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その頃純二は、ユリが危機に陥っているとは露とも知らず、聞き込みのためユリの母が勤める大手スーパーに向かっていた。ノブとテツにはダメージを与えたので、常人ならしばらくは大人しくするだろう。そういう判断からだった。ならば、より危険性の高いユリの義父を問い詰めておかなければ自首などできない。
それにしても冷たい風が吹いている。純二はブレザーを前で重ね合わせ、襟を立てた。ユリから貰った温もりをわずかでも逃がしたくなかった。
一方、後藤は涼子の家を訪ね焼香を済ませたところだった。
今井の電話で涼子の死を知り、憔悴から半日茫然としていた。しかし焼香だけはどうしてもしたい。思い直すと、クローゼットから地味なスーツを引っ張り出して家を飛び出した。
轢死であるから遺体がないのは知っている。だからといって部屋に閉じこもっていても進展しない。夕方のニュースで通り魔の犯行と断言していたが、後藤もそう思っていた。ユリの義父による、通り魔に見せかけた殺人だと。
家全体が哀しみに包まれていた。後藤は焼香を済ますとその場にいることもできず、涼子の部屋が望める路地の片隅で一人咽んだ。
ときおり横を通りすぎる人が、事情を察して同情というより憐れみを向けてきたが、気にしなかった。誰に見られようが、とめる術を知らないのだ。拭っても拭っても、次から次に溢れてきた。
そんな後藤の元へ、意識的に近づく靴音が聞こえた。
「黙って聞いてくれ。間違いなく他殺だ。涼子くんの首すじに、小さな傷があった――」
今井だった。
後藤は息を殺して聞いた。顔を上げずに耳だけを傾けた。
「所轄のS署へ行って聞き込みをしてきた。女子大生殺しの犯人と同一の可能性があるらしい。目撃者の話だと年令は四十代半ば、しかも二言三言、会話をしたようだから通り魔的犯行でもないようだ。涼子くんと面識があるみたいなのだ」
「今井……」後藤は言った。
「どうした」今井は妙に優しく答える。
「ありがとう。僕も全力で犯人を捜す。君も必ず捜してくれ」
「君は捜す必要がないよ、後藤くん」
今井が、圭に成り代わった後藤の名前を初めて呼んだ。「彼女と、殺される前に話をしたんだ。四百年前の遭難事故のことと、小学校のとき遭遇した陰湿な事件のことを。だが、それよりも涼子くんは、ユリという女性が気になると言っていた。君は、そっちのほうを優先すべきだ」
後藤は、今井の目を直視した。「そのことを涼子が言ったのか」
「ああ、君に伝えてほしいとな。たぶん自分が殺されることを知っていたんだ」
今井が強く見返してくる。「泣いている場合じゃない」
「お前こそだ」
後藤が言い返すと、今井は鼻を啜る。
「それよりもユリの名前を出されて、涼子が僕に伝えたい真意が分かった。二の舞を防ぎたいのだろう。急いで、と言っている気がする。犯人はユリの義父、名前は村井。君はそいつを徹底的に洗え。僕はこの足でユリの部屋へ向かう。嫌な予感がするんだ」
その後ユリは、数度テツに犯されたあと村井にも犯された。
最後は堪えきれず村井の背に爪を立てたようだ。テツの首にでさえ、腕を絡めてしまった気もする。ここまで惨めに貶められたら道化以下。もう、純二に合わせる顔も会う気力も失せていた。
テツがノブの死体をシーツに包み、軽々と担ぎ上げて車の後部に乗せた。その力を考えて使えばいいのに、あまりにも愚鈍。村井がテツを殺さず仲間に引き入れたのは、このことだったと改めて理解した。だが分け前は貰っていると思うので、恨みがないというのは嘘だ。役目が済みしだい始末するに決まっている。
車に乗せられた。
群馬県の山中にノブの死体を埋めるというが、ユリも一緒に始末するつもりだろう。どれだけ前を向こうとも、女というだけで次から次へ際限なく不幸がやってくる。虚脱感から逃げることも忘れて、悄然と座席に横たわっていた。
ジョルジュ……。
力なく純二の名前を呼んだ。しかしすでに遠い存在。声は涙に溶けた。波にさらわれた小さな砂城のように跡形もなく崩れ去った。
でも、どうして神は女を弱い生きものとして創ったのか。無性に哀しくなり、ユリは泣きながら目を瞑った。その瞼の裏で影が広がる。
眠ってしまったのだろうか、目が覚めたときには身も心も深い絶望感に支配されて、胸の中に悪魔を迎え入れる場所を創り出していた。それはインキュバスやサッキュバスのような淫魔ではなく、アスモデウスにも通じる絶望という悪魔。
一説によれば人類最初の子孫だったのに、その出生から祝福されず魔に身を投じた。それに似た波長を持つ影が、眠る前、ユリの胸に巣を喰ったのは知っていたが受け入れた。
生きる目的と希望を知ったがための絶望。過去、何度も味わった絶望とは違って、巣喰ったものは憎悪を召喚させていた。
弱者にとっての唯一の抵抗は憎悪。だから惨めなまでにいたぶられ、心を地の底に突き落とされたユリは憎悪を追い払うことができない。むしろ自ら手を差しのべて歓迎する。一緒に憎んだ。テツと村井だけでなく、神の示した運命を。
思い起こせば、魂の伴侶である純二と巡り合うまで運命に翻弄され続けてきた。真の希望に触れることのないまま。だから、これほど衝撃を受けることはなかったのだ。
なら希望なんていらない。希望を知りさえしなければ不幸に気づなかった。
車は寂しい山道を登っていく。
かなり市街地から外れているのは確かだが、それにしても暗い。なだらかだった坂道も急激に道幅が狭くなり、角度も急になった。ヘッドライトの明かりを通してみても、左側がぜんぜん見えない。おそらく崖なのだろう。エンジン音が谷底から噴き上げてこだまする。
ただ雨がやんでいるので、ワイパーをかけなくてすむのが幸いか。それでも深夜の人気のない山道。道の両端に雪が残っているし、少しでもハンドルを切り損なえば崖下に転落してしまう危険性がある。
ユリは後部座席に一人捨て置かれている。だからといって逃げられるわけではない。足と手をガムテープでぐるぐる巻きにされていて、蓑虫状態なのだ。
「テツ君、君もすっかり堪能したようだ」
村井がバックミラー越しにユリを見た。
「村井さんのおかげですよ。ノブなら暴発した時点で嘲り、触らせてもくれない。だって初めてだったから」
テツは、顔に似つかわしくない敬語を使って機嫌をとる。
「この後も、ペットだと思って好きにすればいい。扱い方も上手くなったし、なかなかのもんだ」
「そうですか。そんなことをいうから、またしたくなりましたよ」
テツが、ちらっと視線を流してくる。
辟易した。そんな間のびした顔を向けてこないで。ユリは顔を背けた。
「それよりも、村井さんはこの道を知っているんですか」
どんどん道が険しくなっていく。テツが不安そうにたずねた。
「もちろんだ」
村井が言った。「麓の蒟蒻畑は、私が勤めていた会社の契約農家だった。だから下見がてらちょくちょく来ている」
「下見?」
テツが声を裏返した。ユリもぴくっと反応させた。
「何の下見です? まさか、今回が初めてじゃないって聞こえるけど」
「何を言いたいのか分らない。初めてとは目的地なのか、それともそこに埋めた死体のことなのか」
「だ、だから埋めたこと……」
義父の冷えきった口調に、打って変わってテツは、どもり気味に語尾を沈めた。
「なら、二度目だ。今頃は、白骨化した少女が土の下で眠っている」
テツが、まともに目を向けていられないのか逸らした。何かから必死に逃れる感じで、窓の外を見た。しかし暗くて何も見えないはずだ。ヘッドライトが照らす前方の十数メートルだけが視界で、あとは漆黒の闇だったから。
十日前に殺された女子大生の死体は、ホテルに置き去りにされていたのですぐ見つかったけど、村井はいったい何人の尊い命を奪っているのだろうか。想像しただけで戦慄する。
数分後。まだ山の中腹だと思われるが、村井は間道を見つけると速度を落として車を入れた。
「さ、降りるんだ」
テツに言った。それから蓑虫状態のユリを見た。
「手足を解放させてあげるから、用を足したいのなら、そこの草の繁みでするがいい」
ぞっとする会話をしていても、ユリが、しきりにもじもじするのを見ていたようだ。村井が腕のテープを解く。「手が自由になれば、自分で足のテープぐらい外せるだろう」
ユリは背をまるめて、ブーツの上からきつく巻かれたガムテープをほどいていく。が、テツが後方のドアを開けながら文句を言った。
「足を自由にさせたら、逃げ出すよ」
「それはない。君も見てきた通り、私たちは一本道を三十分近くかけて登ってきたが、途中に間道もなかった。仮に逃げたとしても、ヒールの高いブーツをわざわざ履かせてきたのだ。その格好で逃げきれると思うかね。それに穴を掘り終えた君を楽しませるための、慰安婦でもあるのだ。逃がしはしない」
「こんなところで、その気になるかな」
「心配しなくていい。ユリの裸を懐中電灯で照らしてあげよう。それと、あくまでも奉仕なのだから勝手に君の股間に顔を埋めてくるだろう」
浮かぶ映像はまるっきり娼婦。今のユリは、つくづく奴隷なのだと思わされた。だけど麻痺してしまったら、この先も完全な奴隷。復讐する気持ちが萎えてしまう。断固拒絶すべきだ。
「そんなことをするぐらいなら、死んだほうがまし」
「分かった。ではもう一度、蓑虫になっていただこう」
村井がガムテープを取り出した。
「待って」
ユリはあっさり撤回した。ここでまた手足を拘束されたら、ほんとうに逃げることも戦うこともできなくなってしまう。「なんでもする」
もしかしたらテツも墓を掘ったら殺されるのか。
というのも、堀り終えたら、という言葉が引っかかる。ニュアンス的には、テツが欲情しても掘る前だといけないことになる。要は掘り終えた深い穴の中に二人を入れ、スコップもしくはアイスピックで殺して、埋めてしまうという策意が覗ける。
ならわざと騙された振りをして、村井を穴の中へ落せないだろうか。その際に、村井がテツを殺すつもりなのだと教えればいい。二人が揉めている間に逃げるのだ。




