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「木下さん、僕は何の健診?」


 僕は木下に連れられて、病院の廊下を歩いていた。病院は午後からの健診でにぎわいを見していた。


「別に…… 」


 木下は僕に多くは語らず、何かを思いつめているのかずっと難しい顔をしている。


「木下さんは僕に怒ってる?」


 僕は木下の表情をうかがいつつ聞いた。


「どうして?」


 木下は僕の質問に驚いたのかキョトンとしている。


「春子が…… あんなことになってしまったから」


 昨日、リハビリ室に倒れていた春子の姿が頭に浮かぶ。一日たった今でも恐ろしくて足がすくみそうだ。


「あれは、あなたの責任ではないわ。私の責任よ」


 木下の表情は平然としていたが、口調にはいつもの柔らかさはなかった。木下にとっても昨日の事は悔やまれる結果になってしまったらしい。


「春子はどうして無理を……」


 僕よりも、生きたいと強く思っていた春子がどうして自分の命を自ら危険にさらすような真似をしたのか…… 僕には春子の行動が理解できなかった。  


「夢があるからよ」


 僕は木下の言葉に思わずえっ、と息を詰まらせた。木下は眉をひそめ、厳しい表情で先を見つめていた。


「あの子はあなたと違ってね。つい一年前までは、元気に外を走り周れるごく普通の女の子だったの」


「一年……」


 僕にとってそれは驚きの数字だった。僕はてっきりずっと前から春子は入院しているものだと思っていた。春子は体が細く、頬もやつれていて目もトロンとして、いつも眠そうな表情をしている。僕は長い間病院にいるから分かるが、人は弱ってくるとみんな大体同じような顔つき、体型になってくる。春子はまさにそれだった。


「けれど、陸上の練習中あの子はトラックの上で倒れた。生まれつき肺が弱かったこともあるのだけど、部活で肺を酷使したせいかあの子の肺は弱り切っていた」


「春子の病気はそんなにも重いものなのか? 一年足らずで…… は、春子は死んでしまうのか?」


 『人はたった一年であそこまで弱ってしまう』という事実に僕は動揺を隠せなかった。


「分からない。病気である限り治る確率は零ではないけど……」


 木下は看護師という立ち場だからか、治る余地に関しては言葉を濁した。治ると言い切りたいのに言い切れない事実があり、きっと木下の頭のなかは理想と現実が葛藤しているのだろう。


「春子の夢って……」


「もう一度、トラックの上に戻ること」


『私、陸上部だったの!』


 明るく、笑顔で陸上のことを語っていた春子を知っている僕にとってはそれは頷ける夢だった。けれど、たぶんその夢は……


「も、もしもだよ。次…… 走ったら春子はどうなるの?」


「—― 死ぬわ」


 病院は賑やかである程度の声量がないと聞こえないはずなのに、木下が静かに言った三文字は僕の内臓の中心部までドーンと届いた。その衝撃は金属バットで頭を殴られたようなものだった。


「そのことを春子は知っているの?」


「た、たぶん…… 病院側からは何も言ってないけどあの子は薄々気づいてる」


 ―― 分かっているのにどうして…… 


 僕には春子が分からなかった。生きたいのに、死ぬと分かっているのに夢を追う…… 僕よりも死にたがりじゃないか。


「あの子の病気は安静にしてたら死ぬような病気ではないの。だから、明久君には春子を止めてほしい!」


 木下は僕に対して、頭を下げた。僕はこの日、初めて本気の願いを聞いたような気がする。僕はそんな木下の気に押しまけてか、その願いに頷いてしまった。後から思うにこの時、木下は僕に決断を委ねたのではないかと思う。木下はまだ迷っていて、もし僕が断れば春子が夢のために死ぬのを止めなかったのではなかろうか。そして、そう考えたときいつも思う。あの時の決断は本当に良かったのかだろうかと……


 ガラッ


 病室のドアを開けると春子はもういつもなら寝ている時間なのに、パジャマ姿に肩からタオルを羽織ってベッド座っていた。


「あら、遅かったじゃない。何の健診?」


「まぁ、なんでもなかったよ。それより、まだ起きてたのかよ。早く寝ないと体に障るぞ」


「まぁ、そうなんだけどね…… 一人で寝るのが怖いというか寂しいというか……」


 春子は肩にかけてあったタオルの端を掴みながら手をゴニョゴニョとしている。


「昨日のことか?」


 僕もベッドに腰を掛ける。部屋の電気を消灯して机の上にあるスタンド型のランプにあかりを灯した。


「うん……そう。倒れるのは何回も経験してるからその慣れたとかじゃないのだけどね、別に怖くはないの。でも、最近さ…… 私弱って来てるのが自分でも分かるようになってきた。それが分かることが怖い」


 春子は肺の部分を抑えながら声を震わしている。


「無理したら体も弱るさ。木下さんも言ってたぞ、春子の病気は安静にしといたら治るって」


「嫌よ」


 僕は軽い気持ちで木下のが言っていたことを伝えたつもりだったが春子の言葉はそんな僕とは裏腹のズシンとした重さがあった。春子は顔色をピクリとも変えず、僕を見つめている。その表情からは死に怯えるというものは感じられず、感じられたのは春子の心に決めた決意の固さだった。


「嫌って…… 死にたくないって言ったのは春子だろ? 少しでも、長生きしたいなら無理をするなよ!」


 僕の声が夜の病院に響く。別に熱があるわけではないのに顔がカッ、カッして熱い。


「何もしないで死ぬ時を待つなんて、死んでるのと一緒よ! 私には生きて叶えたい夢があるの!」


 春子は手を前に置いて、僕の声に負けないぐらいに自分の感情を響かせた。


「だったら、その夢を叶えるために死んでもいいのかよ!」


「それは…… 嫌よ。でも、それでも…… 私はもう一度あのトラックへ立ちたいの! 立って、走りたいのよ!」


 春子は僕の言葉に一瞬顔を曇らせたが春子は一歩も引かなかった。春子との会話が激しくなるにつれて僕の顔がさらにカーと熱くなった。


「もういい! 勝手に夢でも叶えて死んでしまえ!」


 僕は自分の言葉にハっとした。


―― 今、僕は何を口走った? 


 先程までカーとなっていた僕の顔から熱が血の気とともにサーと引いていった。


「は、春子……」


「明久のばか!」


 僕の顔に春子が投げつけたタオルがボスっと当たる。それから、春子は体一杯まで布団をかぶりベッドに伏せた。布団の中から春子の泣きじゃくむ音が漏れてくる。僕はどうすればいいかもわからず、僕は春子の泣きじゃくむ音をずっと聞いていた。そしてこのとき、僕のもう一つの不治の病は末期を迎えたのだった。










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