待った甲斐はあった。辺境の農業は勉強になった」


「そこですか」


「冗談だ。いや、半分本気だ。辺境の土壌改良の記録は読む価値がある」


「告白の返事の直後に農業の話をする王太子って……」


「お前に言われたくない。告白の返事に決算期を持ち出した女に」


 二人で笑った。馬鹿みたいな笑いだった。しかしそれでいい。完璧でなくていい。帳簿は完璧を求める。しかし人間関係は不完全なままで、温かい。


 廊下からヘルガの声が聞こえた。


「ヨハン! 茶を二つ! 一番いいやつを出しな!」


 ヨハンの返事が聞こえた。


「もう用意してあります」


 この従者は何もかも見えている。三日前から茶を二つ用意し続けていたのかもしれない。


 茶が来た。二つの茶碗。いつもの完璧な温度。レオンハルトが一口飲んで笑った。


「辺境の茶だ。やはりこれがいい」


 セラフィーナも飲んだ。温かかった。いつもと同じ温度のはずなのに、今日は少しだけ甘く感じた。

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