第11話 わからないんじゃない、ただ書けない
5月最後の土曜日だった。塾の教室は相変わらず涼しく、今日の課題は新しい文章の書き取りテストだった。
前回の書き取りでの南條さんの惨状――誤字だらけになったあの答案用紙は、まるで声のない災害のようだった。だから私はわざわざ時間を取って、特に難しい漢字をいくつか教え、「ちゃんと覚えてね。せめて今回は最後まで書けるように」と何度も念を押した。
小さく頷き、表情は真剣だった。その姿を見て、私は確かに少し安心していた。
「ちゃんと頑張っているんだし、努力すればきっと大丈夫なはず」
そう思っていた。
書き取りの前、いつものように南條さんの隣に座っていた。全員の準備が整うと、彼女がごく小さな声で、一語一語口の形だけで文章をなぞっているのが聞こえてくる。語順は正確で、文の構造も崩れていない。それはほとんど完璧な記憶だった。むしろ、思っていた以上に滑らかだった。
「ちゃんと私の言ったことを聞いてくれたんだ……これなら今回は大丈夫かもしれない」
数分後、書き取りが始まった。紙の上を走るペンの音が教室に静かに響き、その音は細い一本の糸のように、一人ひとりをそれぞれの世界へ引き込んでいく。本当なら人の答案を覗くべきじゃない。それなのに、視線はどうしても彼女の答案へと滑っていってしまった。
そこには誤字や書き漏らしがびっしり並んでいた。単語は入れ替わり、句読点は乱れ、文章は一度ばらばらに砕かれてから無理やり繋ぎ直されたようだった。本来なら一つのまとまった段落であるはずなのに、そこにあるのは崩れた断片と震える筆跡だけだった。文字は歪み、ねじれ、まるで何かに抗っているように見える。それは手が震えているだけではなかった。彼女自身が、その紙そのものに抗っているようだった。
私は息を呑んだ。
そっと横顔を盗み見る。南條さんは唇を噛みしめ、指先に力を込めながらペンを握っていた。視線は落ち着かず、頭の中に浮かんでは消えていく言葉を必死に追いかけているようだった。一画書くたびに手が止まり、呼吸も少し乱れている。その姿から伝わってくるのは、ただ「書けない」という苦しさではなかった。まるで――答えは頭の中にあるのに、何かがその間を隔てているみたいだった。
「ちゃんと覚えているのに……どうして書こうとするとこうなるの?」
緊張ではない。その違和感だけは、はっきりとわかった。彼女は暗唱するとき、あんなにも滑らかだった。あんなにも確信を持っていた。だから、こんな間違い方はおかしい。単なる本番の失敗で片づけられるものじゃなかった。
終わり、教師が答案を返し終えると、またいつもと同じことが起きた。南條さんの名前が呼ばれる。声には、もう失望を隠そうとする気配すらなかった。
「南條さん、これで何回目? こんな文章もまともに書けないの? 本当に復習したの?」
教室が数秒静まり返る。そして次の瞬間、小さく押し殺した笑い声が漏れた。その笑い声は針のようだった。一つひとつが、空気を刺していく。
南條さんは言い返さなかった。ただ頭を下げて謝り、教師の叱責を受けながら静かに席へ戻っていく。その足取りは、目に見えない重さに押し潰されそうになっているみたいだった。
私の隣まで戻ってきても俯いたまま、「……ごめんなさい。本当に、ごめんなさい……」と謝り続けていた。その小さな声は、教室のざわめきに今にも飲み込まれてしまいそうだった。
その謝罪が誰に向けられたものなのか、一瞬わからなくなった。私に向けてなのだろうか。教えたのに、それでもうまく書けなかったことを謝っているのだろうか。それとも、ただ「また失敗してしまった」ことを、自分自身に対して詫びているだけなのだろうか。
それは不注意なんかじゃなかった。怠けていたわけでもなかった。彼女の表情はあまりにも真剣だった。あまりにも苦しそうだった。作っている顔ではない。出口の見えない戦いの中でもがき続けている人の顔だった。その「ごめんなさい」が、なぜか胸の奥に深く残る。それは単なる謝罪ではなかった。自分自身さえ許せないほどの後悔と、自責の響きを帯びていた。
初めて、不安を覚えた。
ずっと当たり前だと思ってきたものに、小さな亀裂が静かに走ったような気がした。あの間違いと沈黙の奥には、今の私にはまだ理解できない理由が、どこかに隠されているような気がした。




