第1話 前編 あなたが聞かなかった
サージェッツァ皇女シリーズの三作目です。
今回は、スランプに陥った若い画家と、長く彼を支えてきた恋人のお話です。
少し苦い失恋と、その後の再生を描いています。
前編・後編・後日談の全3話。
よろしくお願いします。
その日、皇女宮の控えの間には、絵の具の匂いが薄く漂っていた。
ジャックは長椅子の端に腰かけ、膝の上の画帳を意味もなく開いたり閉じたりしていた。
月に一度の制作報告。以前は何でもなかったこの日が、今は朝から胃の底を重くする。
完成した作品を、一つも持ってきていないからだ。
順番を待つ間、隣室へ続く扉が半開きになっていることに気づいた。
中から、声が聞こえた。
「裸婦画の勉強のためです」
太い声だった。
扉の隙間から、室内が見えた。
肥満体の若い男が、サージェッツァ皇女の前に立っている。同じ支援を受けている画家の、バンディだった。
皇女は長椅子に脚を組んで座り、その傍らに侍従のドレンが控えている。ドレンの手には、書類の束があった。
「娼館へ通った金も、画布や絵の具と同じ、制作のための出費だと?」
サージェッツァの声は、荒らげられてもいなかった。
「人体を知らずして、人物画は描けません。あれは研究です」
バンディは汗を拭きながら、繰り返した。
ジャックは、見てはいけないものだと分かっていた。
それでも、目を逸らせなかった。
「それで」
サージェッツァが、静かに尋ねた。
「研究の成果はどこにある」
「……は?」
「習作でも構わん。裸婦のクロッキーの一枚でも、人体の素描の一束でもいい。研究したのだろう。見せてみろ」
バンディの口が、開いたまま止まった。
「これから、描くつもりで――」
「ずいぶん長いあいだ、そのつもりだったようだな」
サージェッツァが顎で示すと、ドレンが手元の書類を一枚、卓の上へ置いた。
バンディの顔から、汗が滴った。
「ならば、これからは自分の金で研究しろ」
サージェッツァは、脚を組み替えた。
「支援は今日で終わりだ。二度と私の名を使うことは許さん」
「殿下……! お待ちください、私には才能が――」
「才能の話はしていない」
皇女の声は、最後まで平坦だった。
「私は、お前へ預けた金の話をしている」
ドレンが進み出て、退室を促した。
バンディは何かを言いかけ、結局、何も言えないまま扉へ向かった。
ジャックは慌てて画帳へ目を落としたが、遅かった。
控えの間へ出てきたバンディと、目が合った。
バンディは、しばらくジャックを見下ろしていた。それから、太い指で額の汗を拭い、吐き捨てた。
「……芸術を理解していると思っていたが、結局は皇族だ」
ジャックは、何も返せなかった。
バンディの足音が遠ざかっていく。
自分は、娼館へ通ってなどいない。受け取った金は、画材と制作に必要なものにしか使っていない。
あの男とは違う。
そう思おうとした。
だが、胸の奥で、別の声がした。
――バンディは、金を使って遊んだ。
――お前は、金を受け取って、何もしていない。
「次、ジャック」
扉のところから、ドレンが呼んだ。
膝の上の画帳が、急に重くなった気がした。
室内へ入ると、絨毯にはまだ、先ほどまでバンディが立っていた跡が残っているように見えた。
卓の上へ、持参したものを並べる。
途中で止まった素描。何度も引き直した構図案。線だけの人物。どれも途中で、どれも完成していない。
サージェッツァは何枚かを手に取り、黙って目を通した。
紙のこすれる音だけが、部屋に落ちていた。
「今月も、完成はなしか」
「……はい」
喉が鳴った。
言い訳を用意していたはずだった。構図の検討に時間をかけている、次の連作の方向を探している、そのための素描だと。
どれも、口から出なかった。
サージェッツァは素描を卓へ戻すと、アズライトの瞳をこちらへ向けた。
ジャックは、身体を固くした。
――ならば、これからは自分の金で研究しろ。
その言葉が、来る。
「分かった。続けろ」
それだけだった。
皇女はもう次の書類へ手を伸ばしている。ドレンが退室を促すように、扉のほうへ半歩下がった。
ジャックは素描をかき集め、頭を下げて部屋を出た。
廊下へ出てから、ようやく息を吐いた。
切られなかった。
だが、安堵はどこからも来なかった。
バンディは、その場で切られた。
自分は、切られなかった。
――今月は。
次の報告までに何も描けなければ、次はどうなる。
あの卓の上に、また未完成の紙束だけを並べるのか。
ジャックは、画帳を抱え直した。
◇
制作室へ戻ると、白いキャンバスが待っていた。
新しい作品のために、半月前に張ったキャンバスだった。
半月前から、白いままだった。
ジャックは椅子へ座り、木炭を取った。
以前は、白い面を見れば、そこへ置くべきものが自然に見えた。光の入る角度。人物の立つ位置。色の重なり。見えたものを、手が追いかけるだけでよかった。
今は、何も見えない。
下描き用の紙へ、線を引いた。
女性の立ち姿のつもりだった。肩の線が、途中で嘘になった。消した。
もう一度引いた。今度は構図ごと嘘だった。消した。
紙の表面だけが、黒く汚れていく。
支援は今日で終わりだ。二度と私の名を使うことは許さん。
バンディへ向けられた言葉が、耳の奥で繰り返された。
あの言葉が、いつか自分へ向く。
根拠もなく、そう確信していた。以前評価された連作以来、長いあいだ完成作を出せていない。
新進気鋭。若手の有望株。次代を担う画家。
どの言葉も、今は借金の証文のように感じられた。
夕方まで粘った。
木炭は短くなり、消し布は真っ黒になり、キャンバスは白いままだった。
◇
家へ帰ると、灯りと、スープの匂いがあった。
「おかえりなさい」
金色の髪を後ろでまとめたメアリーが、鍋から顔を上げた。
碧い目が、こちらの表情をひと目で察したようだった。それでも彼女は何も聞かず、皿を並べた。
「先に着替えてきたら?」
「ああ……いや、このままでいい」
ジャックは椅子へ座り込んだ。
メアリーの指先に、小さな傷が増えていた。針子の仕事の傷だ。食堂の給仕もこなし、彼女は彼女で朝から晩まで働いている。
そのことに、気づいてはいた。
気づいていながら、今日も自分は、彼女の淹れた茶を黙って飲んでいる。
スープを半分ほど口にした頃、メアリーが向かいに座った。
少し、ためらう間があった。
「ねえ、ジャック。父さんのことで、少し相談したいことがあるの」
手元に、畳まれた紙があった。手紙のようだった。
ジャックは、匙を止めた。
父親。故郷にいる、メアリーの父親。
話は、たぶん短くない。
そして今の自分の頭には、白いキャンバスと、バンディの背中しかない。
「悪い。今日はやめてくれ」
「でも――」
「明日にしてくれないか。今日は何も描けなかったんだ」
言ってから、声が思ったより硬かったことに気づいた。
メアリーは、口を閉じた。
畳まれた手紙が、そのままエプロンのポケットへ戻っていく。
「……分かった」
その声が静かすぎて、ジャックはようやく、皿から顔を上げた。
メアリーは笑おうとしていた。うまくいっていなかった。
「悪い」
ジャックは言った。
「落ち着いたら、ちゃんと聞くから」
「うん」
メアリーはうなずいて、席を立った。
落ち着いたら。
それがいつなのか、ジャックは自分でも知らなかった。
◇
それから数日、同じようなことが繰り返された。
メアリーが夕食の時間を尋ねた。ジャックは「描けたら戻る」とだけ答えて、結局深夜に帰った。冷めた食事が、布を掛けられて待っていた。
メアリーが、画材の脇に置きっぱなしの汚れた皿を下げようとした。ジャックは「触らないでくれ」と、自分でも驚くほど尖った声を出した。皿は画材ではなかった。ただの、昨日から置きっぱなしの皿だった。
メアリーが何か話しかけた。ジャックは「今は考えを途切れさせたくない」と遮った。キャンバスは白いままだった。途切れるような考えなど、最初からなかった。
言いすぎたと、そのたびに思った。
謝ろうと、そのたびに思った。
描けたら謝ろう。何か一枚でも形になったら、そうしたら、ちゃんと向き合って――。
謝罪までもが、後回しになった。
メアリーが自分から話しかけてくる回数は、少しずつ減っていった。
ジャックはそれを、静かになったとしか感じなかった。
彼女が仕事へ出て、帰ってきて、その間にどこで何を考えているのか。
考えもしなかった。
夜、寝床で背を向け合ったまま、メアリーが小さく息を吐くのが聞こえた。
疲れているんだな、と思った。
俺が不機嫌だから、あいつも塞いでいるんだな、と思った。
それ以上は、考えなかった。
◇
その数日の間の、ある日だった。
皇女宮の廊下で、ジャックは呼び止められた。
「ジャック」
振り返ると、サージェッツァが歩いてくるところだった。
供はドレン一人。書類の束を抱えた侍従は、少し離れて足を止めた。
ジャックの背筋が、勝手に伸びた。
「顔色が悪いな。きちんと食っているか?」
来た、と思った。
バンディの顔が浮かんだ。汗を拭う太い指。支援は今日で終わりだ。二度と私の名を使うことは許さん。
前置きだ。これは、その前置きだ。
「次の作品は、必ず仕上げます」
声が上ずった。
サージェッツァが、片眉を上げた。
「何の話だ?」
「……支援の、件では」
「私は飯を食っているかと聞いた」
ジャックは、言葉に詰まった。
サージェッツァは、しばらくこちらを眺めていた。アズライトの瞳が何を見ているのか、ジャックには分からなかった。
やがて皇女は、短く言った。
「倒れて私の床を汚すな。しっかり食え。ちゃんと寝ろ」
それだけ言うと、もう歩き出していた。
ドレンが会釈をして続く。二人の足音が廊下の先へ消えていった。
ジャックはその場に立ち尽くした。
しっかり食え。ちゃんと寝ろ。
言葉だけなら、気遣われたようにも聞こえる。
それなのに、安堵はどこからも来なかった。
――今日は言われなかっただけだ。
――処分を、保留されただけだ。
制作室へ戻り、木炭を握った。
今日こそ描かなければ、と思った。
思えば思うほど、線は形にならなかった。
日が落ちる頃、手の中で木炭が折れた。
短くなった欠片を、ジャックはしばらく見下ろしていた。
それから、上着を掴んで部屋を出た。
◇
家の灯りは、ついていた。
扉を開けると、メアリーは食卓のそばに座っていた。
針仕事をしていなかった。台所で動いてもいなかった。ただ、座って、待っていた。
表情が暗いことには、気づいた。
部屋の隅の様子がいつもと違うことには、気づかなかった。ジャックの頭は、折れた木炭と、皇女の視線のことでいっぱいだった。
「食事、温め直す?」
「いらない」
「今日も、ほとんど食べていないでしょう」
「今は放っておいてくれ」
メアリーが、黙った。
その沈黙が、ジャックの神経を逆撫でした。誰も何も言っていないのに、部屋中の空気が自分を責めている気がした。
「君まで、俺を責めるのか」
「責めていないわ」
「なら、そんな顔をしないでくれ」
メアリーは、膝の上で手を重ねた。
しばらくの間、置き時計の音だけがした。
「私は、いつまで待てばいいの?」
静かな声だった。
ジャックは、意味を測りかねた。
何を待つ。絵の完成をか。スランプの終わりをか。以前の自分に戻るのをか。
「もう少しだ。今度こそ描ける」
「絵の話をしているんじゃないの」
初めて、メアリーの声に硬いものが混じった。
ジャックの中で、苛立ちがまた別の形へ膨らんだ。
「結局、俺が描けなくなったから嫌になったんだろ」
「違う!」
メアリーが立ち上がった。
彼女が声を荒らげるのを、ジャックは初めて聞いた。
「どうしてあなたは、いつも自分のことしか見ないの!」
「君に何が分かるんだ。俺がどれだけ――」
「分かろうとしてきたわよ!」
碧い目に、涙が溜まっていた。
それでも、ジャックの口は止まらなかった。
「俺が描けるようになるまでくらい、黙って支えてくれればいいだろ」
部屋が、静まり返った。
メアリーの顔から、表情が消えた。
乾いた音が響いたのは、その直後だった。
頬が、熱かった。
メアリーの右手が、宙で震えていた。
彼女自身も、自分のしたことを信じられないように、その手を見ていた。
ジャックは、ただ、立ち尽くしていた。
打たれた頬の熱よりも、自分の口から出た言葉のほうが、遅れて胸に刺さっていた。
黙って支えてくれればいい。
まだ何者でもなかった頃から、彼女がしてきたことの全部を、俺は今、そう呼んだのか。
「……ごめんなさい」
メアリーが、小さく言った。
手は、まだ震えていた。
それから彼女は、ゆっくりと息を吐いた。
先ほどまでの激しさが、噓のように引いていった。碧い目には涙が残ったまま、声だけが、静かに戻った。
「でも、もう無理なの」
メアリーは、まっすぐにジャックを見た。
「私たち、別れましょう」
ジャックは、言葉を失った。
喧嘩の勢いだ、と思おうとした。頭が冷えれば、明日になれば――。
メアリーが涙を拭い、足元へ手を伸ばした。
そこに、鞄があった。
ジャックは、初めて部屋を見た。
彼女は外出用の服に着替えていた。金色の髪も、いつもの簡単なまとめ方ではなく、外へ出られるようきちんと整えられていた。椅子の背には外套が掛かっていた。部屋の隅にあったはずの彼女の衣類が、棚から消えていた。針仕事の道具箱も、窓辺の小物も、なくなっていた。
鞄は荷物で膨らみ、口まできちんと閉じられていた。
今夜の喧嘩で決めたのではなかった。
彼女は、ジャックが帰ってくる前から、出ていくつもりだった。
そのうえで、黙って消えることをせず、ここに座って、待っていたのだ。
「……いつから、出ていくつもりだったんだ」
声が、掠れた。
「今日決めたんじゃないわ」
メアリーは、鞄の持ち手を握った。
ジャックの中で、混乱と恐怖が入り混じった。
「だったら……何で何も言ってくれなかったんだよ!」
「話そうとしたわ」
即答だった。
ジャックは、詰まった。
メアリーは、泣きながら、それでも声を荒らげなかった。
「何度も、あなたに話を聞いてほしかった。でも、あなたが聞かなかったのよ」
――父さんのことで、少し相談したいことがあるの。
あの夜の声が、突然、耳の奥で蘇った。
畳まれていた手紙。エプロンのポケットへ戻っていった白い紙。笑おうとして、笑えていなかった顔。
俺は、あの話が何だったのか、知らない。
今も、知らない。
一度も、聞かなかったからだ。
言い返す言葉は、どこにもなかった。
言い返せないことが、その夜のジャックには、耐えられなかった。
これ以上この部屋にいたら、自分が何なのかを、正面から見なければならなくなる。
「……勝手にしろ」
自分の声が、他人のもののように聞こえた。
ジャックは背を向け、扉を開け、夜の中へ出た。
◇
打たれた頬を、冷えた空気が撫でた。
それでも、熱はまだ引かなかった。
ジャックは早足で歩いた。どこへ向かうのかも決めずに、ただ家から離れる方向へ。
何が勝手にしろだ。
数歩も行かないうちに、その言葉が腹の底から込み上げてきた。
勝手にしろ? 別れたくないのは、俺のほうじゃないか。
足が、止まった。
振り返るつもりはなかった。
それでも、肩越しに、振り返った。
家の扉は、開いたままだった。
漏れる灯りの中に、メアリーが立っていた。
金色の髪。碧い目。
メアリーは、泣いていた。
声も立てず、追いかけもせず、ただ、涙を流して立っていた。
鞄は、その手に提げられていた。
戻れ。
今なら間に合う。走って戻って、頭を下げて、話を聞けばいい。父親のことも、手紙のことも、全部――。
足は、動かなかった。
戻ってどの面で謝るのか。
黙って支えろと言った口で、何を話すのか。
ジャックは前を向いて、夜の通りを歩き出した。
背後の灯りが少しずつ遠ざかる。
やがて角を曲がると、その灯りも見えなくなった。




