表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
処刑エンドの悪役令嬢に転生したので攻略対象を全員回避して辺境で起業したら、なぜか王太子が追いかけてくるんですが  作者: ぽんぽこライフ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

123/125

自由の翼——ナターリア、自分で選ぶ

 ローゼンクランツ家の紋章。しかし馬車は質素だ。公爵家のものではなく、旅商人が使うような実用的な造り。御者台にはナターリアの侍女が一人だけ。


 ナターリアが馬車から降りた。以前とは違う。社交界のドレスではなく、旅行用の実用的な服装。髪も簡素にまとめている。しかし目が違う。裁判の前のおどおどした目ではない。自分の足で立っている人間の目だ。


「お姉様」


「ナターリア? 事前に連絡がありませんでしたけれど」


「連絡したら止められると思ったので」


 止めはしない。しかし心配はする。王都から辺境まで、侍女一人で十日の旅だ。


 ヨハンが応接間に案内した。茶を二つ。ヘルガが焼き菓子を持ってきた。リリアーヌの蜂蜜菓子ではなく、ヘルガの素朴なクッキーだ。「お客さんにはまず腹を満たしてもらうのが礼儀だよ」とヘルガが言った。


 ナターリアが焼き菓子を一つ齧り、「美味しい」と微笑んだ。旅の疲れが頬に出ている。しかし——表情は晴れやかだ。





「父上に、王太子妃候補を辞退すると伝えてきました」


 セラフィーナの手が止まった。茶碗を持ったまま。


「辞退?」


「はい。自分で決めました。父上には反対されました。怒鳴られました。『家の名誉をどう考えている』と。しかし——」


 ナターリアが背筋を伸ばした。小さな体だが——今は、大きく見える。


「お姉様が裁判で戦うのを見ました。一人で壇上に立って、自分の言葉で証言した。帳簿の数字を武器にして、教会と宰相に立ち向かった。あの時、思ったんです。自分の人生は、自分で選ばなければいけないと」


「ナターリア……」


「王太子妃候補は——父上が決めたことです。私が選んだことではありません。レオンハルト殿下は立派な方です。しかし私がお慕いしているのではなく、父上が望んだ縁談です。そんな動機で王太子妃になっても、殿下にも、国にも、失礼ですわ」


 正しい。ナターリアの言葉は正しい。しかし——アルベルトの反応が気になる。


「父上は——何と」


「最初は怒りました。三十分ほど。書斎の扉を閉めて、二人きりで。声を荒げることは——あまりない方ですが、あの時は違いました。『ローゼンクランツの名に泥を塗るのか』『王家との縁を捨てる意味がわかっているのか』と」


「それは——」


「しかし途中で、私が泣かなかったのです。以前の私なら泣いていました。父上の怒声に怯えて、すぐに引き下がっていました。でもお姉様が裁判で一滴も涙を見せなかったのを思い出して。泣かずに、父上の目を見て言いました。『自分で決めたことです』と」


 ナターリアの声が静かだが、芯がある。この声は、裁判前の彼女にはなかった。


「父上は黙りました。長い沈黙でした。そして」


 ナターリアが小さく笑った。


「『お前も母上に似てきたな』と。同じ言葉を——お姉様にも言ったそうですね」


 また母だ。エリザベート・ローゼンクランツ。教会を離脱し、自分の道を選んだ女性。その血が——二人の娘に流れている。父は二人の娘に同じ言葉を贈った。それは許しの言葉だ。


「それで——辺境に来たのですね」


「はい。お姉様のところで——学びたいのです」


「学ぶ?」


「帳簿の付け方を。経営の仕方を。王太子妃にはなれませんが、何もできない令嬢のままでいるのも嫌です。お姉様が辺境で見つけたように、私も自分の場所を見つけたい」


 セラフィーナは妹を見た。十六歳。自分が転生した時と同じ年齢だ。あの時の自分は——処刑を回避することで頭がいっぱいだった。逃げるために辺境を選んだ。しかしナターリアは違う。処刑の恐怖ではなく、自分の意志で辺境を選んでいる。


 妹の決意を、前世の自分に重ねた。二十八歳で過労死した経理部員は——一度も「辞めます」と言えなかった。辞表を書く勇気がなかった。しかしナターリアは十六歳で、父に面と向かって自分の意志を告げた。


「辺境は厳しいですよ。社交界とは違います。朝は寒い。冬は凍える。ヘルガに怒鳴られます」


「知っています。でも——お姉様がいる場所なら、大丈夫です」


 その言葉が胸に沁みた。前世には妹はいなかった。一人っ子だった。「お姉ちゃん」と呼んでくれる人がいなかった。


「まずは——帳簿の基礎から教えますわ。複式簿記の仕訳帳の書き方。借方と貸方の違い。ギュンター殿の商館で実地研修も」


「はい!」


 ナターリアの目が輝いた。その輝きは——かつてセラフィーナが辺境の帳簿を初めて開いた時と同じだ。新しいことを学ぶ喜び。自分の手で何かを始める期待。


「ただし——条件がありますわ」


「条件?」


「帳簿の勉強は朝の五時から。ヘルガの朝食は六時半。遅刻は認めません。——それと、辺境では社交界の挨拶は不要です。領民には普通に話しなさい」


「普通に……」


「『ごきげんよう』ではなく『おはようございます』と」


 ナターリアが真面目な顔で頷いた。社交界の令嬢が「おはようございます」の練習をする。奇妙な光景だが——これが辺境だ。身分ではなく、実力で語る場所。帳簿の前では全員が平等だ。





 同じ日の午後、カーティス・ノーヴァルからの手紙が鴉便で届いた。


 「共同研究の提案」。ギュンターと話した通りの内容だ。体裁は対等だが、中身は教えを乞う手紙。しかし文面からはカーティスなりの誠意が読み取れた。プライドを折って書いた手紙だ。その痛みは想像できる。


 ギュンターと二人で手紙を読んだ。商館の奥の部屋で、茶を飲みながら。ギュンターは手紙を二度読み返し、渋い顔のまま頷いた。


「文面は立派だ。しかし行間に悔しさが滲んでいる。三代目は正直な男だな」


 返事を書いた。受け入れる旨と、条件を三つ。


 一つ、複式簿記の全面導入。ノーヴァル商会の帳簿を全て複式に切り替えること。


 二つ、辺境との取引における公正な価格設定。父ハインリヒの時代の不当な価格操作を改めること。


 三つ、年に一度、辺境を訪問すること。帳簿は机の上だけでは学べない。現場を見ること。


 厳しい条件だ。しかし商売は対等でなければ成り立たない。恩を売りすぎれば相手が卑屈になる。甘くすれば舐められる。ちょうどいい距離を保つことが長い取引関係の鍵だ。


 ギュンターに条件を見せたら、渋い顔で頷いた。「妥当だ。甘すぎないのがいい」。


「お嬢は——商売の落としどころを知っている。相手に恥をかかせない。しかし楽もさせない。ちょうどいい距離だ」


「ギュンター殿に教わりましたわ」


「俺はそんなこと教えてないぞ。あんたは勝手に学んだんだ」


「帳簿から学びました。ギュンター殿の三十年分の帳簿から」


 ギュンターが渋い顔のまま笑った。





 夕方、ナターリアとリリアーヌが台所でヘルガに料理を教わっていた。


 リリアーヌがパン生地をこね、ナターリアが野菜を刻んでいる。台所には小麦粉の匂いと煮込みスープの湯気が充満している。ヘルガが二人の手つきを見て、首を横に振っている。


「あんたたち、貴族のお嬢様は包丁の持ち方から習わなきゃいけないのかい」


「ヘルガさん、私これでも蜂蜜菓子は上手に焼けるんですよ」


「菓子と料理は違うんだよ」


 ナターリアが人参を切りながら、ぎこちなく笑った。初めてのことだらけだ。しかし楽しそうだ。社交界の仮面を外した素顔が、台所の湯気の中で笑っている。


「ヘルガさん、この切り方で合っていますか」


「厚い。半分にしな」


「は、半分……こうですか」


「まだ厚い。いいかい、スープに入れるなら口に入る大きさだよ。あんたの口か? 馬の口か?」


 ナターリアが真剣な顔で人参と格闘している。この妹は——社交界ではドレスとマナーを完璧にこなしていたが、包丁は初めてだ。しかし目が真剣だ。新しいことを学ぶ時の目。姉と同じ目だ。


 セラフィーナは廊下からその光景を見ていた。妹が——自分の場所を見つけようとしている。帳簿で始まった辺境の物語に、新しい登場人物が加わった。


 ヨハンが隣に立った。


「賑やかになりましたね」


「ええ。帳簿の項目も増えますわね。食費と被服費と研修費と」


「経営者の発想ですね」


「経営者ですから」


 しかし口元が緩んでいた。数字では説明できない温かさが、この館に満ちている。決算期の忙しさも、レオンハルトの告白も、ルキウスとエミルの誠意も、ナターリアの決意も——全てが、この辺境の春に集まっている。


 明日で決算が終わる。三日間の猶予が、あと一日で尽きる。レオンハルトは客間で何をしているのだろう。フリッツの報告によれば、辺境の農業記録を借りて読んでいるらしい。待っている間も勉強している。この男は本当に真面目だ。


 心の帳簿に、まだ未記帳の項目が一つ残っている。借方に何を書くべきか。貸方に何を書くべきか。帳簿は感情を数字に変換する道具ではない。しかし答えを先延ばしにする言い訳にも、もう使えない。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ