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処刑エンドの悪役令嬢に転生したので攻略対象を全員回避して辺境で起業したら、なぜか王太子が追いかけてくるんですが  作者: ぽんぽこライフ


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灰燼の朝——勝利の代償

 左腕は吊っている。肋骨の痛みは深呼吸のたびにずきりと走る。しかし右手は動く。右手が動くなら帳簿はつけられる。帳簿がつけられるなら、仕事はできる。前世の佐藤凛も、インフルエンザで三十八度の熱があった日に決算を締めた。あの時は誰にも褒められなかった。今は——褒められるかどうかより、やるべきことがあるから動くだけだ。


 ヨハンが執務室の扉を開け、茶を置いた。温度はいつも通りだ。三日間寝ずの看病をしていた男が、セラフィーナが起きた翌日にはもう通常業務に戻っている。この男の回復力は何なのだろう。いや——回復しているのではなく、回復する暇がないだけだ。それを前世では「社畜」と呼んだ。


「ヨハン。あなたも休んでくださいね」


「セラフィーナ様がお休みになるなら、私も休みます」


 つまり休まないということだ。


 帳簿を広げた。右手でペンを取る。左手が使えないから字が歪むが、数字さえ正確なら問題ない。前世の経理部では、数字の正確さだけが評価された。今も同じだ。いや——今の方がましだ。帳簿の先に、守るべき人の顔が見える。


 復興計画の進捗を確認する。城壁北面の修繕は七割完了。西面は資材不足で三割止まり。レオンハルトが率いてきた増援兵二百五十名が石運びと建材加工を手伝っている。鍛冶場はフル稼働。マルクスの弟子が——投石器を作った腕で——今は城壁の補強金具を打っている。


 食料は山岳ルートからの搬入で当面は持つ。ギュンターが手配した三領地からの緊急物資が昨日到着した。しかし冬までに備蓄を戻さなければ、復興そのものが頓挫する。


 聖光草は全株を魔核鎮静の触媒に使ったため、薬草園にはゼロ株。オルガが種子から再栽培を始めているが、発芽まで最低二ヶ月。それまでリリアーヌの力の制御は——聖光草なしで維持しなければならない。しかしリリアーヌは触媒なしでも制御を保っている。訓練の成果だ。


 死者六名への補償金支給と、遺族への書簡を出し終えた。名前を一人ずつ帳簿に記した。ハインツ。ゲルト。フリードリヒ。ベルンハルト。コンラート。ディーター。六人分の名前が、帳簿の特別ページに並んでいる。借方にも貸方にも載らない——しかし帳簿の中で最も重い数字だ。


 窓の外で槌の音が響いている。前世のオフィスで聞こえていたのはキーボードの打鍵音だった。どちらも——人が働く音だ。しかしあの音は虚しく、この音は温かい。同じ労働でも、意味が違う。


 午前中はリリアーヌの様態を確認した。聖光治療を続けているリリアーヌは、触媒なしでも安定した制御を維持していた。「セラフィーナ様こそ、無理しないでください」と言われた。聖女に心配される悪役令嬢。ゲームのどのルートにもない展開だ。


 ナターリアが見舞いに来て、復興計画の概要を見せてくれと言った。妹は帳簿の数字を見て「この補償金の計上方法は、借方の勘定科目が——」と的確な質問をした。ヨハンに帳簿を教わった成果が出ている。頼もしい妹だ。


 ヘルガは台所と避難民の世話を同時にこなしながら、時折セラフィーナの様子を見に来る。「ちゃんと食べなさい」と言って干し肉とパンを置いていく。四十年間この領地を守ってきた女性の手は皺だらけだが、その手が差し出す食事は常に温かい。


 ギュンターが執務室に来た。


「セラフィーナ様。フェルディナント殿から急便です。鴉便ではなく、早馬です。内容は——」


 ギュンターの表情が険しい。この老商人がこの顔をする時は、商売ではなく戦の知らせだ。


 封蝋を切った。フェルディナントの筆跡は乱れていた。急いで書いたのだろう。インクの飛沫が紙に散っている。


「……」


 セラフィーナの手が止まった。


 聖光教会の大司教クレメンスが、王国評議会に対し「公開裁判」を正式に請求した。被告人はセラフィーナ・フォン・ヴァルトシュタイン。罪状は——「異端的知識の行使」「聖女の力の私的利用」「魔獣災害の誘発」。


 帳簿のペンが机の上に転がった。


 公開裁判。教会が主導する、王国最高位の法廷。有罪判決が下れば——処刑。形式は断頭ではなく火刑かもしれない。教会の古文書に記された「異界の魂」の処刑方法は火刑だった。三百年前の行商人も、二百年前の聖女の側近も、百二十年前の学者も——全員、火刑で処された。


「——ゲームの処刑エンドが、現実になりかけている」


 声が震えた。違う。ゲームでは断頭台だった。ここでは裁判だ。形は違う。しかし構造は同じだ。教会が悪役令嬢を裁き、処刑する。


 魔獣と戦った。城壁を守った。地下で命を懸けた。六人の領民が死んだ。それでも——処刑は回避できないのか。前世の佐藤凛が三年間の残業で会社を守ったのに、過労死という結末を避けられなかったように。善意が殺す。構造が人を殺す。前世も今世も、変わらない。


 しかし——前世とは違うことが一つある。前世の佐藤凛は、理不尽に対して「おかしい」と声を上げなかった。残業を減らせとも言えなかった。構造の中で黙って壊れていった。


 今は違う。今の自分は——声を上げられる。


 手紙を握りしめた。紙が皺になる。しかし——手紙にはもう一つ、情報が含まれていた。教会が裁判の証拠として提出した文書リスト。その中に——『異界接続論』の写本がある。あの古文書だ。エミルが以前警告したもの。教会は「異界の魂」を教義上の禁忌として扱い、過去三名を火刑に処した記録を持つ。そしてそれを——今度はセラフィーナに対して使うつもりだ。


 ギュンターが手紙を覗き込み、表情を硬くした。


「三十年前と同じだ」


 低い声だった。ギュンターの声がこの低さになるのは——母エリザベートの話をする時だけだ。


「教会が人を裁く。証拠は後からいくらでも作る。あの時は——エリザベート様を守れなかった。この老いぼれの最大の悔いだ」


 手紙を読み返した。三度読んだ。三度目で、怒りが来た。


 魔獣と戦ったのはこちらだ。城壁を守ったのは領民たちだ。地下で命を懸けたのはセラフィーナとリリアーヌとエミルだ。六人が死んだ。四十三人が傷ついた。その結果を——「天罰」と呼ぶ。前世の上司を思い出した。三ヶ月の残業を「自己管理の問題だ」と切り捨てた男。構造は同じだ。犠牲を払った者が、払った犠牲を理由に罰せられる。


 怒りは短かった。怒りの後に来たのは——冷静な計算だ。前世の経理部で監査対応をしていた頃の、あの感覚。追い詰められた時に最も冷静になる。数字を整理し、書類を揃え、一つ一つ反論を組み立てる。


 エミルを呼んだ。文書リストを見せた。エミルの顔から血の気が引いた。


「『異界接続論』が証拠として出される。つまり教会は——あなたの正体に、確信を持ち始めている」


「確信ではなくても、疑いは十分に裁判の材料になりますわね」


「そしてもう一つ」


 エミルが声を落とした。


「教会は——あなたの母親、エリザベートが『先代の聖女』だったことを知っている」


 地下で見つけた刻印。「第七代聖女」。エミルがあの発見をセラフィーナに伝えたのは昨夜だった。まだ咀嚼しきれていない。母が聖女だった。教会に消費される前に逃げた聖女。その娘が——今、教会に裁かれようとしている。


「教会はこの事実を——処刑の根拠にするつもりです。異端の聖女の娘が、異端の知識を持って辺境で禁忌の研究を行った。血が異端を証明する——そういう論法です」


 血が異端を証明する。母が逃げた理由が、娘を殺す根拠になる。笑うしかない皮肉だ。母エリザベートは聖女の力を「呪い」と呼んだ。教会が聖女を道具として消費する構造を見抜き、逃げ出し、娘を産み、研究を続けた。しかしその母の抵抗が——今、娘の首に縄として掛けられようとしている。


 窓の外で、焦げた森の向こうに新芽が見える。昨日ナターリアと見つけた緑。あの新芽が育つまで——自分は生きていなければならない。


「エミル殿。聞いてもいいですか」


「何ですか」


「勝てますか」


 エミルは沈黙した。長い沈黙だった。窓の外で槌の音が響く。復興の音。この辺境を守った人々の音。エミルが眼鏡を外し、レンズを拭いた。考えている時の癖だ。眼鏡をかけ直した時——エミルの目には、学者ではなく戦士の光があった。


「勝てるように——準備をしましょう。法廷を、あなたの得意な場所に変えるのです。帳簿で戦った経験を、法廷でも使う。数字と事実を突きつける。物語の書き換えの——最終章です」


 エミルの目が——あの夜と同じ光を帯びていた。転生の秘密を打ち明けた夜。「物語を書き換えましょう」と言ったあの夜。あれから何ヶ月が過ぎたのか。辺境を立て直し、魔獣と戦い、仲間を得て——そしてまた、処刑の影が迫っている。


 しかし今度は——一人ではない。ゲームのシナリオでは、悪役令嬢は法廷で一人きりだった。弁護人もなく、証人もなく、ただ聖女の告発を受けて断頭台に送られた。


 しかし今のセラフィーナには——エミルがいる。ルキウスがいる。ヨハンがいる。ヘルガがいる。レオンハルトがいる。リリアーヌがいる。ナターリアがいる。ギュンターがいる。


 帳簿を閉じた。復興計画の帳簿の上に、新しい白紙の帳簿を重ねた。表紙に書いた。「裁判対策——物語の最終章」と。


 前世の佐藤凛は、法廷に立ったことはない。しかし監査法人との攻防なら何度もある。数字の正確さで相手を黙らせた経験がある。今度の相手は監査法人ではなく聖光教会の大司教。規模が違う。しかし——本質は同じだ。数字と事実を積み上げ、相手の論理の綻びを突く。


 ペンを取った。右手だけで。左腕の痛みを堪えながら。


 物語の最終章が——始まる。

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