先代の聖女——母が遺した禁忌
研究室のランタンが揺れている。窓の外に月が見える。復興作業を終えた領民たちが家に帰り、辺境は静かだ。ヨハンには「学術報告の打ち合わせ」と伝えてある。嘘ではない。しかし——報告の内容は、学術の枠を超えている。
エミルの机の上に、手帳が開かれていた。地下で見つけた刻印を写し取った手帳だ。震える手で一文字ずつ書いたと、エミル自身が言っていた。
「セラフィーナさん。今から話すことは——あなたの人生の根幹に関わることです。心の準備ができていますか」
「できていませんが、聞きます。帳簿と同じですわ。赤字でも数字は見なければならない」
エミルが微笑んだ。しかし笑みはすぐに消えた。
「お母様——エリザベート・ローゼンクランツは、没落伯爵家の出身で、若くして聖光教会の修道院に入りました。当時の教会記録によれば、聖印検査で『聖女の素質あり』と判定されています。しかし正式な聖女の任命は行われなかった」
「なぜですか」
「当時の聖女——第六代聖女マリアがまだ存命だったからです。教会の教義では、聖女は同時に二人存在できない。正確には、二人の聖女が同時に覚醒すれば魔力脈の均衡が崩れると教会は信じていた。だからエリザベートの素質は——意図的に抑制されました」
意図的に抑制された。力を持っていたのに、使うことを禁じられた。前世の佐藤凛が経理の才能を持ちながら、「女性にこの仕事は」と言われて主任止まりだった記憶が重なった。力を持つ者が、構造によって制限される。
「第六代聖女マリアは、二十九歳で亡くなりました。教会の記録では『神のもとへ召された』とあります。しかし実際は——魔核の封印維持のために生命力を注入し続け、体が持たなかったのです」
二十九歳。前世の自分が死んだのは二十八歳だった。一年違いだ。聖女も過労死する世界。構造が人を殺す世界。
「マリアが亡くなった後、教会はエリザベートに『正式に聖女の力を覚醒させ、封印維持を引き継げ』と命じました。つまり——前任者と同じように、命を削って封印を維持しろ、と」
「母は拒否したのですか」
「拒否しました。しかし——ただ逃げたのではない」
エミルの声が変わった。学者の声から、息子の声に。
「母上は教会の文献庫で禁制文献にアクセスし、聖女が犠牲にならなくても封印を維持できる方法を探していました。そして聖光草の研究に辿り着いた。聖光草を触媒として使えば、聖女の消耗を大幅に軽減できる——その仮説を立てました。しかし教会は仮説の検証すら許さなかった。聖女は犠牲になるべき存在であり、その構造を変えようとすること自体が異端だと」
構造を変えようとすること自体が異端。前世の会社でも同じだった。残業を減らす提案を出したら「やる気がないのか」と言われた。構造を維持するために個人を犠牲にする。それを「正しい」とする組織の論理。教会も、ブラック企業も、根は同じだ。
エミルが手帳をめくった。次のページには、教会の内部文書の写しが貼り付けてある。地下の封印装置の近くで見つけたものだ。
「この文書は、教会が聖女の覚醒と封印の関係を内部的にどう扱っていたかを示しています。要約すれば——聖女は『消耗品』です。百年ごとに聖女の生命力を注入して魔核を鎮める。注入が終われば聖女は死ぬ。次の百年で新たな聖女が生まれ、同じことを繰り返す。教会にとって聖女は、神の祝福の象徴であると同時に——交換可能な部品です」
交換可能な部品。前世で自分もそう扱われた。経理部主任が倒れても、翌週には代わりの人間が座っていた。人間を部品として扱う組織。教会も会社も、本質は同じだ。
「母上はこの構造に気づいた最初の聖女候補でした。気づいて、拒否した。教会の歴史上、聖女候補が役割を拒否したのは母上が初めてです」
役割の拒否。エミルがかつて「物語の構造を壊すには、登場人物が役割を拒否する必要がある」と言った。母は——それを、三十年前にやっていた。
「母上は修道院を追放された後、しばらくして——あなたの父上、アルベルトに出会いました。没落伯爵家の娘と、台頭する公爵家の当主。政略結婚の側面もあったでしょう。しかし——」
エミルが一瞬、言葉を選んだ。
「ブレンナーが言っていましたよね。『愛し方がわからなくなった』と。つまり——最初は、愛し方を知っていた。アルベルトはエリザベートを愛していた。しかしエリザベートは——聖女としての力を隠したまま、夫にも真実を告げなかった。告げれば、教会の追手から逃れられなくなるから」
母の孤独が見えた。愛する男に真実を語れない孤独。前世の自分も——誰にも「もう限界だ」と言えなかった。言えば弱い人間だと思われると怯えていた。母も同じだったのか。
「エリザベートは出産前に辺境を訪れ、廃坑の封印を確認しています。『まだ眠っている』と。そしてフリードリヒに聖光草を託した。封印の一部だから、絶やすなと。出産前の手紙にも『この子を辺境に近づけないでほしい』と書いた。母上は——全てを知っていたのです。辺境の魔力脈と自分の聖女の力が共鳴すれば、封印が不安定になること。そしてその子——あなたにも、聖女の血が流れている可能性があること」
聖女の血。自分に聖女の血が流れている。信じられない。しかし——エミルの言葉には、学術的な裏付けがある。そして思い当たることもある。リリアーヌの暴走の時、光の中に飛び込んだ時、腕に聖光火傷を負った。普通の人間なら——聖光に触れただけで意識を失うはずだ。ルキウスでさえ火傷を負った。しかし自分は——光の中に立てた。聖女の血が、無意識に体を守ったのかもしれない。
「母上が亡くなった原因は——出産による衰弱だと記録されています。しかし僕の仮説は異なります。出産の際に聖女の力が発動し、その力が——赤子のあなたを守るために使われた可能性がある。母上の最後の力は——あなたに向けられた」
赤子の自分を守るために、母は命を使った。会ったことのない母。前世でも母を知らなかった。しかし——二度の人生の両方で、母は自分を守ろうとしていた。
涙が出た。堪えなかった。前世では泣かなかった。泣く暇がなかった。しかし今は——泣ける。この部屋で、この人の前で。
エミルが黙って手巾を差し出した。学者の手は、いつも清潔だ。インクの染みだけがついている。ペンを握り続けた手だ。母の研究を引き継ぎ、母の真実を解き明かした手。
「泣いていいですよ。僕も——母上の名前を見つけた時は、地下で三十分ほど動けませんでした」
エミルの声が——初めて、掠れていた。学者としての冷静さの下に、息子としての感情が滲んでいる。母を失った息子。母を知らなかった娘。二人の間に、エリザベートという名前の影がある。
「そして——教会の古文書『異界接続論』にはこう書かれています。『聖女の血統は魂を呼ぶ。異界から。次元の境を越えて』」
「つまり——私が転生したのは」
「聖女の血統が——異界から魂を呼んだ。母上の力が、あなたの魂をこの世界に引き寄せた。偶然ではない。母上の最後の祈りが——佐藤凛の魂を、この体に宿らせた」
部屋が静まった。ランタンの炎だけが揺れている。エミルの手帳が、机の上で開いたままだ。母の名前が書かれたページ。「エリザベート・ローゼンクランツ 第七代聖女」。
転生は偶然ではなかった。母の力だった。母が——自分を呼んだ。過労死した、取るに足らないOLの魂を。この世界に。この体に。二十八歳で過労死した女性の魂を、この世界に引き戻した。なぜ自分だったのか。なぜ佐藤凛だったのか。母は——誰でもよかったのか。それとも——何か理由があったのか。
「理由はわかりません」
エミルが、セラフィーナの疑問を読んだかのように言った。
「しかし——結果として、あなたはここにいる。経理の知識で辺境を立て直し、帳簿で商人と戦い、仲間を集め、聖女を守り、魔獣と戦った。母上が呼んだ魂が——この辺境を救った。その事実だけは確かです」
エミルが声を絞り出した。
「教会はこの事実を——裁判で使う。あなたの母が異端の聖女であったこと。その血が異界の魂を呼んだこと。全てを——処刑の根拠にする」
母の愛が、娘を殺す根拠になる。
その時、廊下を走る足音が聞こえた。扉が開いた。ヨハンが息を切らせて立っていた。
「セラフィーナ様。教会の使節団長から——正式な書状が届きました」
「内容は」
「裁判に出廷しなければ——リリアーヌ様を教会に引き渡すよう、王国法に基づく正式要請を出す、と」
リリアーヌ。あの子を人質にするのか。守ると誓った少女を。蜂蜜菓子が好きで、契約書が得意で、力を自分の意志で受け入れた少女を。
セラフィーナの目が変わった。涙が乾いた。ペンを置いた。代わりに帳簿を閉じた。
「出廷しますわ」
声は震えていなかった。エミルがセラフィーナを見た。
「予想はしていましたよ」
「当然ですわ。リリアーヌさんを差し出すくらいなら——私が法廷に立ちます。母が逃げた場所に、私は自分の足で向かう。逃げるのではなく——戦いに」
窓の外で月が雲に隠れた。研究室が暗くなった。ランタンの小さな炎だけが、二人の顔を照らしている。
母の物語は悲劇で終わった。しかし——娘の物語は、まだ終わっていない。




