裁判の後——鉄の薔薇は、まだ帳簿を閉じない
辺境に帰還して三日目の朝。セラフィーナは執務室の椅子に座り、新しい帳簿に復興計画の数字を書き込んでいた。左腕はまだ吊っている。右手だけで書くのにも慣れてきた。字は歪むが、数字は正確だ。城壁修繕費八百ギルダー。薬草園の再植栽費用四十ギルダー。遺族補償金三百ギルダー。復興基金の残高と照合し、不足分を計算する。
ヨハンが茶を置いてくれた。辺境のハーブティー。温度は完璧だ。一口飲んで、また帳簿に戻る。
「セラフィーナ様。お体は……」
「大丈夫ですわ。帳簿を書いている時が一番元気なんです」
嘘ではない。しかし全部本当でもない。帳簿を書いていると、考えなくて済む。裁判のこと。父の涙のこと。レオンハルトの手紙のこと。考え始めると、手が止まる。手が止まると、肋骨が痛む。だから帳簿を書く。前世と同じだ。感情を仕事で覆い隠す。
ヘルガが入ってきた。朝食の盆を持っている。
「あんた、またぶっ通しかい。昨夜も三時まで灯りがついてたよ」
「復興計画の第一稿を仕上げないと……」
「死にかけた人間がやることじゃないよ」
ヘルガが帳簿を取り上げた。右手から奪い取り、盆と交換した。パンとスープと茹で卵。ヘルガの朝食だ。
「食べなさい。帳簿は逃げない」
逆らえない。ヘルガには逆らえない。この女性の前では、宰相の娘も、転生者も、戦場で骨を折った領主も、ただの「馬鹿娘」だ。
パンを齧りながら、窓の外を見た。城壁の修繕作業が進んでいる。クレーンが動き、石が運ばれている。マルクスの弟子たちが金具を鍛造し、城壁の角に据えている。ギュンターの商隊が山岳ルートから木材を搬入している。
裁判が終わり、ノーヴァルの物資制限令が撤回されたことで、正規の街道も使えるようになった。物流が回復すれば、復興の速度は倍になる。数字で見れば、三ヶ月で戦前の水準に戻せる。ただし、その三ヶ月分の資金が足りない。
だから帳簿を書く。どこから資金を捻出するか。何を優先するか。どの順番で進めるか。ギュンターが昨日持ってきた取引先リストを照合し、新たな資金源の可能性を洗い出す。ヴェーバー領との融資交渉も視野に入れなければ。
◇
午後、レオンハルトが王都へ帰京する前の最後の会談を申し出てきた。
応接間に入ると、レオンハルトが既にテーブルに草案を広げていた。「王国財政改革第一稿」と表紙に書かれている。レオンハルトの字だ。力強い。しかし丁寧だ。セラフィーナの帳簿を見て学んだのだろう。数字の書き方が、前よりも正確になっている。
「見てくれ。辺境の複式簿記を王国全体に導入する草案だ。議会に提出する」
草案をめくった。よくできている。辺境のデータを実例として使い、王国全体の財政効率を試算している。しかしいくつか修正が必要だ。
「三ページ目の税率計算が甘いですわ。地域ごとの物価差を反映していない。あと、導入時期が早すぎる。官僚の研修期間を入れないと現場が混乱します」
「……厳しいな」
「帳簿に甘い顔はしませんわ」
レオンハルトが苦笑した。しかし嬉しそうだった。対等に議論できる相手がいることが。
「まず四半期決算の仕組みから導入してください。全体の複式簿記化は段階的に。辺境で二年かけて完成させた仕組みを、一年で王国全体に入れるのは無理ですわ」
「二年か」
「急ぎたいなら、辺境から指導官を派遣しますわ。ギュンター殿なら商人の視点で研修ができます。ただし、報酬は正規料金で」
「商売上手だな」
「経営者ですから」
冬の低い陽光が窓から差し込んでいる。テーブルに広げられた帳簿と草案を照らしている。二人の間に政策を語る自然な呼吸がある。帝王学を受けた王太子と、前世の経理スキルを持つ経営者。異なる背景が、同じ目標に向かって重なっている。
議論は二時間に及んだ。税率の算出方法、導入の段階設計、官僚の研修プログラム、試験運用の対象地域の選定。セラフィーナが数字を出し、レオンハルトが政治的な実現可能性を検討する。噛み合っている。歯車が噛み合うように、二人の知性が回っている。
ヨハンが三度目の茶を運んできた時、二人はほぼ同時に「ここの数字が……」と同じ箇所を指差して、顔を見合わせた。レオンハルトが先に笑った。セラフィーナもつられて笑った。
これがゲームだったら、好感度イベントなのだろう。しかしゲームのシナリオはもう関係ない。これはただ、二人の人間が仕事の話をしているだけだ。
ただし、心臓が少し速い。それは帳簿のせいではない。
◇
夕方、エミルが書庫に呼んでくれた。
薄暗い書庫の中で、エミルがランタンの光で古い文書を照らしていた。銀縁の眼鏡に炎が映っている。予備の眼鏡はもう割れていないが、度が微妙にずれたままだ。
「四人目の転生者の記録について、わかったことを報告します」
「聞かせてください」
エミルが手帳を開いた。地下の封印装置から回収した断片的な記録と、教会の押収文書を照合した結果だ。
「三百年前。教会は三人の転生者を火刑に処しました。カスパール、イレーネ、ゲオルク。しかし記録には四人目がいた。名前は不明。記録が意図的に抹消されています。しかし火刑に処されていない。教会が保護した形跡がある」
「保護? 教会が転生者を?」
「はい。矛盾しています。しかし教会は一枚岩ではなかった。当時の教会内部に改革派が存在し、四人目の転生者を匿った可能性があります。その改革派は後に粛清されていますが」
エミルの声が低くなった。
「そしてもう一つ。お母上——エリザベート様が教会を去った時期と、四人目の転生者の記録が抹消された時期がほぼ一致しています。お母上は教会にいた時に、四人目の記録を見ている可能性がある。それが転生者保護の研究に繋がったのかもしれない」
母が。また母の影が、歴史の裏に見える。聖女として教会に入り、構造を見抜き、転生者の記録を知り、逃げ出し、辺境で研究を続けた。全てが繋がっている。
「恒久的な解決が必要です。教会による転生者の迫害を制度的に不可能にする。そのために学術論文を書きます。転生者の存在を異端ではなく自然現象として位置づけ、教会法の根拠を学術的に否定する」
「長い戦いになりますわ」
「ええ。しかし価値のある戦いです。一人の命がかかっている間に一人の敵を倒すのは緊急対応です。制度を変えて、未来の誰かが同じ目に遭わないようにするのが——本当の解決です」
エミルが微笑んだ。穏やかな笑みだ。学者の探求心と、仲間への信頼が混ざった笑み。前世で過労死した佐藤凛を救えるのは、個人の努力ではなく制度の改革だった。それと同じことをエミルは学術の力でやろうとしている。
「それと——もう一つ」
「何ですか」
「お母上が第七代聖女であったことは——セラフィーナさんにも関係があります。聖女の力は血統に宿る。あなたに魔力がないのは事実ですが——聖女の血統そのものは、別の形で発現する可能性がある。まだ調査中ですが、頭の片隅に置いておいてください」
母の血。聖女の血。それが自分の中にも流れているかもしれない。今は考えても仕方がない。考えるより先に、やるべきことがある。復興計画。財政改革。教会改革。しかしいつか、向き合う時が来るだろう。
◇
夕暮れ時、領主館の正門前でレオンハルトの馬車が待っていた。
フリッツが御者台に座り、護衛の騎士が四名。王太子の帰京だ。しかし大仰な見送りはない。ヘルガが茶を包んで渡し、ヨハンが深く一礼した。
ルキウスが最後に一言だけ伝えに来た。
「騎士団の辺境常駐を正式に上奏した。認可は時間の問題だ」
「ルキウス殿が辺境に常駐されるのですか」
「部隊を送る。俺自身は王都で騎士団の再編が必要だ。しかし——来る」
来る、とだけ言って去った。この男は、余計な言葉を使わない。
レオンハルトが馬車に乗り込んだ。扉を閉める直前、振り返った。
「——必ず戻る。次は視察ではなく」
言いかけて——口を閉じた。フリッツが横から覗き込んだ。
「殿下?」
「何でもない。行くぞ」
馬車が動き出した。石畳の上を車輪が転がる音が遠ざかっていく。北風がレオンハルトの金髪を揺らすのが、門越しに見えた。
「次は視察ではなく」の続きが気になった。しかし聞かなかった。聞けなかった。なぜ聞けなかったのか。帳簿の数字なら、どんな質問でもできる。しかしこの質問だけは、答えが怖い。いや、答えが怖いのではない。答えが嬉しかった時の自分が、怖い。
執務室に戻った。帳簿を開いた。ペンを取った。復興計画の続きを書く。城壁の修繕、食料の備蓄、薬草園の再植栽。やるべきことが山のようにある。
手が止まった。レオンハルトの言葉が頭から離れない。「次は視察ではなく」。その先は何だったのか。
頬が少し熱い。
帳簿を閉じた。ヘルガに叱られる前に、今日はもう休もう。明日からまた書く。帳簿は逃げない。しかしレオンハルトの言葉は、逃げてくれなかった。




