4章 報復 1
4章 報復
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新宿歌舞伎町。風俗店の裏手の小さな公園に男が一人蹲っていた。
凍りつくような肌寒さの中、仕立てのいいコートが濡れていた。昨夜から座り込んでいたようだ。足元に飲みかけの缶コーヒーと食べ残したパンが無雑作に転がっている。
それを狙って烏が一羽、上空の電線にとまった。さらにビルの隙間から鼠も現われ、隙を窺いつつ近づいた。
お前はどちらを狙ってる。パンか、それとも鼠か。
男は烏の本心を知っているかにつぶやいた。自分を烏と重ね合わせているのだ。臆病者め、と。
男の名は村井。ユリの義父である。誰よりも早く過去世の記憶を覚醒させたのに関わらず、標的と直接対峙しなかった。小心者を演じ、金で駒を操って間接的に携わっていただけ。
生きた獲物を狙えぬ烏と、一緒だ。
村井はパンに近づく鼠に無関心を装い、やおらアイスピックを取り出すと冷淡に首すじを貫いた。
歯を剥き出しにして鼠が鳴いた。足をばたばたさせてもがいた。が、雪の地面に血の赤い花が咲き乱れると,息絶えたのか動かなくなった。
村井はアイスピックを抜いた。瞬間、死んだと思っていた鼠が勢いよく疾走した。しかし単なる神経の反射、数メートル逃げたところで足を縺れさせ走れなくなった。脳と手足をつなぐ回路がアイスピックによって粉砕され、完全に分断してしまっていたのだった。
村井は鼠から目を離し、行為の一部始終を見つめる烏を睨んだ。
「どうする、これでもまだパンのほうがいいのか」
応えるまもなく烏は飛び立った。短い警戒音を三度空に響かせ、向かいのビルの屋上へ場所を移した。
村井は口を引きつらせる。もう烏を見なかった。
一人が再起不能の廃人になって、二人は死んだはずだ。なぜ、生きている。
呟く村井の目は虚ろだ。
心が寒かった。目ばかりか、寒さと疑問で手足が震えている。そこに追い打ちをかけるよう、灰色の空の一角が黒ずむと氷雨が降り出した。ようやく乾きはじめた髪の毛がまた濡れる。
村井はコートの衿を立て、肩にかかる雫を無雑作に払った。その手で顔を叩くかに拭く。のっぺりとして生白い頬に、鼠の血で汚れた指の跡がつく。
とつぜん立ち上がり、行くあてもなく歩き出した。浮浪者のように街を徘徊し、人気の途絶えた狭い歓楽街の路地裏に入ると蹲り、切なく嘔吐した。饐えた臭いのする路地裏は、至る所に酔っぱらいの尿の名残が溢れていた。
村井は嗚咽を繰り返しながら、胸の中に充満する疑問を吐き出した。すっきりしたかと思えば、ふっと頭をよぎる幻影に怯え、また吐く。それを何度もくり返した。
ハンカチを取り出そうとポケットに手を入れると、十円玉が指の隙間からするりとこぼれた。音を立てて転がり、不規則な回転をさせて汚物の中で動きをとめた。
これが、いまの私だ――。
やるせなく舌打ちをすると、電線から垂れる雨の滴が首すじに落ちた。衿の隙間から背中に入り込む。そのひんやり伝わる冷たい感触が、しだいに怒りに変わっていく。熱を持ち、沸騰するかに胸の中で蠢き出す。
少年らの手によって生への望みが断たれた、忸怩たる思いがまざまざと脳裏に甦りはじめる。
四百年前。村井は、自分を節度のある紳士と自負していた。率先して法を守り、身分や人種の違いで人を差別したこともなかった。その船上火災においても、自分が助かりたいがための割り込みをしないよう戒め、静かに順番を待った。
それが四人の少年らの手によって一変した。まさに乗れると喜んだとき、ジョルジュという若者がいきなり制したのだ。そればかりかヨシュアと呼ばれた肥満児が、村井の後ろにいた少女を救命ボートに投げ入れた。その時点で定員オーバー、村井は乗ることができなくなってしまった。
正しいことを実践してきたのに、神から裏ぎられて死を宣告されたと同じ。これが運命なのだと受け入れることなどできやしない。根底から価値観を覆させられた。
絶望ではなく、怒りに震えて海へ飛び込んだ。そのせいでもあるまいが、救命ボートを見つけ助けを求めても、手を差し伸べられるどころか、無下に払われた。
みんな、あの四人のせいだ。その一点に復讐心を滾らせて波間を漂った。そして、もうだめだと思ったとき奇跡的に救助されたのだ。
しかし彼らは、水死した金持ちから金品を漁るハイエナたちだった。腹に巻きつけていた現金と装飾品、手持ちの財産のすべてを奪われて小さな島へ置き去りにされた。その時点で、もう隣人への愛とか慈悲への興味はなくなっていた。
そして半年かけてようやく故郷へ戻ってみれば、水死したと思っていたのだろう。屋敷は売り払われ妻も消えていた。
前世ではどうしても果たせなかった復讐。それが四百年のときを経て巡ってきた。これこそが生きる目的、本懐なのだと自身に言い聞かせた。
そんな想いに耽る村井を、さっきの烏同様じっと見ていた野良猫が、手に持つパンがほしいのか寄ってきた。
最近ここらの野良猫は餌場を烏に占領されて、満足に空腹感を満たすことができないと聞く。ほんらい餌である鼠にだって、集団で囲まれると怯えてしまうのだ。そのせいか毛艶も悪いし、見るからに痩せ細っている。憐れだと思い、村井は足元にパンを落とした。
「ミャオ」野良猫は甘ったるい声を出すとむしゃぶりついた。
似ている……お前も孤独なのか。
十二年前、あの少女の生まれ変わりでもある涼子を犯し、初めて味わった復讐の快感と性の解放。いったん味を占めると本懐を忘れて悦楽に没頭した。孤独を忘れた。だが油断、この秋に高校出たてのアルバイト少女に手を出したことが露見し、会社を首になった。
連鎖的に妻とは離婚した。二度目の離婚だ。ただ事件を公にしたくない会社の方針で、妻には真相を知られていない。とはいっても会社を辞めたので、妻は三下り半を突き付けてきた。官能的な女だったが、しょせんエリートフェチのつまらない女でしかなかった。
しかし、すべては本懐を人頼みにして性に倒錯した結果である。今こそ被り続けてきた羊の仮面を剥ぎとらなくてはならない。四百年前も、羊になって生きていたから地獄に堕とされたのだ。
再び村井は無表情にアイスピックを取り出した。同じ身の上、同じ孤独を感じさせていた野良猫の首に視線を当てる。
露とも知らず野良猫は、愛くるしい目で見返したあと、村井の足に自分の脇腹を撫でつけてきた。犬ほどダイレクトではないが、猫族として精一杯の愛情表現だ。だが媚びよりも、村井にはもっと大事なことがある。
いくらそんな態度をとっても躊躇いなど生まれない。変わるのだ。
村井は顔色を変えず冷淡にアイスピックを振り下ろした。満足感に満たされ、信頼を寄せてきた野良猫の首すじめがけて、激しく。
殺す! ジョルジュもヨシュアもゴードンも、この野良猫のように、今度は直接――私の手で。
さらに奥深くまで突き刺すと、ぎしぎしと歯を立て、村井は吐きすてた。
「すでに涼子を葬った。次は、最も憎むべき男を殺したといって金だけを持ち去り、虚仮にしたノブを始末する。どうせ奴らの狙いはユリだ。張っていれば必ず現れる。その後ユリを殺す。凌辱してから土の中に埋めてやる」
村井は猫がピクリとも動かなくなったのを確認すると、静かにアイスピックを抜いた。




