表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
処刑エンドの悪役令嬢に転生したので攻略対象を全員回避して辺境で起業したら、なぜか王太子が追いかけてくるんですが  作者: ぽんぽこライフ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

120/125

王都改革——複式簿記は剣より強し

 鴉便が頻繁に届く。週に二通。議会の動向、改革の進捗、反対派の動き。レオンハルトの字は相変わらず力強いが、最近は余白に小さな追伸が入るようになった。「辺境の茶が恋しい」「ヨハンの淹れた茶の温度を思い出す」「また行く」。


 追伸のたびに、ペンを持つ手が止まる。返事には追伸を書かない。書けない。「お待ちしています」とさえ書けない。代わりに復興の進捗報告と財政改革へのフィードバックを書く。数字なら書ける。感情は書けない。前世でも同じだった。上司への報告メールには数字を並べられたが、友人への返信は下書きのまま何日も放置した。


 左腕の包帯は先週ようやく取れた。まだ重いものは持てないが、両手でペンを扱えるようになった。字が元に戻った。帳簿の数字が整然と並ぶ。それだけで少し安心する。


 ヨハンが鴉便を持ってきた。


「レオンハルト殿下から、今週二通目です」


「ありがとう。あとで読みますわ」


「あとではなく、今お読みになっては」


 ヨハンの目が少し笑っていた。この従者は、何もかも見えている。





 王都では、レオンハルトが議場に立っていた。


 議会の壇上。百二十の議席が半円形に並んでいる。天井から下がる巨大なシャンデリアが、磨き上げられた大理石の床を照らしている。保守派貴族が過半数を占める王国議会で、複式簿記の導入を提案する。前代未聞の試みだ。


「辺境ヘルムガルドの財務データをご覧いただきたい」


 フリッツが分厚い資料を議員の席に配った。セラフィーナが作成した辺境の決算報告書の写し。半年間の税収推移。三倍に跳ね上がった数字。疾病率の四割低下。領民所得の二倍増。全て帳簿の数字に裏打ちされた実績だ。


「これが複式簿記の成果です。辺境の公爵令嬢が半年で成し遂げたことを、王国全体で実現する。そのための改革案を提出する」


 保守派の重鎮が立ち上がった。


「王太子殿下。辺境の小さな成功を王国全体に適用するのは、飛躍ではないか」


「飛躍ではない。辺境は王国の縮図だ。税収の流れを正確に把握すれば、無駄が見える。無駄が見えれば、削減できる。削減した分を民に還元すれば、経済が回る。帳簿の原理は規模に関係なく適用できる」


 反対派の声が上がる。しかしレオンハルトは怯まない。辺境で帳簿の二時間講義を受けた男は——数字の力を知っている。セラフィーナのフィードバックを反映した修正版の改革案は、前回よりも緻密だ。地域ごとの物価差を反映した税率計算。段階的な導入スケジュール。官僚の研修プログラム。


 採決の鐘が鳴った。議長が票数を読み上げる。


 賛成四十五、反対三十八、棄権三十七。過半数には届かない。しかし棄権が多い。態度を決めかねている議員がいる。それは説得の余地があるということだ。


 議場を出た廊下で、フリッツが小声で報告した。


「第一読会としては十分な成果です。棄権した三十七名のうち、少なくとも十二名は辺境のデータに関心を示していました。次の議会までに個別面談を設定すれば……」


「やれ。辺境の四半期決算が出る時期に合わせろ。新しい数字が出れば、また説得材料が増える」


 レオンハルトは頷いた。辺境で学んだ。一度で全てを変える必要はない。四半期ごとに前進すればいい。セラフィーナの帳簿が教えてくれた。数字が証明している。実績を積み重ねれば、人は動く。


 廊下の窓から、冬の王都が見えた。灰色の空。しかしレオンハルトの胸中には、辺境の澄んだ青空が広がっていた。





 同じ頃、王都のノーヴァル邸は静まり返っていた。


 カーティス・ノーヴァルは書斎に閉じこもっていた。机の上に、セラフィーナの商業手法の写しが積まれている。複式簿記の解説書。原価計算の方法論。先物取引の理論。全て裁判の証拠として提出された資料の写しだ。


 父ハインリヒ商務大臣は事実上の引退を強いられていた。裁判での教会との結託が露呈し、商業ギルドの信頼を失った。取引先の三割が契約を凍結し、残りの七割も条件の見直しを要求している。ノーヴァル商会は三代目の危機を迎えている。


「辺境の小娘の真似をしろと?」


 カーティスが歯噛みした。机の上の帳簿を手に取り、複式簿記の仕訳を読む。借方。貸方。収支の対照。理解できる。悔しいことに、理解できてしまう。この手法は合理的だ。感情を排した、純粋な数字の論理。


 商人として認めざるを得ない。セラフィーナの手法は正しい。辺境の実績が証明している。なぜ自分がこれを先に思いつけなかったのか。答えは簡単だ。プライドが邪魔をした。「辺境の小娘」と侮った時点で、学ぶ機会を自ら捨てた。


 ペンを取った。手紙を書く。セラフィーナに宛てた手紙。「教えてください」とは書けない。カーティスのプライドがそれを許さない。代わりに「共同研究の提案」という体裁を取った。商業手法の学術的検討を共同で行いたい、と。体裁だけは対等だ。中身は事実上の弟子入り志願だった。


 封蝋を押した。高級な赤い封蝋。ノーヴァル商会の紋章が刻まれている。かつてセラフィーナを潰そうとした紋章が——今は教えを乞う手紙に押されている。


 手紙を封筒に入れ、宛名を書いた。「辺境ヘルムガルド領主 セラフィーナ・ローゼンクランツ殿」。領主、と書いて手が止まった。半年前は「小娘」と呼んでいた。今は領主と書かざるを得ない。実績がそう書かせる。


「三十年前——祖父が辺境の鉱山利権を奪おうとして失敗した。父が辺境の流通を封鎖しようとして失敗した。そして俺は——」


 歯を食いしばった。


「学ぶしかないのか」





 辺境では、ギュンターが商館で新しい地図を広げていた。王国全土の地図。交易路が赤い線で引かれている。


「辺境経済圏の構想——三領地から始めたものを、王国全体に拡大する。王太子殿下の財政改革と連動させれば、ヘルムガルドが王国経済のモデルケースになる」


 ギュンターがハーブティーを淹れた。自家焙煎のブレンド。商人が客に出す最上級の茶だ。それをセラフィーナに出すということは——対等な商談相手として認めているということだ。


「ヴェーバー領とシュタイン領は既に協力体制にある。次は東のアイゼンフェルト領。鉄鉱山を持っている。ヘルムガルド鋼の原材料を安定供給できれば、マルクスの鍛冶場の生産量を三倍にできる」


 帳簿を開いた。試算を始める。原材料の調達コスト、輸送費、加工費、販売価格。ギュンターが三十年の商人経験から数字を出し、セラフィーナが帳簿に落とし込む。ペンが走る音と、ギュンターが茶をすする音だけが商館に響いている。


「アイゼンフェルトの鉄鉱石は品質が高い。ただし山岳輸送の費用が嵩む。冬場は雪で街道が閉ざされる期間がある」


「備蓄倉庫を中間地点に設置しましょう。秋までに冬分を確保すれば、輸送の季節変動を平準化できますわ」


「倉庫の初期投資は?」


「百二十ギルダー。しかし輸送費の削減で一年半で回収できます」


 ギュンターが唸った。数字が合っている。この娘は商人の勘ではなく、帳簿の論理で商売をする。


「お嬢。あんた、最初に来た時は馬車酔いして青い顔してたな」


「覚えていないでください」


「覚えてるさ。あの時は——正直、三ヶ月で逃げると思ってた」


「前の代官と同じように?」


「ああ。しかしあんたは逃げなかった。帳簿を書いた。数字で人を動かした。俺も含めてな」


 ギュンターが渋い顔で笑った。この商人の笑みは信頼の証だ。三十年かけて築いた人脈と信用を、セラフィーナに共有してくれている。


「三十年前、鉱山利権を奪おうとした王都の商人がいた。あれはノーヴァル商会の先代だ。カーティスの祖父だよ」


「三代続けてですか」


「三代続けてだ。しかし三代目は少し違う。あいつは負けた後に手紙を寄越した。祖父と父は負けた後に逃げた」


 カーティスの手紙。「共同研究の提案」。プライドで包装された弟子入り志願。


「受けるかい」


「……商売は、敵を作るより味方にした方が効率がいいですわ」


 ギュンターが大きく笑った。商人の笑いだ。良い取引が成立した時の笑い。


 同じ日、エミルが領主館の書庫から出てきた。手に分厚い原稿を持っている。表題は「聖光教会の世俗権限に関する歴史的考察——教会法と王国法の境界線」。


「王立学術院に提出します。査読に三ヶ月。掲載されれば、教会の世俗権限を学術的に否定する初めての論文になります」


 エミルが眼鏡を押し上げた。銀縁の眼鏡に冬の午後の光が反射している。裁判で暴かれた事実を、制度改革の論拠に昇華させている。個人の裁判結果は覆されることがある。しかし学術論文は、一度認められれば知識の体系に組み込まれる。


「急ぎませんか?」


「急ぎません。学術は——真実を積み重ねる仕事です。一つの論文が制度を変えるには時間がかかる。しかし真実は消えない。帳簿の数字が消えないように」


 エミルが微笑んだ。穏やかな笑みだ。この学者は剣を持たない。しかし、ペンで世界を変えようとしている。セラフィーナが帳簿で辺境を変えたように。


 鴉便の返事を書いた。レオンハルトへ。議会の投票結果へのフィードバック。棄権票を動かすための具体的な数値データ。辺境の最新の四半期決算の速報値。追伸は、書かなかった。書けなかった。しかし数字の羅列の最後に、一文だけ添えた。「辺境の茶は、いつでもお出しできますわ」。


 感情ではない。事実だ。茶はいつでも出せる。ただそれだけの意味だ。そう自分に言い聞かせながら、封蝋を押した。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ