十代の自殺が増えてるんだって。
六月末までに描きたい作品があるが、間に合うか分からない。
おかげで、『ちょっときいて』をいっぱい書こうって思ったわりに全然書けなかった。
いや、だけど、一つだけどうしてもいいたいことがある。
十代の自殺が増えてるって?……それがなぜか、真相なんて知らないけど、勝手なことを言ってもいい?
娘の都合で、現在の公立小学校の仕組みをいろいろ耳にする。昔に比べて、至れり尽くせり、手取り足取りだ。
モンスターなPTAに文句言われたくないからか、パワハラという風評被害を恐れるためか、子供達に対して学校側は、まるで腫れ物を扱うかのように接している。
いやね?俺なんか教師にだいぶ殴られたし、あの理不尽を思えば「そりゃ学校はマトモになった」と言えなくもない。しかし、とにかく子供に無理をさせるということが悪であるかのような対応が当然のようにシステム化されている。
『うまく通えない子は遅刻してもいいよ。集中力持たなければ参加できるものだけでいいよ。給食食べきれないなら、始めから減らしておけばいいよ……etc....』
……これ、当然?
当たり前のことなんですか?
これは要するに、目の前に飛べないハードルが出現した時に、
「がんばって飛べるように努力しろ」
ということを行わず、
「飛べないならハードルを低くすればいいじゃない?」
ということだろう。
そんなものが、どの世の中で通用すると思うのだ。
十代が自殺する理由は、そういう子供がちょっと大きくなって、飛べないハードルが出現した際に、実はだれもそのハードルを下げてくれる奴なんかいないと知るからじゃないのか。その時になって、我慢する習慣が皆無だから、「じゃあ無理だ」ってなるからじゃないのか?
もちろん、自殺の理由は百人いれば百通りあると思う。いじめと一緒で「いじめはこう対処すればいいのだ!」と十把ひとからげに解決することほど愚かなことはないように、自殺もすべてをもって「そういう理由なのだ!」と断言することは危険極まりない行為だとは思う。
しかし、今のこの風潮が、その自殺の多さに何の影響も与えてないと、果たして本当に断言できるだろうか。
「うちクーラー使ってないぞ」
と、とある小学生に言ったら、その少年は、「(うちの)子供がかわいそう」と吹いた。
我慢できる程度の我慢を我慢させることを「かわいそう」と判断する今の子供たち。社会が甘やかして、甘やかされている自分に気づけずに思春期を迎え、そんな甘いもんじゃない現実とぶち当たった時、社会と折り合いがつかなくなっていくケースがないといえるのか。
ここ数十年で種々変わっていった社会の変貌の中で、とにかくいびつに変化したのが社会の危機管理だ。
それも、社会の危機に対しての対処ではない。社会の危機に対する組織内の対応が、如何に文句の付けようのないものであるか、ということについてのマニュアルが、だ。(まぁ、危機管理といえるだろう)
いつだかに日本の元大臣が横暴を言う韓国に対して「韓国には丁寧な無視が一番だ」と述べたが、この言葉に象徴されるように日本は今、如何にクレームに対して「丁寧な無視」ができるかということに焦点が絞られている。
何かと言えば訴訟訴訟となった日本において、自然と生まれた自衛のための方策なのだろう。実際、阿呆なクレームについてはまったく必要な精神だとは思う。
しかしそれが高じて、どんなことも『丁寧な無視』ができるマニュアルを作っているのが現代社会ではないか。組織に対する風評の低下をしのげれば、その後その問題がどうなろうがかまわない……というのが、精神の根底にないか。
教育もそう。自分たちに対するクレームにばかりおびえて、結果、子供たちをお客様してしまっている。
だけど、教育ってそういうものじゃないだろう。
相手が"お客様"でも、技術は教えられる。しかし、人間の精神を培い人生を教えるのに、師弟の関係は"サービス業"ではいけない。
技術偏重主義に走っているから、ホラ、社会が、こんなにいびつになっているんじゃないか?俺はそう思うけど。
これも『十把ひとからげには解決できない』と言ったように、俺を殴ってた暴力教師がいいと言ってるわけではない。逆に言えばこういう極端な馬鹿が問題を起こしてきたから制度ががんじがらめになったのだろうが、今の教育のあり方もまた、極端にゆがんでいることを、誰かが言うべきなのではないだろうか。
それはつまり、今の日本の危機管理体制が極端にゆがんでいることにもつながるし、ひいてはそれが、子供たちの考え方をゆがませ、逆にドロップアウトしていく可能性を秘めていることを、論議しあうべきではないか。




