例えば僕が、死ぬのなら
布団に入った上の娘の枕元に座った時、ふと、自殺を考えてみた。
今、ここを再び立ち上がった時、自分で自分の命を絶つとして……。
娘は無邪気に私を見上げている。おそらく十分もこのままでいれば、彼女は夢の世界へと堕ちるだろう。六歳の、まだ幼い娘だ。
自殺とは言ってみたが、実感はわかない。私は彼女の頭をなでて、こう言ってみた。
「パパがいなくなっても、強く生きるんだぞ」
そしたら娘は笑って、
「ママと妹がいるから大丈夫だよ」
躊躇もせずに消えてもいいと宣言する。笑うしかない。
……きっと、私が今日、本気で決心して、同じように娘に語りかけても、彼女は無邪気な表情のまま、同じことを言うんだろう。
「もう、お前も小学生だからな。あんま泣くんじゃないぞ」
うんうん、とうなずく娘。そもそもこんなのにマジメに付き合ってくれるのもこれくらいの歳までなのかもしれない。もうちょっと大きくなったら、馬鹿にされて終わるだけだろう。
私は娘の頭をなで続けた。これだって、嫌がらないで付き合ってくれるのは今だけだろう。もうちょっと大きくなってから人知れず死ぬのなら、もっとさびしいかもしれない。
思いながら頭をなでていると、だんだん自分自身に、死の実感がわいてきた。
これで最後なんだ。もう、娘のおちゃらけた笑顔を見るのも、最後なんだ。
そんな風に思っても、涙は伝わない。ただ、ニコニコしている娘の顔が、異様にいとおしくなった。
その瞬間、目の奥、脳の中心が小さく揺れたような感覚が娘の表情を頭に焼きつかせ、心を振るわせたのだ。
私は娘にもう一度、
「強く生きろよ」
と、言葉を発していた。先ほどよりも大きくて、重い心の乗った言葉となっていた。
言ったとおり、娘はまだ幼い。
今、私がいなくなれば、彼女の記憶から、私というものは徐々に薄れていくのだろう。しかし、おそらく私のほうからはもう、娘の記憶がなくなることはないのではないかと思う。
中学のころにうちに来ていた野良猫の、毛の感触をまだ覚えている。結婚する前に嫁が飼っていた犬の表情をまだ描くことができる。大人になってからの生命の記憶というものはそういうものなのだろう。
それはきっと、子が親よりも、親が子へのほうが想いが強いのだと思う。だから、経済的な面を除けば、親なんてものは適当なタイミングで死んでもいいのかもしれない。
しかし、私にはまだ私自身の親が健在だ。親のためには、子が先に死んではならない。
……自分が自殺するという前提での考察だったのに、いつの間にかそういう結論に達していたある日の夜であった。




