目隠しマラソン
6月末までの小説賞作品を書き終えた。今日は6月29日。ギリギリだが、間に合って何よりだ。
同作品は十二万字作品で、三月末まで描いていた作品の後すぐに取り掛かったから、ちょうど三ヶ月で仕上がったことになる。
……いや、自分で言ってて違ってた。
四月は別件で既存作を改稿し続ける日々を送っていた。ファイル作成日時を見たら四月二十三日と書いてあるから、それから今日まで描いた長編作品である。
迷子迷子といっている通り、現在、もはや自分のセンスが信じられない。
二ヶ月で十二万文字作品ならそんなに難産でもないと思われるかもしれないが、どうやれば面白くなるかの指針を見失っているため、ラスト近いのに苦しいばかりで、完成を直前にして思わず友人に「もう死ぬほどやめたい」とこぼす作品だった。
明日は本職の仕事が忙しいので実質今日が締め切りだったが、我ながらよくぞ間に合ってくれたと思う。徹夜だ。眠い。
ちなみに応募する小説賞は郵送のコンテストだった。
最近はwordやtxt形式でwebから投稿できるものも多いが、そういう文明の利器には対応していない賞もまだまだ存在する。まぁいまだガラケー、使用wordソフトはword1997のわたしとしては親近感が沸く(笑)。というか「スマホ認証が必要です」みたいに言われだしたら、それだけでわたしは作家志望を諦めなければならなくなる。
ちなみにわたしはこういう、プリントで作品を出力してから郵送する賞を『紙の賞』と呼んでいる。
百枚単位で出力される原稿を、十枚ずつしか穴が開けられないパンチで十数回に分けて穴を空け、紙の束ごとに穴がずれていないことを心配しながら閉じ紐で閉じるという作業をこなすと、完成された分厚い豆腐のようなシロモノはなんとなく立派で、「ああ、こういう過程を経て作品は書籍化されるんだろうな」という妄想に浸ることができる。
もっともそのように作成した作品が書籍化された歴史は、まだわたしにはないが。
しかしこの紙の賞。
みなは紙に出力した後、もう一度読み直したりするのだろうか。
実感として、横書きと縦書きというのはまったく作品の見え方が違う。きっと、同じようにパソコンの画面で見るのと、実際紙で躍っている文字を見ても違うと思うし、実際によく言われることだ。「画面では気づかないことに気づくことができます」
……すると、紙の賞である以上、この百数十枚を出力した後、もう一度読むことが推奨される。
しかしだシカシ、トウガラシ。作品というのは仕上げとなれば推敲する。なんだかんだ言って、完成してから四、五回は完成作品を読み返すことになる。
紙に出力した時、もう一度これを読まなきゃいけないのかと思うともうおなかいっぱいになってしまっている。いくら激ウマラーメンでも、十杯食べればタダといわれて食べきって、「おいしいでしょ! 後もう一杯いきますか!」と言われても、もう無理なのと一緒だ。
まぁ、その甘さが、今までの結果なのかもしれない。しかし、プリンタの作動音を聞いた時点でノーサイドを感じてしまう矢久の、限界がここにある。
そして今、既にこの作品についての記憶など、七割がない。
なぜなら、次を描かなければいけないからだ。いつか名作を描くその日まで。いつかデビューできるその日まで、描き続けなければ、誰にも気づいてさえもらえない。
だけど、描いたとしても、結果が出なければその作品、作品に賭けた時間は"無かったこと"にされる。
わたしが今まで小説作品に賭けてきた時間は、まだ一分も存在したことになっていない。それが苦しい。
これからまた、どれだけの作品を"無かったこと"にされるのか。そう思いながら描く作品は、苦しい。
もうずっと前に、身体は「無理」と言っている。お前なんか別に大した才能なんかないんだよ、と。……同感だ。
無かったことにされる時間を過ごすくらいなら、もっと楽しいこと見つければ?、と。……これから先、どこかで諦めるなら、まったくもってその通りだろう。
この目隠しマラソンが、今は本当につらい。しかしマラソンというのはもともと三十キロ地点からが地獄らしい。その地獄を越えないと四十二キロのテープが切れないのだとすれば、「あー、今地獄だわー」と思ってる地点で諦めるのは、つまりタダの脱落者でしかない。
そうかい。今の自分の状態がデフォルトかい。……じゃあ、やるしかないだろう。
次の相手(小説賞)はどいつだ。だれでもかかってこいよ。




