自由の翼——ナターリア、自分で選ぶ
ローゼンクランツ家の紋章。しかし馬車は質素だ。公爵家のものではなく、旅商人が使うような実用的な造り。御者台にはナターリアの侍女が一人だけ。
ナターリアが馬車から降りた。以前とは違う。社交界のドレスではなく、旅行用の実用的な服装。髪も簡素にまとめている。しかし目が違う。裁判の前のおどおどした目ではない。自分の足で立っている人間の目だ。
「お姉様」
「ナターリア? 事前に連絡がありませんでしたけれど」
「連絡したら止められると思ったので」
止めはしない。しかし心配はする。王都から辺境まで、侍女一人で十日の旅だ。
ヨハンが応接間に案内した。茶を二つ。ヘルガが焼き菓子を持ってきた。リリアーヌの蜂蜜菓子ではなく、ヘルガの素朴なクッキーだ。「お客さんにはまず腹を満たしてもらうのが礼儀だよ」とヘルガが言った。
ナターリアが焼き菓子を一つ齧り、「美味しい」と微笑んだ。旅の疲れが頬に出ている。しかし——表情は晴れやかだ。
◇
「父上に、王太子妃候補を辞退すると伝えてきました」
セラフィーナの手が止まった。茶碗を持ったまま。
「辞退?」
「はい。自分で決めました。父上には反対されました。怒鳴られました。『家の名誉をどう考えている』と。しかし——」
ナターリアが背筋を伸ばした。小さな体だが——今は、大きく見える。
「お姉様が裁判で戦うのを見ました。一人で壇上に立って、自分の言葉で証言した。帳簿の数字を武器にして、教会と宰相に立ち向かった。あの時、思ったんです。自分の人生は、自分で選ばなければいけないと」
「ナターリア……」
「王太子妃候補は——父上が決めたことです。私が選んだことではありません。レオンハルト殿下は立派な方です。しかし私がお慕いしているのではなく、父上が望んだ縁談です。そんな動機で王太子妃になっても、殿下にも、国にも、失礼ですわ」
正しい。ナターリアの言葉は正しい。しかし——アルベルトの反応が気になる。
「父上は——何と」
「最初は怒りました。三十分ほど。書斎の扉を閉めて、二人きりで。声を荒げることは——あまりない方ですが、あの時は違いました。『ローゼンクランツの名に泥を塗るのか』『王家との縁を捨てる意味がわかっているのか』と」
「それは——」
「しかし途中で、私が泣かなかったのです。以前の私なら泣いていました。父上の怒声に怯えて、すぐに引き下がっていました。でもお姉様が裁判で一滴も涙を見せなかったのを思い出して。泣かずに、父上の目を見て言いました。『自分で決めたことです』と」
ナターリアの声が静かだが、芯がある。この声は、裁判前の彼女にはなかった。
「父上は黙りました。長い沈黙でした。そして」
ナターリアが小さく笑った。
「『お前も母上に似てきたな』と。同じ言葉を——お姉様にも言ったそうですね」
また母だ。エリザベート・ローゼンクランツ。教会を離脱し、自分の道を選んだ女性。その血が——二人の娘に流れている。父は二人の娘に同じ言葉を贈った。それは許しの言葉だ。
「それで——辺境に来たのですね」
「はい。お姉様のところで——学びたいのです」
「学ぶ?」
「帳簿の付け方を。経営の仕方を。王太子妃にはなれませんが、何もできない令嬢のままでいるのも嫌です。お姉様が辺境で見つけたように、私も自分の場所を見つけたい」
セラフィーナは妹を見た。十六歳。自分が転生した時と同じ年齢だ。あの時の自分は——処刑を回避することで頭がいっぱいだった。逃げるために辺境を選んだ。しかしナターリアは違う。処刑の恐怖ではなく、自分の意志で辺境を選んでいる。
妹の決意を、前世の自分に重ねた。二十八歳で過労死した経理部員は——一度も「辞めます」と言えなかった。辞表を書く勇気がなかった。しかしナターリアは十六歳で、父に面と向かって自分の意志を告げた。
「辺境は厳しいですよ。社交界とは違います。朝は寒い。冬は凍える。ヘルガに怒鳴られます」
「知っています。でも——お姉様がいる場所なら、大丈夫です」
その言葉が胸に沁みた。前世には妹はいなかった。一人っ子だった。「お姉ちゃん」と呼んでくれる人がいなかった。
「まずは——帳簿の基礎から教えますわ。複式簿記の仕訳帳の書き方。借方と貸方の違い。ギュンター殿の商館で実地研修も」
「はい!」
ナターリアの目が輝いた。その輝きは——かつてセラフィーナが辺境の帳簿を初めて開いた時と同じだ。新しいことを学ぶ喜び。自分の手で何かを始める期待。
「ただし——条件がありますわ」
「条件?」
「帳簿の勉強は朝の五時から。ヘルガの朝食は六時半。遅刻は認めません。——それと、辺境では社交界の挨拶は不要です。領民には普通に話しなさい」
「普通に……」
「『ごきげんよう』ではなく『おはようございます』と」
ナターリアが真面目な顔で頷いた。社交界の令嬢が「おはようございます」の練習をする。奇妙な光景だが——これが辺境だ。身分ではなく、実力で語る場所。帳簿の前では全員が平等だ。
◇
同じ日の午後、カーティス・ノーヴァルからの手紙が鴉便で届いた。
「共同研究の提案」。ギュンターと話した通りの内容だ。体裁は対等だが、中身は教えを乞う手紙。しかし文面からはカーティスなりの誠意が読み取れた。プライドを折って書いた手紙だ。その痛みは想像できる。
ギュンターと二人で手紙を読んだ。商館の奥の部屋で、茶を飲みながら。ギュンターは手紙を二度読み返し、渋い顔のまま頷いた。
「文面は立派だ。しかし行間に悔しさが滲んでいる。三代目は正直な男だな」
返事を書いた。受け入れる旨と、条件を三つ。
一つ、複式簿記の全面導入。ノーヴァル商会の帳簿を全て複式に切り替えること。
二つ、辺境との取引における公正な価格設定。父ハインリヒの時代の不当な価格操作を改めること。
三つ、年に一度、辺境を訪問すること。帳簿は机の上だけでは学べない。現場を見ること。
厳しい条件だ。しかし商売は対等でなければ成り立たない。恩を売りすぎれば相手が卑屈になる。甘くすれば舐められる。ちょうどいい距離を保つことが長い取引関係の鍵だ。
ギュンターに条件を見せたら、渋い顔で頷いた。「妥当だ。甘すぎないのがいい」。
「お嬢は——商売の落としどころを知っている。相手に恥をかかせない。しかし楽もさせない。ちょうどいい距離だ」
「ギュンター殿に教わりましたわ」
「俺はそんなこと教えてないぞ。あんたは勝手に学んだんだ」
「帳簿から学びました。ギュンター殿の三十年分の帳簿から」
ギュンターが渋い顔のまま笑った。
◇
夕方、ナターリアとリリアーヌが台所でヘルガに料理を教わっていた。
リリアーヌがパン生地をこね、ナターリアが野菜を刻んでいる。台所には小麦粉の匂いと煮込みスープの湯気が充満している。ヘルガが二人の手つきを見て、首を横に振っている。
「あんたたち、貴族のお嬢様は包丁の持ち方から習わなきゃいけないのかい」
「ヘルガさん、私これでも蜂蜜菓子は上手に焼けるんですよ」
「菓子と料理は違うんだよ」
ナターリアが人参を切りながら、ぎこちなく笑った。初めてのことだらけだ。しかし楽しそうだ。社交界の仮面を外した素顔が、台所の湯気の中で笑っている。
「ヘルガさん、この切り方で合っていますか」
「厚い。半分にしな」
「は、半分……こうですか」
「まだ厚い。いいかい、スープに入れるなら口に入る大きさだよ。あんたの口か? 馬の口か?」
ナターリアが真剣な顔で人参と格闘している。この妹は——社交界ではドレスとマナーを完璧にこなしていたが、包丁は初めてだ。しかし目が真剣だ。新しいことを学ぶ時の目。姉と同じ目だ。
セラフィーナは廊下からその光景を見ていた。妹が——自分の場所を見つけようとしている。帳簿で始まった辺境の物語に、新しい登場人物が加わった。
ヨハンが隣に立った。
「賑やかになりましたね」
「ええ。帳簿の項目も増えますわね。食費と被服費と研修費と」
「経営者の発想ですね」
「経営者ですから」
しかし口元が緩んでいた。数字では説明できない温かさが、この館に満ちている。決算期の忙しさも、レオンハルトの告白も、ルキウスとエミルの誠意も、ナターリアの決意も——全てが、この辺境の春に集まっている。
明日で決算が終わる。三日間の猶予が、あと一日で尽きる。レオンハルトは客間で何をしているのだろう。フリッツの報告によれば、辺境の農業記録を借りて読んでいるらしい。待っている間も勉強している。この男は本当に真面目だ。
心の帳簿に、まだ未記帳の項目が一つ残っている。借方に何を書くべきか。貸方に何を書くべきか。帳簿は感情を数字に変換する道具ではない。しかし答えを先延ばしにする言い訳にも、もう使えない。




