読みたい物語、読ませたい物語
パナソニックの社長の談話を読んだ。
今世界はどうなっているか。今からのパナソニックはどうあるべきか。
……とても精力的で、舌鋒は鋭い。わたしはこの会社の事情をあまり知らないから、その指導力がどれくらい生きているのか分からないが、世界規模の大企業を牽引するため、必死に時代のニーズに自分達を合わせ、『勝利しよう』とする姿勢に、素直に感服する。
それとはまた別の話。
今の時代、日本の文化の流れは、情報を端的に伝えることよりも、その情報の課程をリアルタイムで伝え、共有していくことが、もてはやされ始めているそうだ。
小説でいうなら、完成された小説をボンと出すのではなく、それを描き上げるまでの苦労や考えなどの情報をリアルタイムで配信、読者と共有しつつ、「共に作り上げた」感を味わってもらって、そして完成品を皆で分かち合う……という流れか。
地下アイドルのおっかけも似たような心理らしい。
「彼女らは未完成なのがいい。自分がその未完成を応援し、グッズを買ったりライブを見たりしていくことによって、自分が育てている気持ちになる」
そしてその誰かが羽ばたいて大空へ舞い上がった時、達成感のようなものを地下アイドルの知らないところで分かち合うのだろう。
そういう文化、完成品やレシピのみが載っているのではなく、同じ時間を共有することを尊ぶ文化。
……誰かはそれを「だらだら文化」と名付けていた。
その話を聞いた時、矢久にはそのよさが分からなかった。
youtubeなどを見ていても、馬鹿みたいに(失礼)冗長な動画を垂れ流している(そのわりに題名は興味深い)動画を見る時は、マウスを片時も放さず、飛び石のようにシークバーをちょんちょん飛ばしてしまう。動画の長さが10分なら10分、味わい深ければいいのだが、結論以外は10倍粥くらい薄い。正直見てられない。
コンテンツというのは宝石のようなもので、真っ黒な原石の無駄な部分を削って削って、ようやく現れるダイヤモンドの部分をさらに磨き上げて、一点の曇りもないものを完成させるものだと思っている。
無駄に思える部分さえ、それは意図された無駄なのだ。ただのだらだらとは違う。
小説に限らず、創作物はすべてそうだろう?……だから、芸術というのではないだろうか。
その話をしたのもクリエイターだ。彼も「分からん」らしい。
しかし彼は、その上で、その文化を理解しようとして努力を始めた。あえて自分で、そういうものを試して、受け取り側を理解しようとしている。
時代に取り残されないように。自分達が生き残るために……だ。
パナソニックの社長と同じ感覚である。それを、当たり前のように持っている人種。……素直に、感服する。
そして矢久はといえば……自分を振り返った。
時代は右を向いている。右の方向へ物を置けば注目される可能性は高くなる。
だけど、俺が目指しているものは右に置ける物"とは限らない"(ではないとはいわない)。
こうなった時に、同じ方向を向き、"右"の良さを模索しているのが、さっきの二人だ。立派だと思う。
しかし、矢久は、右を向くことに、まったく興味が無いらしい。
いやもう、全然立派じゃないと思う。
時代の流れを見極めることの必要性など、どの時代に生き残った人間、誰もがやっていることだ。というか、高い木の上に食べ物があったから首を伸ばしたキリンとか、天敵がいっぱいいるから、土と同化する模様を手に入れたヒラメとか、動物ですらそういう努力をする。
そんなことすらしない。興味が無い。そこで思ったのだ。
「俺は、読者が読みたい物語を描いてるんじゃない。読者に読ませたい物語を描いているんだ」と。
品の無いヤツはよく、ニーズに合わないコンテンツをオナニーなどといってるけど、「自分が描きたいものを自分のために描いた」ら、そうかもしれない。しかし、矢久は「他人が読むために描いている」という大前提を崩したことはない。自分が描いているのはエンターテイメントであるはずだ。しかしそれを、時代から発信しているのではなく、自分から発信しているところに、さっきの言葉の違い、……パナソニックの社長との違いがあるのだと思う。
わたしが抱いた社長への印象はあくまで主観だから、本当はそういう方ではないなら申し訳ないのだが、とにかく「読者が読みたい物語」が絶対の是で「読者に読ませたい物語」が絶対の否であるのなら、矢久という人間が小説家として存在することはないだろう。
それに絶望するまで、後どれほどの時間があるだろう。矢久は本当に小説家になれるだろうか。
……小説描いてれば誰もが小説家だよ!?……なんてくだらねー言葉、聞きたくねーぞ?(苦笑)