非・グローバル化
先日、とある女子に婚姻届を渡された。
……いや、決して矢久の妄想じゃなくて……。
そんなに歳も変わらない子なのだが、結婚したいそうだ。
……いや、決して「おい、俺はもう結婚してるぞ」っていう四コマ漫画でもなくて……。
用件は、「結婚の証人になってほしい」ということだった。
婚姻届にはそういう欄がある。どうも民法上でも
『1、婚姻は戸籍法の定めるところにより届け出ることによって、その効力を生ずる』
『2、前項の届出は、当事者双方および成年の証人二人以上が署名した書面で、またはこれらの者から口頭で、しなければならない』
……証人というものは、かなりハッキリ必要らしい。それになってほしいそうだ。
彼女は仲間だが友達というわけではない。立場的にも内容的にも、矢久はそんなに気軽に頼める相手ではなかったはずだ。だけど彼女は他ならず俺に頼んできた。
「書いてもらうなら矢久しかいないと思ってました」
と、恐る恐るそういう言葉を添えて……
詳細はともかく、長い間、俺は彼女と一緒に喜び、一緒に笑い、一緒に戦ってきた。その積み重ねで信頼関係が生まれ、結果、大げさかもしれないけれども、俺を親代わりに選んでくれたのだとしたら、俺はそのことがうれしい。
何の権威もカリスマも力もない俺が、他人から『唯一』と信頼される奇跡なんてあるだろうか。
インターネットは世界を繋ぎ、日本を抜け出して海外で暮らしても、そんなに不便のない世の中となったらしい。
インターネットを通じれば海外にいても日本での仕事を受けられるし、世界と、もちろん日本人とのコミュニケートも自由にとることもできる。おまけに物価は安くて日本のように狭苦しい社会じゃない……と、海外をアツく語る人たちの中には
「まだ日本にしがみついてんの?」
とまで言い出す人もいる。
海外に出て、日本人を見下ろす日本人って、意外に少なくない気がする。
だけど、人間のコミュニケートの本当の暖かさって、やはり肌に触れられる距離にいて、互いの呼吸を感じるところにあるんじゃないだろうか。
俺は以前、自分の作品で、チャットの世界だからこそ起きたすれ違いを描いたことがあるけど、言葉ではない。文字ではない表情が伝わってこそ、得られる信頼関係というものがあるんじゃないだろうか。
インターネットの文字のやり取りを否定するわけじゃない。
だけど、それがコミュニケートのすべてとして完結してしまうと、恐らくさっき俺の書いた、
『俺はそのことがうれしい』
が、どれだけうれしかったかを察することはできなくなってしまうと思う。
グローバル化だなんだと外へ外へと目を向けることも、これからを生き残るためには必要だ。しかし、目の前にいる同じ日本人の、ささやかな幸せを願い、一生懸命を尽くす気持ちもまた大切であり、それはこれから先、どれほどにデジタル化が進み、すべてのコミュニケートが簡略化されたとしても、必要な要素なんじゃないかと思う。
グローバル化をことさらに口にする者は、それを忘れている側面がある気がしてならない。
もちろん杞憂かもしれないし、信頼関係を築くのは日本人同士じゃなくてもいいんだろうけど、俺はやっぱり日本人だから、日本の人たちと共に生きたい。ドアを開けて外に出れば日本人がいて、互いに手を振って、日本語で会話して笑っていたい。
「まだ日本にしがみついてるの?」
と、見下ろす人間には見えない感動を、日本で見つけていたいと思う。
言っておきますが、これは時代に取り残されていく人間が言うことだと思います。
決して正しいのではない。あまり影響されないよう、お願いいたします。




