数の暴力
矢久はRX-7という車に乗っている。
世界で唯一、ロータリー機構のエンジンの量産に成功した、マツダという日本メーカーの作ったスポーツカーだ。世界で唯一エンジン機構が異なるのだから、ただのスポーツカーといってもジャンルは世界で無二の存在である。なろう大好き『異世界小説』でいえば、ヤカンやドラム缶が学生服を着て、核兵器を片手に宇宙人と漫才を繰り広げるくらいの異端作だ。(←全然異世界じゃない(笑))
エンジン機構が違うし絶版車なので、整備には普通の車とは少々異なる専門性が求められる。矢久も懇意にしている専門店があったのだが、整備をお願いしようとして行ってみたら、このたび閉店していた。
当たり前といえば当たり前なのかもしれない。
世界で一つしかないエンジンを扱ったスポーツカーの専門店である。絶版になってからかなりの時がたち、ロータリー車に乗るオーナー達も年々減っていく一方なのだから、経営も厳しくなる一方だったのだろう。しかし、残されたロータリー乗りにしてみれば、命脈を立たれた気分である。
ロータリーは、時代の流れには乗れなかった。
軽量、コンパクト、高出力という利点は、車を速く走らせるためにはこれ以上ないアドバンテージだったが、時代はあるところから車の性能や速度よりも、収納性の高さ、扱いやすさ、燃費のよさへとシフトしていった。
おまけに世界で唯一の異端児であったが故に、世界的なモータースポーツの大会からも「ロータリー車はフェアじゃないために不可」と締め出されてしまうという始末。
……ロータリー車は、世界に居場所をなくしてしまったのである。
そうやって異端児は消えてゆく。
異端児を熱狂的に愛した人たちも、自分たちで生産ができるわけではないので、やがて別の、「今あるモノ」を求めざるを得なくなる。
巷には『トレンド』という川に流されて、『現在』という下流までやってきた、角の取れた石のような、当たり障りのない車ばかりが生き残っている。
個人商店を次々に潰し生き残ったコンビニが、売れ行きのいい弁当ばかりを提供するように、人は多数決の中で、次第に個性をなくしていってる事に気づいているのかいないのか。
挙句、人は『個性とは何か』ってことにすら、気付かなくなっていくのだろう。
世界のコンビニ化。
きっと世界は、言うほど個性などというモノを求めてはいない。
決して個性的であることが立派ってわけではないのだけど、それでも矢久は、この世界唯一の車に乗り続けたい。今のコンビニ弁当のような新型車たちには、どうにもこうにも車の魅力を感じないし、なんていうか……余計なお世話かもしれないけれど、この、飛びぬけて個性的な車を作った製作者達の魂を、できる限り残してあげたいとも思うのだ。
きっとそう思っていただろう、わたしが懇意にしていたロータリー車専門店が閉店したことを、とても残念に思う。
マイノリティが生き残れないのは民主主義である以上、避けられないことなのかもしれないが、それで、世界がこの名車を知らないまま、今、目に見えるモノだけで個性を語るのだとしたら……。
……それがとても、残念に思う。




