現代の天才作家
だいたい人間の能力値を棒グラフに表すとしたら、山のような形になるだろう。
例えば全日本人のIQの数値を集めてみたら、平均値となる真ん中辺が一番高くなって、『ちょっと賢い』のと、『ちょっと馬鹿』がその左右に緩やかな尾根を作り、『天才』と『ものすごく馬鹿』が裾野に広がる……そんな分布となるはずだ。
これはどんなものでもそう。よほど被験者の分布が片寄らない限り、立ち幅跳びをグラフにしようが、暗記力をグラフにしようが、そういう山ができるはずだ。
平均付近が真ん中辺で一番多い。……そんな、当たり前すぎる話。
コンテストを目指す作家として作品に携わっていると、必ず聞く言葉がある。
共感。
小説における"共感"は、その物語や、物語の登場人物の気持ちを自分と重ねたりして、彼らの感情を共有することだったり、彼らが読者の願望を体現してみたりすることだと思う。
感嘆文にしてみると
「それ、超わかるーーーーーー!!!!」
といった感情か。(↑感嘆文じゃない(笑))
この、読者の共感を多く得られる作品を描き出すことが、ヒット作を生む条件の一つであることは……一つの側面かもしれないが……間違いない。
その"共感"というのはきっと、その人たちの持つ経験や、歴史的背景、流行、生理的なもの、環境で培ってきた心情などが入り乱れて形成されたものが、物語とシンクロした時に得られるものなのだと思うのだが、それをもし、"共感値"ってやつで数値化できるとしたら、その時のグラフは、やはり真ん中辺を頂点とした山となる気がする。
きっと、"平均"っていうものが発生し、その周辺に分布する"共感値"が一番多くなるはずである。
すると、ヒットする一条件となる『多くの共感を得られる物語』というのはどういうことか。
……これはつまり、『最近、もっとも平凡な物語』ということにはならないか。
斬新さ斬新さというが、実は人間はそれほど斬新さは求めていない。
斬新さといっても、その時代に受け入れられる程度の変化でなければ、読者はついてこようとはしない。これは断言できる。
だから、発想にとっぱずれた意外性はいらないのだ。『ちょっとだけ違う要素の入った、多くの共感を得られる物語』を描くことができる作家がヒット作家となるわけで、そういうヒットをたくさん並べられる作家を、『天才作家』と呼ぶのだと思う。
もちろん一側面ではある。そうでないヒットを飛ばす作家ももちろんいるだろうが、一つの側面として、厳然と存在することは疑いもない。特に日本はそう。
すると、今の時代の天才作家は『多くの共感を得られる、もっとも平均的な感性を持って、物語を描くことのできる作家』ということになり、それはたぶん、さっき言った"共感値"の棒グラフの真ん中付近にいる人なんじゃないかと思うのだ。
一人だけとっぱずれてる人間に『多くの共感が得られる』作品が描けるわけがない。昔、天才といわれた芸術家たちは、今では天才とは言われ難い存在なのだと思う。
わたしは、その原因を、メディアが発達したせいだと思っている。特にインターネットの普及で、爆発的にアーティストは増えた。
でも、増えれば増えるほど、平均値も増えたのだと思う。
平均値の作品が、平均値の受け手にウケた。その数が多いから広がりも爆発的で、だから、いつしかプロデュース側が提供するものが売れなくなり、受け手側の感性に判断をゆだねるようになった。……そんな時代。
これは決して何かを馬鹿にしているものではなく、天才の概念が変わることにより、多くの人が天才になれる時代が来たんじゃないかと述べているのだ。
中庸が活躍できる世の中になった、と結論付ければ、ある意味でとても民主主義らしい世の中になったもの。……さぁ、文化として、それは吉と出るか凶と出るか。




