第2話 後編 一つの花も
打たれた頬を、冷えた空気が撫でた。
それでも、熱はまだ引かなかった。
ジャックは早足で歩いた。どこへ向かうのかも決めずに、ただ家から離れる方向へ。
――勝手にしろ。
自分の声が、まだ耳の奥に残っていた。
戻ればいい。頭ではそう分かっていた。だが足は動かなかった。
戻れば、謝らなければならない。
父親の話を、聞かなければならない。
そして何より、自分がこの数日、メアリーへ何をしてきたのかを、正面から認めなければならない。
それが、怖かった。
夜通し、当てもなく歩いた。橋のたもとで座り込み、川面を見た。空が白みはじめても、家へ足は向かなかった。
どうしてあんなことになったのか。
なぜもっと早く話してくれなかったのか。
――いや。
話そうとしていた。
自分が、聞かなかった。
同じ思考が、朝になっても昼になっても、ぐるぐると回り続けた。答えは出なかった。ただ、腹の底にあった怒りが、少しずつ形を変えていった。
怒りより、重いものに。
◇
夕方になって、ようやく帰る気になった。
帰り道、花屋の前を通りかかった。
店先に、色とりどりの花が並んでいた。豪華な花束ではない。近所の女たちが夕飯前にふらりと買っていくような、日常的な花だった。
ジャックは、足を止めた。
――そういえば俺は、一つの花もあいつに贈ってやったことがない。
その事実が、今さら胸を刺した。
食事を作ってもらった。掃除をしてもらった。破れた服を繕ってもらった。長く、長く、支えてもらった。
それなのに、彼女を喜ばせるために花を買ったことなど、一度もなかった。
ジャックは店の中へ入り、しばらく花を眺めた。
一輪だけ、選んだ。
これを渡して謝ろう。今度こそちゃんと話を聞こう。昨日のことは取り返せないが、まだ終わったわけではない。
そう思っていた。
◇
家の扉を開ける。
灯りはついていなかった。
スープの匂いもしなかった。
当たり前だった。昨夜、彼女は出ていったのだから。
それでも、心のどこかで期待していた自分に、ジャックは気づいた。
部屋の中を、改めて見渡す。
昨夜は荷物にしか目がいかなかった。今、静かな部屋の中で見ると、もっと多くのものが消えていた。
彼女がいつも使っていたカップがない。
窓辺に置いていた小さな鏡がない。
針箱の横にあった、繕いかけの布もない。
彼女がここで暮らしていたという痕跡そのものが、部屋から抜き取られていた。
ジャックは、手にした花を見下ろした。
捨てられなかった。
流しの脇にあった空のコップへ水を入れ、花を挿す。
メアリーへ渡すために買った花が、メアリーのいない食卓に置かれた。
◇
ジャックは待った。
用事で出ているだけかもしれない。まだ戻ってくるかもしれない。
そんな都合のいい考えを、捨てきれずにいた。
夜が深まる。
置き時計の針の音だけが、部屋に響いていた。
誰も、帰ってこなかった。
昨夜、メアリーは確かに言った。「私たち、別れましょう」と。荷物をまとめて、この部屋を出ていった。
待っていれば戻ってくる、というのは、自分に都合のいい期待でしかない。
ジャックは、ようやくそれを認めた。
立ち上がった。
彼女を、探しに行こう。
◇
メアリーが働いていた食堂は、大通りから少し外れた場所にあった。
閉店間際で、客はもうまばらだった。
カウンターの向こうにいた女将が、入ってきたジャックを見て、手を止めた。
「ジャックといいます。メアリーは……来ていませんか?」
声が、思ったより掠れていた。
女将の目が、わずかに細くなった。
「……あんたがジャックかい」
しばらく、ジャックを見ていた。それから、深く息を吐いた。
「本当に何も聞いてないのかい?」
その一言だけで、何かが決定的に間違っていたことが分かった。
女将は、布巾を置いた。
「あの子の父親、ずっと具合が悪かったんだよ」
ジャックは、動けなくなった。
「治療にね、金がかかる。あの家だけじゃ、とても足りないくらいに」
――父さんのことで、少し相談したいことがあるの。
あの夜の声が、耳の奥で蘇った。
畳まれていた手紙。エプロンのポケットへ戻っていった白い紙。
あれだったのか。
「メアリーは、うちの給仕と針仕事で、金を工面しようとしてたよ。毎日毎日、休みもなしにね」
ジャックは、自分が白いキャンバスの前で焦っていた同じ日々に、メアリーが別の場所で、別の重さを抱えていたことを、今になって知った。
「……それだけじゃないんだよ」
女将は続けた。
「あの子の故郷に、オプティムって資産家がいてね。あの子に、求婚してきたんだ」
「求婚」
「結婚を受け入れるなら、父親の治療も、これからの暮らしも、面倒を見るってさ」
「金で……」
言いかけて、ジャックは口を閉じた。
女将は、首を振った。
「悪く言うんじゃないよ。あの人は、あの子を粗末にするような人じゃない」
ジャックには、何も言い返せなかった。
女将は、少し間を置いてから、静かに言った。
「前はね、あんたの話をよくしてたよ」
その言葉に、ジャックの胸の中で、何かが持ち上がった。
「最近は、しなくなったけどね」
持ち上がったものが、また沈んだ。
女将は、布巾を握り直した。
「何度もあんたに話そうとしてたはずだよ」
ジャックは、うつむいた。
あなたが聞かなかったのよ。
昨夜のメアリーの声が、もう一度、耳の奥に蘇った。
◇
「……メアリーは、今、どこに」
口から、勝手に言葉がこぼれた。
女将が、口を開きかけた。
その前に、ジャックは首を振った。
「……いや」
自分でも、驚いた。
会って、何を言うつもりだった。
皇女に頼めば金を出してもらえるかもしれない。俺のところへ戻ってこい。今度はちゃんとする。
そんなことを、言うつもりだったのか。
メアリーは、自分で荷物をまとめた。泣きながらでも、自分の口で「別れましょう」と言った。
父親の病気だけが、理由ではなかった。
金があれば、元通りになるわけではない。
そして、今すぐ彼女のところへ行きたいと思っているこの気持ちは、彼女を救いたいからではない。
自分が、失いたくないだけだ。
「……聞かないでおきます」
声が、震えていた。
女将は、何も言わなかった。
ジャックは頭を下げ、店を出た。
◇
家へ戻ると、食卓の上に、一輪の花があった。
メアリーへ渡すつもりで買った花。
渡す相手は、もういない。
ジャックは、しばらくそれを見ていた。
それから、流しに残っていた皿を洗った。散らかった部屋を片づけた。
メアリーが毎日していたことだった。
コップに挿した花は、数日後には萎れていた。
ジャックはしばらくそれを見てから、静かに抜き取った。
萎れた花を紙に包み、捨てた。
◇
花を手放した数日後、ジャックは皇女宮へ向かった。
月例報告の日ではなかった。
サージェッツァの前に立つと、迷いを振り切るように口を開いた。
「俺への支援を、打ち切ってください」
サージェッツァが、わずかに眉を上げた。
「なぜだ」
「長く、完成作を出していません。支援に応えられていません。それに、メアリーにも……」
ジャックは言葉を詰まらせた。
「あんなことをした俺が、殿下の支援を受け続ける資格なんて――」
「認めん」
今度は、迷いのない即答だった。
「それで、バンディと同じだとでも思ったのか」
ジャックは、息を詰めた。
「描けぬことと、私の金を娼館で使うことを一緒にするな」
その言葉が、耳に染みた。
「メアリーのことは……」
「それは私ではなく、お前が背負う話だ」
サージェッツァは、それ以上何も言わなかった。長い説教も、慰めも、なかった。
「支援は続ける」
皇女は、卓の上の書類へ目を戻した。
「来月も報告に来い。それだけだ」
ジャックは、その場に立ち尽くした。
切られなかった。
だが今度は、あの日のような恐怖ではなかった。
◇
制作室へ戻る。
白いキャンバスが、まだそこにあった。
木炭を手に取る。
何も浮かばなかった。
一度、木炭を置いた。
食事をした。久しぶりに、まともな量を。
夜は眠った。
翌日、また制作室へ来た。
同じことを、繰り返した。
しっかり食え。ちゃんと寝ろ。
あの日は素直に受け取れなかった言葉を、今になって、ようやく守っていた。
◇
ある日。
白い紙の前に座った。
あの花のことを、また思い出した。
渡せなかった、一輪の花。
もし、あの花を渡せていたら――そこから先を考えかけて、やめた。
ただ、花を持つメアリーの姿を、自分は一度も見たことがなかった。
木炭が、動いた。
最初は、手。
その手に、一輪の花。
その向こうに、女性の輪郭。
線を引いた。
――違う。
手が消し布へ伸びた。
だが、指が止まった。
しばらく、紙を見つめた。
消さなかった。
◇
その日から、ジャックは何枚も描いた。
横顔。正面を向いた姿。花を見つめる姿。花を胸元に抱く姿。少し笑っている姿。表情のない姿。
どれも、完成しなかった。
それでも、以前とは違った。
白い紙の前で、線が止まらなかった。
◇
次の月例報告の日。
ジャックは、何枚ものラフを卓へ並べた。
完成作は、一枚もなかった。
だが今度は、自分から言えた。
「まだ、完成していません」
サージェッツァは、一枚一枚、黙って手に取った。
「そうか」
それだけだった。
一枚を見て、少しだけ手を止めた。
「続けろ」
あの日と同じ言葉。
恐怖でしかなかったその一言が、今は違って聞こえた。
◇
制作室の机には、何枚ものラフスケッチが積まれていた。
その中に、一枚だけ、少し長く手を入れた絵があった。
一輪の花を持つ、一人の女性。
顔の一部は、まだ描き切れていない。背景もない。
それでも、ジャックは消し布を取らなかった。
紙の上で、女性は、まだ花を手にしたままだった。




