表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
1/3

第1話 前編 あなたが聞かなかった

サージェッツァ皇女シリーズの三作目です。

今回は、スランプに陥った若い画家と、長く彼を支えてきた恋人のお話です。

少し苦い失恋と、その後の再生を描いています。

前編・後編・後日談の全3話。

よろしくお願いします。

 その日、皇女宮の控えの間には、絵の具の匂いが薄く漂っていた。


 ジャックは長椅子の端に腰かけ、膝の上の画帳を意味もなく開いたり閉じたりしていた。


 月に一度の制作報告。以前は何でもなかったこの日が、今は朝から胃の底を重くする。


 完成した作品を、一つも持ってきていないからだ。


 順番を待つ間、隣室へ続く扉が半開きになっていることに気づいた。


 中から、声が聞こえた。


「裸婦画の勉強のためです」


 太い声だった。


 扉の隙間から、室内が見えた。


 肥満体の若い男が、サージェッツァ皇女の前に立っている。同じ支援を受けている画家の、バンディだった。


 皇女は長椅子に脚を組んで座り、その傍らに侍従のドレンが控えている。ドレンの手には、書類の束があった。


「娼館へ通った金も、画布や絵の具と同じ、制作のための出費だと?」


 サージェッツァの声は、荒らげられてもいなかった。


「人体を知らずして、人物画は描けません。あれは研究です」


 バンディは汗を拭きながら、繰り返した。


 ジャックは、見てはいけないものだと分かっていた。


 それでも、目を逸らせなかった。


「それで」


 サージェッツァが、静かに尋ねた。


「研究の成果はどこにある」

「……は?」

「習作でも構わん。裸婦のクロッキーの一枚でも、人体の素描の一束でもいい。研究したのだろう。見せてみろ」


 バンディの口が、開いたまま止まった。


「これから、描くつもりで――」

「ずいぶん長いあいだ、そのつもりだったようだな」


 サージェッツァが顎で示すと、ドレンが手元の書類を一枚、卓の上へ置いた。


 バンディの顔から、汗が滴った。


「ならば、これからは自分の金で研究しろ」


 サージェッツァは、脚を組み替えた。


「支援は今日で終わりだ。二度と私の名を使うことは許さん」

「殿下……! お待ちください、私には才能が――」

「才能の話はしていない」


 皇女の声は、最後まで平坦だった。


「私は、お前へ預けた金の話をしている」


 ドレンが進み出て、退室を促した。


 バンディは何かを言いかけ、結局、何も言えないまま扉へ向かった。


 ジャックは慌てて画帳へ目を落としたが、遅かった。


 控えの間へ出てきたバンディと、目が合った。


 バンディは、しばらくジャックを見下ろしていた。それから、太い指で額の汗を拭い、吐き捨てた。


「……芸術を理解していると思っていたが、結局は皇族だ」


 ジャックは、何も返せなかった。


 バンディの足音が遠ざかっていく。


 自分は、娼館へ通ってなどいない。受け取った金は、画材と制作に必要なものにしか使っていない。


 あの男とは違う。

 そう思おうとした。


 だが、胸の奥で、別の声がした。


 ――バンディは、金を使って遊んだ。

 ――お前は、金を受け取って、何もしていない。


「次、ジャック」


 扉のところから、ドレンが呼んだ。


 膝の上の画帳が、急に重くなった気がした。


 室内へ入ると、絨毯にはまだ、先ほどまでバンディが立っていた跡が残っているように見えた。


 卓の上へ、持参したものを並べる。


 途中で止まった素描。何度も引き直した構図案。線だけの人物。どれも途中で、どれも完成していない。


 サージェッツァは何枚かを手に取り、黙って目を通した。

 紙のこすれる音だけが、部屋に落ちていた。


「今月も、完成はなしか」

「……はい」


 喉が鳴った。


 言い訳を用意していたはずだった。構図の検討に時間をかけている、次の連作の方向を探している、そのための素描だと。


 どれも、口から出なかった。


 サージェッツァは素描を卓へ戻すと、アズライトの瞳をこちらへ向けた。


 ジャックは、身体を固くした。


 ――ならば、これからは自分の金で研究しろ。


 その言葉が、来る。


「分かった。続けろ」


 それだけだった。


 皇女はもう次の書類へ手を伸ばしている。ドレンが退室を促すように、扉のほうへ半歩下がった。


 ジャックは素描をかき集め、頭を下げて部屋を出た。


 廊下へ出てから、ようやく息を吐いた。


 切られなかった。


 だが、安堵はどこからも来なかった。


 バンディは、その場で切られた。

 自分は、切られなかった。


 ――今月は。


 次の報告までに何も描けなければ、次はどうなる。


 あの卓の上に、また未完成の紙束だけを並べるのか。


 ジャックは、画帳を抱え直した。



 制作室へ戻ると、白いキャンバスが待っていた。


 新しい作品のために、半月前に張ったキャンバスだった。


 半月前から、白いままだった。


 ジャックは椅子へ座り、木炭を取った。


 以前は、白い面を見れば、そこへ置くべきものが自然に見えた。光の入る角度。人物の立つ位置。色の重なり。見えたものを、手が追いかけるだけでよかった。


 今は、何も見えない。


 下描き用の紙へ、線を引いた。


 女性の立ち姿のつもりだった。肩の線が、途中で嘘になった。消した。


 もう一度引いた。今度は構図ごと嘘だった。消した。


 紙の表面だけが、黒く汚れていく。


 支援は今日で終わりだ。二度と私の名を使うことは許さん。


 バンディへ向けられた言葉が、耳の奥で繰り返された。


 あの言葉が、いつか自分へ向く。


 根拠もなく、そう確信していた。以前評価された連作以来、長いあいだ完成作を出せていない。


 新進気鋭。若手の有望株。次代を担う画家。


 どの言葉も、今は借金の証文のように感じられた。


 夕方まで粘った。


 木炭は短くなり、消し布は真っ黒になり、キャンバスは白いままだった。



 家へ帰ると、灯りと、スープの匂いがあった。


「おかえりなさい」


 金色の髪を後ろでまとめたメアリーが、鍋から顔を上げた。


 碧い目が、こちらの表情をひと目で察したようだった。それでも彼女は何も聞かず、皿を並べた。


「先に着替えてきたら?」

「ああ……いや、このままでいい」


 ジャックは椅子へ座り込んだ。


 メアリーの指先に、小さな傷が増えていた。針子の仕事の傷だ。食堂の給仕もこなし、彼女は彼女で朝から晩まで働いている。


 そのことに、気づいてはいた。


 気づいていながら、今日も自分は、彼女の淹れた茶を黙って飲んでいる。


 スープを半分ほど口にした頃、メアリーが向かいに座った。


 少し、ためらう間があった。


「ねえ、ジャック。父さんのことで、少し相談したいことがあるの」


 手元に、畳まれた紙があった。手紙のようだった。


 ジャックは、匙を止めた。


 父親。故郷にいる、メアリーの父親。


 話は、たぶん短くない。


 そして今の自分の頭には、白いキャンバスと、バンディの背中しかない。


「悪い。今日はやめてくれ」

「でも――」

「明日にしてくれないか。今日は何も描けなかったんだ」


 言ってから、声が思ったより硬かったことに気づいた。


 メアリーは、口を閉じた。


 畳まれた手紙が、そのままエプロンのポケットへ戻っていく。


「……分かった」


 その声が静かすぎて、ジャックはようやく、皿から顔を上げた。


 メアリーは笑おうとしていた。うまくいっていなかった。


「悪い」


 ジャックは言った。


「落ち着いたら、ちゃんと聞くから」

「うん」


 メアリーはうなずいて、席を立った。


 落ち着いたら。


 それがいつなのか、ジャックは自分でも知らなかった。



 それから数日、同じようなことが繰り返された。


 メアリーが夕食の時間を尋ねた。ジャックは「描けたら戻る」とだけ答えて、結局深夜に帰った。冷めた食事が、布を掛けられて待っていた。


 メアリーが、画材の脇に置きっぱなしの汚れた皿を下げようとした。ジャックは「触らないでくれ」と、自分でも驚くほど尖った声を出した。皿は画材ではなかった。ただの、昨日から置きっぱなしの皿だった。


 メアリーが何か話しかけた。ジャックは「今は考えを途切れさせたくない」と遮った。キャンバスは白いままだった。途切れるような考えなど、最初からなかった。


 言いすぎたと、そのたびに思った。

 謝ろうと、そのたびに思った。


 描けたら謝ろう。何か一枚でも形になったら、そうしたら、ちゃんと向き合って――。


 謝罪までもが、後回しになった。


 メアリーが自分から話しかけてくる回数は、少しずつ減っていった。


 ジャックはそれを、静かになったとしか感じなかった。


 彼女が仕事へ出て、帰ってきて、その間にどこで何を考えているのか。


 考えもしなかった。


 夜、寝床で背を向け合ったまま、メアリーが小さく息を吐くのが聞こえた。


 疲れているんだな、と思った。


 俺が不機嫌だから、あいつも塞いでいるんだな、と思った。


 それ以上は、考えなかった。



 その数日の間の、ある日だった。


 皇女宮の廊下で、ジャックは呼び止められた。


「ジャック」


 振り返ると、サージェッツァが歩いてくるところだった。


 供はドレン一人。書類の束を抱えた侍従は、少し離れて足を止めた。


 ジャックの背筋が、勝手に伸びた。


「顔色が悪いな。きちんと食っているか?」


 来た、と思った。


 バンディの顔が浮かんだ。汗を拭う太い指。支援は今日で終わりだ。二度と私の名を使うことは許さん。


 前置きだ。これは、その前置きだ。


「次の作品は、必ず仕上げます」


 声が上ずった。


 サージェッツァが、片眉を上げた。


「何の話だ?」

「……支援の、件では」

「私は飯を食っているかと聞いた」


 ジャックは、言葉に詰まった。


 サージェッツァは、しばらくこちらを眺めていた。アズライトの瞳が何を見ているのか、ジャックには分からなかった。


 やがて皇女は、短く言った。


「倒れて私の床を汚すな。しっかり食え。ちゃんと寝ろ」


 それだけ言うと、もう歩き出していた。


 ドレンが会釈をして続く。二人の足音が廊下の先へ消えていった。


 ジャックはその場に立ち尽くした。


 しっかり食え。ちゃんと寝ろ。

 言葉だけなら、気遣われたようにも聞こえる。

 それなのに、安堵はどこからも来なかった。


 ――今日は言われなかっただけだ。

 ――処分を、保留されただけだ。


 制作室へ戻り、木炭を握った。


 今日こそ描かなければ、と思った。

 思えば思うほど、線は形にならなかった。


 日が落ちる頃、手の中で木炭が折れた。


 短くなった欠片を、ジャックはしばらく見下ろしていた。


 それから、上着を掴んで部屋を出た。



 家の灯りは、ついていた。


 扉を開けると、メアリーは食卓のそばに座っていた。


 針仕事をしていなかった。台所で動いてもいなかった。ただ、座って、待っていた。


 表情が暗いことには、気づいた。


 部屋の隅の様子がいつもと違うことには、気づかなかった。ジャックの頭は、折れた木炭と、皇女の視線のことでいっぱいだった。


「食事、温め直す?」

「いらない」

「今日も、ほとんど食べていないでしょう」

「今は放っておいてくれ」


 メアリーが、黙った。


 その沈黙が、ジャックの神経を逆撫でした。誰も何も言っていないのに、部屋中の空気が自分を責めている気がした。


「君まで、俺を責めるのか」

「責めていないわ」

「なら、そんな顔をしないでくれ」


 メアリーは、膝の上で手を重ねた。


 しばらくの間、置き時計の音だけがした。


「私は、いつまで待てばいいの?」


 静かな声だった。


 ジャックは、意味を測りかねた。


 何を待つ。絵の完成をか。スランプの終わりをか。以前の自分に戻るのをか。


「もう少しだ。今度こそ描ける」

「絵の話をしているんじゃないの」


 初めて、メアリーの声に硬いものが混じった。


 ジャックの中で、苛立ちがまた別の形へ膨らんだ。


「結局、俺が描けなくなったから嫌になったんだろ」

「違う!」


 メアリーが立ち上がった。


 彼女が声を荒らげるのを、ジャックは初めて聞いた。


「どうしてあなたは、いつも自分のことしか見ないの!」

「君に何が分かるんだ。俺がどれだけ――」

「分かろうとしてきたわよ!」


 碧い目に、涙が溜まっていた。

 それでも、ジャックの口は止まらなかった。


「俺が描けるようになるまでくらい、黙って支えてくれればいいだろ」


 部屋が、静まり返った。


 メアリーの顔から、表情が消えた。


 乾いた音が響いたのは、その直後だった。


 頬が、熱かった。


 メアリーの右手が、宙で震えていた。


 彼女自身も、自分のしたことを信じられないように、その手を見ていた。


 ジャックは、ただ、立ち尽くしていた。


 打たれた頬の熱よりも、自分の口から出た言葉のほうが、遅れて胸に刺さっていた。


 黙って支えてくれればいい。


 まだ何者でもなかった頃から、彼女がしてきたことの全部を、俺は今、そう呼んだのか。


「……ごめんなさい」


 メアリーが、小さく言った。


 手は、まだ震えていた。


 それから彼女は、ゆっくりと息を吐いた。


 先ほどまでの激しさが、噓のように引いていった。碧い目には涙が残ったまま、声だけが、静かに戻った。


「でも、もう無理なの」


 メアリーは、まっすぐにジャックを見た。


「私たち、別れましょう」


 ジャックは、言葉を失った。


 喧嘩の勢いだ、と思おうとした。頭が冷えれば、明日になれば――。


 メアリーが涙を拭い、足元へ手を伸ばした。


 そこに、鞄があった。


 ジャックは、初めて部屋を見た。


 彼女は外出用の服に着替えていた。金色の髪も、いつもの簡単なまとめ方ではなく、外へ出られるようきちんと整えられていた。椅子の背には外套が掛かっていた。部屋の隅にあったはずの彼女の衣類が、棚から消えていた。針仕事の道具箱も、窓辺の小物も、なくなっていた。


 鞄は荷物で膨らみ、口まできちんと閉じられていた。


 今夜の喧嘩で決めたのではなかった。


 彼女は、ジャックが帰ってくる前から、出ていくつもりだった。


 そのうえで、黙って消えることをせず、ここに座って、待っていたのだ。


「……いつから、出ていくつもりだったんだ」


 声が、掠れた。


「今日決めたんじゃないわ」


 メアリーは、鞄の持ち手を握った。


 ジャックの中で、混乱と恐怖が入り混じった。


「だったら……何で何も言ってくれなかったんだよ!」

「話そうとしたわ」


 即答だった。


 ジャックは、詰まった。


 メアリーは、泣きながら、それでも声を荒らげなかった。


「何度も、あなたに話を聞いてほしかった。でも、あなたが聞かなかったのよ」


 ――父さんのことで、少し相談したいことがあるの。


 あの夜の声が、突然、耳の奥で蘇った。


 畳まれていた手紙。エプロンのポケットへ戻っていった白い紙。笑おうとして、笑えていなかった顔。


 俺は、あの話が何だったのか、知らない。


 今も、知らない。


 一度も、聞かなかったからだ。


 言い返す言葉は、どこにもなかった。


 言い返せないことが、その夜のジャックには、耐えられなかった。


 これ以上この部屋にいたら、自分が何なのかを、正面から見なければならなくなる。


「……勝手にしろ」


 自分の声が、他人のもののように聞こえた。


 ジャックは背を向け、扉を開け、夜の中へ出た。



 打たれた頬を、冷えた空気が撫でた。


 それでも、熱はまだ引かなかった。


 ジャックは早足で歩いた。どこへ向かうのかも決めずに、ただ家から離れる方向へ。


 何が勝手にしろだ。


 数歩も行かないうちに、その言葉が腹の底から込み上げてきた。


 勝手にしろ? 別れたくないのは、俺のほうじゃないか。


 足が、止まった。


 振り返るつもりはなかった。


 それでも、肩越しに、振り返った。


 家の扉は、開いたままだった。


 漏れる灯りの中に、メアリーが立っていた。


 金色の髪。碧い目。


 メアリーは、泣いていた。


 声も立てず、追いかけもせず、ただ、涙を流して立っていた。


 鞄は、その手に提げられていた。


 戻れ。

 今なら間に合う。走って戻って、頭を下げて、話を聞けばいい。父親のことも、手紙のことも、全部――。


 足は、動かなかった。


 戻ってどの面で謝るのか。

 黙って支えろと言った口で、何を話すのか。


 ジャックは前を向いて、夜の通りを歩き出した。


 背後の灯りが少しずつ遠ざかる。


 やがて角を曲がると、その灯りも見えなくなった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ