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「もしかして、デジャヴなの……」
救出劇を目の当たりにしてユリは思った。以前、どこかでこんな場面を見たことがあったと。
なぜか胸の中に温かい風を感じる。
今まで風は、空っぽの心に吹き抜ける空虚なものでしかなかった。けれどもそうじゃない。ユリが閉ざしていた思いを心地よくノックしてくる。
なら彼が風で、父の言っていたジョルジュなのかもしれない。不意にそう思った。
老捜査官も「風は仲間、匂いを知れ」と言った。あのとき感じる間もなく心を錯綜させてしまった。でも今、匂いを確信できた。
――私は四百年前、ジョルジュのおかげで死なずに生き延びた。
緊急避難。聞こえはいいが、見すてられた者にとっては死刑を宣告されたと同じ。絶望だけが広がっていた。
望みを絶たれると気力も体力も失う。死を受け入れ、静かに迫るその瞬間を待っていた。でもヨシュアが得意満面の笑みを見せ泳いできた。
「ジュリア、助かるぞ。お前を船に乗せてくれることになった」と。
「嘘。だって、さっき乗せないと宣告されたばかりなのよ」
この期に及んで儚い希望を持たされても、心も身体も冷えきっている。否定した。
「嘘じゃない。あの医師が納得したんだ。さ、早く来い」
救命艇へ乗っているはずのジョルジュがそこにいた。ジュリアの乗る板切れを押す。
「ほんとうに乗れるの……」
救命艇の前で戸惑いを見せたら、乗りなさいと医師が優しく言う。すぐにゴードンが引き上げる。兄の話は、ほんとうだった。
その後ゴードンに毛布をかけてもらい、他の乗客から着替えを手渡された。冷えた身体が徐々に温められると、思い出したかにヨシュアとジョルジュを捜した。
「二人は、どこ?」
問い質すと、ゴードンは目線を落として沈黙する。
ほどなく昏い海に、光る目がゆらゆら四つ漂っているのが見えた。それがヨシュアとジョルジュだと分かったとき、船は彼らから離れていった。
今その、忘れた心を取り戻す機会を与えられた。ヨシュアとゴードンが、この現実世界にいるのかまだ分からないが、ジョルジュが間近にいるのが確認できた。
追いかけるべきだ。過去を清算することによってのみ、未来が拓かれる。
ユリは痛々しそうに歩く青年の跡を、偲びない気持ちで追った。ほんとうであれば消毒薬やらガーゼ、火傷に効く薬を買って治療してあげるべきだろう。それを、何もしないで尾行している自分が不人情な人間に思えた。
ひどい女だ。過去に命を助けてもらい、つい先日も窮地を救ってもらったというのに。
そうこう考えているうち、青年がアパートの階段を上っていった。二階の扉に鍵を差し込み入っていく。
どうしよう。目的は家を確かめることではなく、話をすることだ。だったら薬局へ行って、薬を買ってこよう。
そう決めて後ろを振り返ると、黒く歪んだ二つの影がユリの前に立ち塞がった。またしてもノブとテツだった。
「おやおや、こんなところで、お嬢さまが何をしてらっしゃるんでしょうか」
ノブが下世話な目で舐めまわしてくる。「まさか、偽麻薬捜査官さまの所へ行って、操を捧げようとでも考えているのかな」
「ふざけないで。あなたたちこそ、なぜこんなところにいるの」
語気を荒くしたものの、荒んだ現実に気が滅入る。どうして、いつも付きまとうの。せっかく明るい兆しを見つけたのに、土の中から手を伸ばして性懲りもなく泥沼の中へ引きずり込もうとする。
「こないだは偽捜査官とぐるになって、よくも虚仮にしてくれたな。今日はその決着をつけさせてもらうぜ」
テツが眉間に皺をよせて凄んだ。力まかせに腕を掴んで車の方へ連れていこうとした。今度は考える暇も与えない。テツなりに学習しているのだ。だったら弱点を突くしかない。
「あなたを虚仮にしたのは私じゃない。ノブよ!」
声を嗄らして叫ぶと、テツがわずかながら動揺を見せる。
いちばん気にしていることだからだ。テツはノブを見た。その一瞬の隙を突いて、テツの足をヒールで踏みつけた。スニーカーを履くテツにはかなりの効果があったと見える。痛さに、すっと力を弛めた。
だがしたたかなノブには、ユリの反抗が計算済みだったようだ。背後から羽交い絞めにされた。
「甘いぞ、テツ。女の浅知恵なんかに引っかかるんじゃない」
と、強引に車のほうへ押していく。車に乗せられてしまえば結果が目に見えている。義父の二の舞、恥辱の繰り返しだ。それだけは避けなくてはいけなかった。
「たっぷり可愛がってやるからよ」
追い打ちをかけるよう、ノブが、ユリの耳の裏へ卑猥な息を浴びせてきた。さらに抱え込みながら片方の手で胸をまさぐってくる。「楽しみだぜ」
虫唾が走る。
「触らないで、私はちっとも楽しくない」
ユリは身体をよじって逃れた。ノブが胸を触っていた手を離す。改めて羽交い絞めにしてきた。
「おいテツ、さっさとドアを開けるんだ」
と、背後にいるテツに命令した。しかしテツはやって来ない。代わりに低い呻き声が返ってきた。
「ち、女に靴を踏まれたぐらいで呻きやがって」
ノブが舌打ちをして振り返る。だが、すぐに身体を硬直させた。ユリから手を離して身がまえた。圭が立っていたのだった。
「死んだはず、じゃないのか」
「どう解釈しようと自由だが、お前らを許さない」
相手の気持ちを顧みない恥知らずな行為。欲望のままに人の心を踏みにじるノブとテツが許せなかった。
この二人は常軌を逸している。過去を教訓とせず罪をくり返している。なら、こっぴどく痛めつけてもいいだろう。
ノブは腕力だけが自慢のテツと違い、悪知恵に丈たタイプ。肉体派のテツを顎で使い生き抜いてきた男だ。姑息な計略と徹底的な威嚇が身上、いざ喧嘩となるとからっきしだと踏んだ。だから嫌というほど叩きのめして、二度とユリに手出しができないようにしなければいけない。
「許さないだと? ジャンキーの、それもゾンビ相手に人間さまが負けると思ってんのか」
「だったら弱虫くんは、やり合う気があるんだな。じゃ、本気を出させてもらうぞ」
後藤はユリへ言った。「ノブから離れるんだ。腰抜けは、女を人質にとって凄むことしかできない」
ユリが弾かれたように離れる。ノブと距離を取った。
「ふざけるな、俺は腰抜けでも弱虫でもねえぞ。証拠を見せてやる」
喚くとノブは胸からナイフを取り出す。
折りたたみ式のポケットナイフだった。刃渡りは十センチていど、一応届出をしなくても自由に所有できる。ただし携帯はできないが。
「怖くなけりゃ、かかってこいよ」
「なるほど腹黒い男だ」
吐きすてると、前触れもなしに、倒れているテツの顔をしたたか蹴った。
ノブが凶器を取り出すことなど予測できたし、ナイフを出したとき視線が動いたのも知っていた。足元に倒れているテツと、腐りきった阿吽の呼吸で示し合わせていたのだろう。下衆な男の考えることは、容易に想像つく。
案の定その通りだった。掴もうと手を伸ばしていたテツは、後藤の足に触れることもできず再び地に伏せた。
「やるじゃねえか」
ノブが、信じられないとでもいうような目を後藤へ向けてくる。余憤を顕わにしてユリに視線を流す。
「動くんじゃない。少しでも彼女へ近づくなら、テツどころじゃすまなくなるぞ」
「うるせえぞ! 耳障りなんだよ。その、もっともらしい口を塞ぎやがれ」
行動を読まれ、ユリを人質に取るのをあきらめたのか、凶器を味方にいきり立って突進してきた。
しかしナイフを振りまわす動きが大きい。たぶん斬りつけようとしているのだろうが、振り幅の大きさは比例して隙を生む。
後藤は怯まず逆に前進した。紙一重で切っ先を躱すと、横へ回り込んでがら空きの首を決めた。
ナイフを落として、ノブは足をばたばたさせる。が、逃れられないと判断したのか「悪かった、許してくれ」と、たちまち泣きごとを言った。
「悪いって、何がだ」
どうせ苦しまぎれの虚言。冷淡に言い返すと、後藤はさらに絞め上げた。
とたんに暴れていたノブの足が、だらりと投げ出された。顔も見る間に青ざめさせていく。一時的に脳への酸素の供給が止まったのだ。これ以上絞めると落ちる。後藤は力を弛めた。
「約束しろ。二度と彼女に近づかないと」
「分かった。そうするから、お願いだ。首から手を離してくれ」
「よし、じゃテツに言うんだ。ナイフをその場に置いて、立ち去れとな」
そのとき、ユリが後藤の背後を指差した。おそらくテツが起き上がって、ナイフを取り出したに違いない。
「テツ見透かされているぞ。ナイフを捨てろ。あきらめて引き揚げよう」
ノブが咳き込みながら言った。
「そんなことができるか」
テツが反発する。「さっきは油断してやられたが、二人もいるんだ。負けるはずがねえ。だいいち俺には、このゾンビ野郎を刺したナイフがある」
ノブとはタイプの違うアーミーナイフ。戦場で兵士が携帯する多目的な道具だ。圭の心臓を一突きで刺したことでも分かるように、殺傷能力にも優れている。
だからというわけでもなさそうだが、テツの目は飛んでいた。普通なら戦意を失くしてノブの指示通りに退散する。だがテツは、有りっ丈の憎悪を後藤へ向けてきた。そこにはユリに対する異常な思いと、圭への積年の恨みがあるからだ。
悠長に構えている場合ではなくなった。このままテツが強気の姿勢を押し通せば、態度を豹変させるのがノブの本性。いつなんどきユリにナイフで迫るかもしれないのだ。かといって、これ以上ノブの首を絞め続ければ絶命の危険性もある。限度を見きわめられるほどの域には達していない。
テツが時間をかけて、じりじり距離を詰めてくる。そしていきなりテツが走った。後藤の方ではなく、ユリの所へ。
まずい――。
まんまと裏を掻かれた。あれだけ挑発してきたのだ。正攻法でくると信じて疑わなかった。全身から一気に血の気が引いた。ユリが人質にとられてしまえば、ノブがまた息を噴き返す。
「逃げるんだ!」
後藤は叫ぶことしかできなかった。
しかし、ユリの立っている場所はあまりに位置どりが悪い。後方と右側を生垣に阻まれ、左から迫るテツに対する逃げ場がなかった。まして雪のため地面がぬかるんでいる。
テツがユリを捕まえた。
――万事休す。と、あきらめたとき、信じられない奇跡が起きた。
ユリの喉笛に当てられているはずのナイフが、テツの手から離れ、宙に浮いていたのだ。テツはその場で腰砕となり、瞬きもできずに口をあけている。
これは?
思考が迷走したが、気を取り直し、ユリをテツから引き離した。首をまわして辺りを見回した。階段の踊り場で、両掌をテツにかざしている老人を見つけた。その隣に純二が立っていた。




