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処刑エンドの悪役令嬢に転生したので攻略対象を全員回避して辺境で起業したら、なぜか王太子が追いかけてくるんですが  作者: ぽんぽこライフ


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辺境から始まる未来——残業のない人生と、隣にいる人

 辺境ヘルムガルドの城壁は、もう修繕の足場がない。石壁は白く輝き、四隅にマルクスが鍛えた鉄の薔薇の紋章が据えられている。門は大きくなった。馬車が二台並んで通れる幅だ。商隊が毎日出入りしている。


 城壁の外にも変化がある。かつて焼けた森は、若木の緑に覆われている。切り株から新しい枝が伸び、一年前の焦げた匂いは消えた。代わりに——木の芽の匂いがする。再生の匂いだ。


 街道沿いに新しい建物が並んでいる。商館の二号店。ギュンターが弟子に任せた支店だ。隣には職人の工房が三軒。マルクスの鍛冶場で修業した若者たちが独立した。その隣にはオルガの薬草園の直売所。聖光草の苗は王都の学術院にも出荷されている。


 朝の六時。セラフィーナは執務室の椅子に座っていた。


 帳簿を開いた。今日は四半期決算の日だ。ヘルムガルド領の第四四半期決算。税収は前年同期比で百二十パーセント。三領地経済圏の効果が数字に出始めている。アイゼンフェルト領との鉄鉱石取引は安定し、ヴェーバー領からの融資は予定通り返済が進んでいる。カーティス・ノーヴァルとの共同研究は——予想外に実りが多い。


 ペンを走らせた。数字が並ぶ。借方と貸方が一致する。帳簿は嘘をつかない。一年間の成果が、ここに凝縮されている。


 ふと、前世の最後の日を思い出した。あの日も四半期決算だった。深夜のオフィスで、蛍光灯の下で、一人で電卓を叩いていた。目が霞んで、数字がぼやけて——それが最後の記憶だった。


 今は違う。朝の光の中で帳簿を書いている。窓の外に春の景色が見える。隣の部屋からヘルガの声が聞こえる。——一人ではない。


「セラフィーナ様。朝食です」


 ヨハンが茶と朝食を運んできた。パンと卵とスープ。ヘルガの味だ。しかし今日は——もう一皿ある。蜂蜜菓子。


「リリアーヌからです。『四半期決算お疲れ様です』と」


 蜂蜜菓子を一つ齧った。甘い。リリアーヌの腕前は、この一年でさらに上がった。聖女としての修行と並行して、養蜂と菓子作りに打ち込んでいる。聖光の力を蜂蜜に込める実験も始めたらしい。「光る蜂蜜菓子」。オルガが興味津々で協力している。


 ナターリアが執務室に顔を出した。エプロンを着けている。


「お姉様、帳簿の練習帳を見ていただけますか」


「あとで。今は決算中ですわ」


「はい。——あ、ヘルガさんが怒っています。朝食を食べないと帳簿を取り上げるそうです」


「食べていますわ」


「蜂蜜菓子だけでは朝食になりません、とヘルガさんが」


 結局、パンもスープも完食した。ヘルガには逆らえない。一年経っても変わらない。


 ナターリアの帳簿は——着実に上達している。複式簿記の基礎は三ヶ月で習得した。今はギュンターの商館で実地研修を受けている。商人の目で数字を見ることを覚え始めた。社交界の令嬢だった妹が、商売の世界に足を踏み入れている。アルベルトからの鴉便には「好きにしろ」とだけ書いてあった。不器用な父の許しだ。





 午前中に四半期決算を終えた。


 帳簿を閉じた。ペンを置いた。時計を見た。——午前十一時。昼食前に終わった。前世なら、四半期決算に三日はかかった。しかし今は——ヨハンの事前整理と、ナターリアの下準備と、ギュンターの明細書の正確さのおかげで、半日で終わる。チームの力だ。一人では三日かかる仕事が、仲間がいれば半日で終わる。


 前世では知らなかった。一人で全てを抱え込む必要はない。助けを求めていい。仕事を分担していい。そして——定時で帰っていい。


 窓を開けた。春の風が吹き込んだ。温かい風だ。城壁の外から子供たちの声が聞こえる。領民の数は二年前の一・五倍に増えた。出生率も上がった。栄養状態が改善し、疾病率が下がり、所得が上がった結果だ。全て——帳簿の数字が証明している。


 エミルが書庫から出てきた。新しい論文の束を抱えている。


「セラフィーナさん。王立学術院から正式な返答が来ました」


「エミル。結果は」


「掲載です。『転生者の自然現象的位置づけに関する学術的考察』——査読を通過しました。これにより——転生者を異端として裁く教会法の根拠が、学術的に否定されたことになります」


 エミルの目が——輝いていた。学者の喜びだ。何年もかけた研究が、ようやく実を結んだ。


「おめでとうございます、エミル」


「おめでとうはまだ早いです。論文が掲載されただけでは制度は変わらない。しかし——最初の一歩です。レオンハルト殿下の議会改革と連動すれば——五年以内に教会法の改正が実現する可能性があります」


 五年。長い時間だ。しかし——三百年間続いた制度を変えるには、充分に短い。


「四人目の転生者の記録も——論文に含まれていますか」


「部分的に。全容はまだ解明できていません。しかし——研究は続けます。真実は——時間がかかっても、必ず明るみに出る」


 エミルが微笑んだ。友人の笑みだ。





 午後、城壁の上に登った。


 ルキウスが騎士団の訓練を指揮している。二十名の騎士が城壁の外で陣形訓練をしている。ルキウスの号令が響く。鋭い声だ。しかし——以前よりも、少しだけ柔らかい。


「ルキウス殿」


「おう。決算は終わったか」


「はい。定時前に」


「定時前か。——お前らしい」


 城壁の上から辺境の全景が見える。緑の森。復興した街並み。商隊の列。鍛冶場の煙。薬草園の緑。門の前で敬礼するラウル。全てが——一年前よりも、色鮮やかだ。


 リリアーヌが城壁の上に蜂蜜菓子を持ってきた。


「ルキウス様にもどうぞ」


「……また甘いのか」


「前回より砂糖を控えました」


「……そうか」


 ルキウスが蜂蜜菓子を受け取った。一口齧って——何も言わなかった。しかし二口目を食べた。リリアーヌが嬉しそうに微笑んだ。この二人の間にも——何かが、ゆっくりと芽生えているのかもしれない。帳簿には載らない種類のものが。


 ギュンターが商館から手を振った。


「お嬢! アイゼンフェルトから新しい見積もりが来てるぞ!」


「明日確認しますわ!」


「明日? 商売に明日はないぞ」


「定時後は商売の話をしない主義ですわ」


 ギュンターが大笑いした。この商人は——一年経っても相変わらず渋い顔だが、笑う頻度は確実に増えた。





 夕方五時。


 帳簿を閉じた。ペンを戻した。引き出しの中に帳簿をしまった。


 定時だ。


 前世では——定時に帰ったことがなかった。「定時」という言葉は辞書の中にしか存在しなかった。しかし今は——帰れる。帳簿を閉じて、立ち上がって、執務室を出ることができる。


 ヨハンが待っていた。


「お疲れ様です。——殿下がお待ちです」


「丘の上ですか」


「はい」


 領主館の裏手の丘。一年前、レオンハルトと二人で風に吹かれた場所。今はセラフィーナが——毎夕、帳簿を閉じた後に行く場所になっていた。


 丘に登った。春の夕暮れ。空が橙色に染まっている。辺境の全景が眼下に広がっている。城壁が夕日に光っている。遠くに山脈が連なり、雪を被った頂が金色に輝いている。マルクスの鍛冶場から最後の煙が上がっている。あの職人も——今日は定時で終えたらしい。


 レオンハルトが先に来ていた。外套を脱いで、草の上に座っている。隣に空けたスペースがある。


「遅い」


「定時ちょうどですわ」


「定時を五分過ぎている」


「帳簿をしまう時間は定時に含まれませんわ」


 レオンハルトが笑った。隣に座った。風が吹いた。二人の髪を揺らした。金と銀——ではなく、銀と赤。セラフィーナの栗色の髪が風に流れた。


「議会はどうですか」


「第三読会まで進んだ。複式簿記の段階導入法案は——来月の採決で可決される見込みだ」


「おめでとうございます」


「お前のデータのおかげだ。辺境の数字が、議会を動かした」


「データを作ったのは辺境の全員ですわ。私は帳簿に書いただけです」


「帳簿に書くことが——全ての始まりだった」


 夕日が沈んでいく。辺境の丘から見る夕焼けは——いつ見ても美しい。前世では、夕焼けを見ることがなかった。窓のないオフィスで、蛍光灯の下で、画面を見つめていた。空の色を忘れていた。


「レオンハルト」


「何だ」


「残業はしていませんか」


「……少ししている」


「少しとはどれくらいですか」


「一時間」


「それは少しではありませんわ。フリッツに言って、定時の鐘を鳴らしてもらいましょう」


「王宮に鐘はない」


「では帳簿を送りましょう。毎日の労働時間を記録する帳簿。超過した日は——赤字で記入しますわ。赤字が三日続いたら、辺境から督促状を送ります」


「勘弁してくれ」


 二人で笑った。丘の上で。春の風の中で。


 一年前もここで笑った。あの時は——まだ何も始まっていなかった。婚約破棄の後、辺境に来たばかりの頃。帳簿と、ゲームの記憶と、過労死の記憶だけを抱えて。


 今は——全てが違う。帳簿はある。しかしそれだけではない。ヨハンの完璧な茶がある。ヘルガの温かい食事がある。ギュンターの渋い顔がある。マルクスの折れない鉄がある。オルガの光る薬草がある。エミルの論文がある。ルキウスの剣がある。リリアーヌの蜂蜜菓子がある。ナターリアの練習帳がある。仲間がいる。友人がいる。妹がいる。帰る場所がある。そして——隣に座る人がいる。


「セラフィーナ」


「はい」


「残業はないのか?」


 セラフィーナは——笑った。


「ありませんわ。今日も——定時で帰りました」


 帳簿は閉じた。数字の世界は明日まで休業だ。


 今は——隣にいる人との時間だ。


 春の風が丘を吹き抜けた。辺境の灯りが一つ、また一つと灯っていく。領民たちが家に帰り、夕食の準備を始めている。煙突から煙が上がる。子供の笑い声が聞こえる。犬が吠える。日常の音だ。


 帳簿には書かれない音。しかし——この音がある場所が、帰る場所だ。


 隣にいる人の手が、自分の手に触れた。温かかった。


 辺境の夕暮れが——ゆっくりと夜に変わっていく。星が一つ、二つ、空に灯る。まるで帳簿の数字のように——一つずつ、確実に。


 しかし星は——帳簿の数字ではない。数えなくていい。ただ——見上げればいい。


 隣の人と一緒に。


 ——残業は、もうしない。ずっと。

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