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第2話 後編 一つの花も

 打たれた頬を、冷えた空気が撫でた。

 それでも、熱はまだ引かなかった。


 ジャックは早足で歩いた。どこへ向かうのかも決めずに、ただ家から離れる方向へ。


 ――勝手にしろ。


 自分の声が、まだ耳の奥に残っていた。


 戻ればいい。頭ではそう分かっていた。だが足は動かなかった。


 戻れば、謝らなければならない。

 父親の話を、聞かなければならない。

 そして何より、自分がこの数日、メアリーへ何をしてきたのかを、正面から認めなければならない。


 それが、怖かった。


 夜通し、当てもなく歩いた。橋のたもとで座り込み、川面を見た。空が白みはじめても、家へ足は向かなかった。


 どうしてあんなことになったのか。

 なぜもっと早く話してくれなかったのか。


 ――いや。


 話そうとしていた。

 自分が、聞かなかった。


 同じ思考が、朝になっても昼になっても、ぐるぐると回り続けた。答えは出なかった。ただ、腹の底にあった怒りが、少しずつ形を変えていった。


 怒りより、重いものに。



 夕方になって、ようやく帰る気になった。


 帰り道、花屋の前を通りかかった。


 店先に、色とりどりの花が並んでいた。豪華な花束ではない。近所の女たちが夕飯前にふらりと買っていくような、日常的な花だった。


 ジャックは、足を止めた。


 ――そういえば俺は、一つの花もあいつに贈ってやったことがない。


 その事実が、今さら胸を刺した。


 食事を作ってもらった。掃除をしてもらった。破れた服を繕ってもらった。長く、長く、支えてもらった。


 それなのに、彼女を喜ばせるために花を買ったことなど、一度もなかった。


 ジャックは店の中へ入り、しばらく花を眺めた。


 一輪だけ、選んだ。


 これを渡して謝ろう。今度こそちゃんと話を聞こう。昨日のことは取り返せないが、まだ終わったわけではない。


 そう思っていた。



 家の扉を開ける。


 灯りはついていなかった。

 スープの匂いもしなかった。


 当たり前だった。昨夜、彼女は出ていったのだから。


 それでも、心のどこかで期待していた自分に、ジャックは気づいた。


 部屋の中を、改めて見渡す。


 昨夜は荷物にしか目がいかなかった。今、静かな部屋の中で見ると、もっと多くのものが消えていた。


 彼女がいつも使っていたカップがない。

 窓辺に置いていた小さな鏡がない。

 針箱の横にあった、繕いかけの布もない。


 彼女がここで暮らしていたという痕跡そのものが、部屋から抜き取られていた。


 ジャックは、手にした花を見下ろした。


 捨てられなかった。


 流しの脇にあった空のコップへ水を入れ、花を挿す。


 メアリーへ渡すために買った花が、メアリーのいない食卓に置かれた。



 ジャックは待った。


 用事で出ているだけかもしれない。まだ戻ってくるかもしれない。


 そんな都合のいい考えを、捨てきれずにいた。


 夜が深まる。

 置き時計の針の音だけが、部屋に響いていた。


 誰も、帰ってこなかった。


 昨夜、メアリーは確かに言った。「私たち、別れましょう」と。荷物をまとめて、この部屋を出ていった。


 待っていれば戻ってくる、というのは、自分に都合のいい期待でしかない。


 ジャックは、ようやくそれを認めた。


 立ち上がった。


 彼女を、探しに行こう。



 メアリーが働いていた食堂は、大通りから少し外れた場所にあった。


 閉店間際で、客はもうまばらだった。


 カウンターの向こうにいた女将が、入ってきたジャックを見て、手を止めた。


「ジャックといいます。メアリーは……来ていませんか?」


 声が、思ったより掠れていた。


 女将の目が、わずかに細くなった。


「……あんたがジャックかい」


 しばらく、ジャックを見ていた。それから、深く息を吐いた。


「本当に何も聞いてないのかい?」


 その一言だけで、何かが決定的に間違っていたことが分かった。


 女将は、布巾を置いた。


「あの子の父親、ずっと具合が悪かったんだよ」


 ジャックは、動けなくなった。


「治療にね、金がかかる。あの家だけじゃ、とても足りないくらいに」


 ――父さんのことで、少し相談したいことがあるの。


 あの夜の声が、耳の奥で蘇った。


 畳まれていた手紙。エプロンのポケットへ戻っていった白い紙。


 あれだったのか。


「メアリーは、うちの給仕と針仕事で、金を工面しようとしてたよ。毎日毎日、休みもなしにね」


 ジャックは、自分が白いキャンバスの前で焦っていた同じ日々に、メアリーが別の場所で、別の重さを抱えていたことを、今になって知った。


「……それだけじゃないんだよ」


 女将は続けた。


「あの子の故郷に、オプティムって資産家がいてね。あの子に、求婚してきたんだ」

「求婚」

「結婚を受け入れるなら、父親の治療も、これからの暮らしも、面倒を見るってさ」

「金で……」


 言いかけて、ジャックは口を閉じた。


 女将は、首を振った。


「悪く言うんじゃないよ。あの人は、あの子を粗末にするような人じゃない」


 ジャックには、何も言い返せなかった。


 女将は、少し間を置いてから、静かに言った。


「前はね、あんたの話をよくしてたよ」


 その言葉に、ジャックの胸の中で、何かが持ち上がった。


「最近は、しなくなったけどね」


 持ち上がったものが、また沈んだ。


 女将は、布巾を握り直した。


「何度もあんたに話そうとしてたはずだよ」


 ジャックは、うつむいた。


 あなたが聞かなかったのよ。


 昨夜のメアリーの声が、もう一度、耳の奥に蘇った。



「……メアリーは、今、どこに」


 口から、勝手に言葉がこぼれた。


 女将が、口を開きかけた。


 その前に、ジャックは首を振った。


「……いや」


 自分でも、驚いた。


 会って、何を言うつもりだった。


 皇女に頼めば金を出してもらえるかもしれない。俺のところへ戻ってこい。今度はちゃんとする。


 そんなことを、言うつもりだったのか。


 メアリーは、自分で荷物をまとめた。泣きながらでも、自分の口で「別れましょう」と言った。


 父親の病気だけが、理由ではなかった。


 金があれば、元通りになるわけではない。


 そして、今すぐ彼女のところへ行きたいと思っているこの気持ちは、彼女を救いたいからではない。


 自分が、失いたくないだけだ。


「……聞かないでおきます」


 声が、震えていた。


 女将は、何も言わなかった。


 ジャックは頭を下げ、店を出た。



 家へ戻ると、食卓の上に、一輪の花があった。


 メアリーへ渡すつもりで買った花。


 渡す相手は、もういない。


 ジャックは、しばらくそれを見ていた。


 それから、流しに残っていた皿を洗った。散らかった部屋を片づけた。


 メアリーが毎日していたことだった。


 コップに挿した花は、数日後には萎れていた。


 ジャックはしばらくそれを見てから、静かに抜き取った。


 萎れた花を紙に包み、捨てた。



 花を手放した数日後、ジャックは皇女宮へ向かった。


 月例報告の日ではなかった。


 サージェッツァの前に立つと、迷いを振り切るように口を開いた。


「俺への支援を、打ち切ってください」


 サージェッツァが、わずかに眉を上げた。


「なぜだ」

「長く、完成作を出していません。支援に応えられていません。それに、メアリーにも……」


 ジャックは言葉を詰まらせた。


「あんなことをした俺が、殿下の支援を受け続ける資格なんて――」

「認めん」


 今度は、迷いのない即答だった。


「それで、バンディと同じだとでも思ったのか」


 ジャックは、息を詰めた。


「描けぬことと、私の金を娼館で使うことを一緒にするな」


 その言葉が、耳に染みた。


「メアリーのことは……」

「それは私ではなく、お前が背負う話だ」


 サージェッツァは、それ以上何も言わなかった。長い説教も、慰めも、なかった。


「支援は続ける」


 皇女は、卓の上の書類へ目を戻した。


「来月も報告に来い。それだけだ」


 ジャックは、その場に立ち尽くした。


 切られなかった。


 だが今度は、あの日のような恐怖ではなかった。



 制作室へ戻る。


 白いキャンバスが、まだそこにあった。


 木炭を手に取る。


 何も浮かばなかった。


 一度、木炭を置いた。


 食事をした。久しぶりに、まともな量を。


 夜は眠った。


 翌日、また制作室へ来た。


 同じことを、繰り返した。


 しっかり食え。ちゃんと寝ろ。


 あの日は素直に受け取れなかった言葉を、今になって、ようやく守っていた。



 ある日。


 白い紙の前に座った。


 あの花のことを、また思い出した。


 渡せなかった、一輪の花。


 もし、あの花を渡せていたら――そこから先を考えかけて、やめた。


 ただ、花を持つメアリーの姿を、自分は一度も見たことがなかった。


 木炭が、動いた。


 最初は、手。

 その手に、一輪の花。

 その向こうに、女性の輪郭。

 線を引いた。


 ――違う。


 手が消し布へ伸びた。


 だが、指が止まった。


 しばらく、紙を見つめた。


 消さなかった。



 その日から、ジャックは何枚も描いた。


 横顔。正面を向いた姿。花を見つめる姿。花を胸元に抱く姿。少し笑っている姿。表情のない姿。


 どれも、完成しなかった。


 それでも、以前とは違った。


 白い紙の前で、線が止まらなかった。



 次の月例報告の日。


 ジャックは、何枚ものラフを卓へ並べた。


 完成作は、一枚もなかった。


 だが今度は、自分から言えた。


「まだ、完成していません」


 サージェッツァは、一枚一枚、黙って手に取った。


「そうか」


 それだけだった。


 一枚を見て、少しだけ手を止めた。


「続けろ」


 あの日と同じ言葉。


 恐怖でしかなかったその一言が、今は違って聞こえた。



 制作室の机には、何枚ものラフスケッチが積まれていた。


 その中に、一枚だけ、少し長く手を入れた絵があった。


 一輪の花を持つ、一人の女性。


 顔の一部は、まだ描き切れていない。背景もない。


 それでも、ジャックは消し布を取らなかった。


 紙の上で、女性は、まだ花を手にしたままだった。

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