放課後の黒板消しと、消えたギャル語
キーンコーンカーンコーン。
ホームルームの終わりを告げるチャイムが鳴り、クラスメイトたちが次々と教室を後にする。部活へ向かう者、駅前のカフェへと繰り出すギャル仲間たち。
いつもなら私もその中にいるはずだった。
「じゃあね結愛ー、日直がんば〜」
「う、うん……ばいばーい……」
引き止めるような目で私を見てくるサクラたちに手を振り、私はガタガタと震える膝を必死に押さえた。
そう、今日はよりによって、航太と私がペアを組む『日直』の日なのだ。
夕暮れ時の教室。オレンジ色の西日があの男と私の机を照らしている。
……静かだ。
さっきまでにぎやかだった教室が嘘みたいに静まり返っていて、航太が荷物を整理するガサガサという音だけがやけに大きく響く。
「じゃあ、星野。俺、提出物まとめておくから、黒板消しお願いしていい?」
「あ、うんオッケー! 任せといて!」
いつものギャルのノリで元気よく返事をして、私は逃げるように黒板の前へと向かった。
航太の視線から離れられたことにホッと胸をなでおろし、黒板消しを手に取る。
「ふんっ……ぬんっ……!」
チョークの粉を落としながら、ガシガシと黒板を消していく。
半分より下は余裕だ。だけど、問題は先生が上のほうに書いた、漢文の小テストの跡だった。
私の身長は、ギャルグループの中でも低め。
背伸びをして、右手を限界まで伸ばしてみるものの、黒板消しはあと数十センチのところで虚しく空を切る。
「う、うそ……届かないんだけど……」
ぴょんぴょんと小さく跳ねてみるが、粉が顔に降ってきそうになるだけで上手くいかない。
「ウチ、ギャルなのにダサすぎ!」と1人で焦っていると、背後から不意に、床を蹴る上履きの音が近づいてきた。
「星野、無理すんなって」
「えっーー」
振り返ろうとした、その瞬間だった。
すっと、私の背後から影が差した。
気づいた時には、航太が私のすぐ真後ろに立っていた。
「貸して。俺が消すから」
航太の長い腕が、私の耳のすぐ横をすり抜けるようにして、前へと伸びる。
そのまま、私の手から黒板消しがひょいと奪われた。
(え、待っ……近っっっっっ!?!?!?)
私の背中と、航太の胸板の距離、わずか数センチ。
というか、私が少しでも後ろに重心を傾けたら、完全に彼の胸の中に収まってしまう。航太が腕を動かして黒板の上を消すたびに、彼の体温がブレザー越しにダイレクトに伝わってくる。
背後から包み込まれているような、完全なバックハグの一歩手前。
夕暮れの静かな教室で、航太の「生」の吐息が、私のつむじのあたりに優しくかかる。
「(む、無理無理無理無理!! ウチの心臓、今ギネス記録更新するくらい爆速で動いてるんだけど!!)」
逃げようにも、左右は航太の身体と腕で塞がれている。
いつもみたいに「ウケるー!」と笑い飛ばす余裕なんて、1ミリも残っていなかった。
黒板の上のほうを消しながら、俺はあえて、胸の前にいる星野の様子をじっと伺っていた。
これまでは逃げられてばかりだったけど、今の距離なら彼女の反応がよく分かる。
案の定、星野は完全にフリーズしていた。
それどころか、小さな肩が小刻みにぷるぷると震えている。
上から覗き込むと、彼女のトレードマークである明るい茶髪の隙間から、耳の裏がこれ以上ないくらい真っ赤に染まっているのが見えた。
いつもはクラスの中心で楽しそうに笑っている一軍ギャルが、俺の腕の中で、借りてきた猫のように小さくなっている。
その事実が、俺の胸の奥にある独占欲のようなものを、少しだけ刺激した。
わざと、ゆっくりと黒板を消し終える。
だけど、俺はすぐには後ろに引かなかった。顔を少しだけ下げて、彼女の耳元に声を落とす。
「……星野、これで全部消えた?」
「あわわわ、あう……」
星野の口から、聞いたこともないような小さな、可愛い声が漏れた。
いつも使い慣れているはずのギャル語は、どこかへ完全に吹き飛んでしまったらしい。
星野はぎゅっと両目を瞑り、ブレザーの裾を小さな手で握りしめながら、蚊の鳴くような声で呟いた。
「あ、ありがと……ございます……」
「ーーっ」
まさかの丁寧語。しかも、完全に素の、ただの純情な女の子の声だった。
からかうつもりだったのに、その破壊力抜群のギャップに、今度は俺のほうが心臓を激しく撃ち抜かれた。やばい、調子に乗りすぎた。
その時、限界を迎えた星野が、ロボットのような動きで俺の腕の下をすり抜けた。
「う、ウチ! 日誌!! 日直の日誌チェックしてくるからーーーっっっ!!!」
小さな体を弾けさせ、猛烈な勢いで教卓へとダッシュしていく星野。
逃げ場のない教室で、必死にひねり出した口実が『日誌の確認』だったらしい。彼女は教卓の椅子に飛び乗るように座ると、開かれていた日誌のノートにガバッと覆いかぶさった。
「あ、おい、星野……」
俺が声をかけるが、星野は耳まで真っ赤にしたまま「聞いてない見えない!」とばかりに日誌に顔を近づけている。
だけど、俺は知っている。
彼女がお昼休みのうちから「ウチ、日誌書いとくわー」と、熱心にペンを動かしていたことを。そして、俺に話しかけられるたびに、ビクビクと肩を揺らしていたことを。
ふと気になって、俺は教卓の横まで歩み寄り、星野が隠そうとしている日誌を上から覗き込んだ。
「星野、ちょっと見せて」
「ひゃぅっ!? み、見ないでだし!! まだ未完成だし!!」
慌てて小さな両手で隠そうとするが、手隙から見えたその中身は、悲惨なことになっていた。
『本日の反省点:とくになし(大嘘)』
『本日の連絡事項:佐藤くん、日差しを浴びたお日様みたいな、優しい柔軟剤のようないいにおい(※横線で激しく消してある)』
『明日の予定:さとうくんが、となりのせきで、やばい』
『宿題:むり。キャパい。すきかも(※上から黒塗りで潰してある)』
「……星野、これ」
「ち、違うのーーーーーーっっっ!!!!!(泣)」
今日1日、日直で同じだったせいか、彼女の脳内パニックがそのまま日誌に漏れ出していた。
しかも、恥ずかしさのあまりにギャル文字すら崩壊して、ひらがなだらけの小学生みたいな日記になっている。
「これ、先生に提出できないぞ?」
「うあぁぁぁもう無理ーーーっ!!! 航太のばか! ガチでからかうの禁止だしっ!!!」
小さな手で顔を覆った星野は、今度こそ自分の席へと猛ダッシュし、机に突っ伏して完全にタコのように丸くなってしまった。萌え袖に埋もれた背中が、自己嫌悪で細かく震えている。
夕暮れの教室。
真っ赤な顔で、めちゃくちゃになった日誌を見つめる俺と、机に突っ伏したままピクリとも動かない小柄なギャル。
「……すきかも、って……」
日誌の黒塗りの隙間から見えた文字を思い出し、今度は俺のほうが、心臓のバックバク音を止められなくなっていた。




