第10話 優越感
あの日、家に帰ったあと、私は机に向かって教科書を開いた。白いページはちゃんと目の前にあるのに、文字だけが水に滲んだみたいにぼやけて見える。
頭の中に何度も浮かんでくるのは、南條さんの背中だった。俯いたまま、少しだけ肩を縮こませた姿。紙の上で何度も消して、また書き直していたペンの軌跡。まるで何か目に見えないものと戦っているみたいで、それでいて、自分自身を静かに罰しているようにも見えた。
あの光景が頭から離れなかった。まるで小さな鉤が心のどこかに引っかかったままになっているみたいだった。言葉ではうまく説明できない違和感が胸の奥を静かにかき回している。強くなることもあれば弱まることもある。そのたびに落ち着かない気持ちになって、思わず眉をひそめていた。
成績が悪くて、先生に怒られて、クラスメイトからも冷たい目で見られて。それでも塾に来ているってことは、変わりたいと思ってるんじゃないのかな。進学したいとか、もうこれ以上責められない未来を掴みたいとか。そういう気持ちがあるから、ここにいるんじゃないのかなって。
南條さんを助けているはずなのに。
問題の意味を理解できるようにして、間違っているところを指摘して、どこを直せばいいのかを教えている。こうした知識を身につけて、もっと良い学校に進学できれば、あんな挫折したような表情とも、いつも今にも崩れてしまいそうな眉や目とも決別できるはずだ。
そんな未来こそ、彼女にふさわしいものじゃないだろうか。少なくとも……私はそう思っていた。
なのに、私の助けに感謝しているようには見えなかった。それどころか、「手伝いたくないなら、無理に手伝わなくてもいい」とまで言った。
その淡々とした返事は、まるで一枚のガラス越しに聞いているみたいだった。軽くて、感情が見えなくて、礼儀正しいのに、どこか居心地が悪い。
……私がどれだけ気にかけてるか、わからないのかな。本気で彼女のことを考えてるって、伝わってないのかな。
ペンを置いて、眉間を揉んだ。一瞬だけ、苛立ちみたいなものが胸を掠めた。けれど、その感情もすぐ沈んでいって、代わりに残ったのはもっと深い戸惑いだった。
たぶん、まだ慣れていないだけなんだと思う。あるいは、まだそこまで親しくないから、人の好意をどう受け取ればいいのかわからないのかもしれない。きっと、いつかは伝わる。いつかは、わかってくれる。
深く息を吸って、ゆっくり気持ちを落ち着けると、もう一度教科書を開いた。
今のところ、正直まったく進展している気はしない。距離は、相変わらず礼儀正しさの境界線の上にあって、むしろ少し後退しているようにすら感じる。
それでも、助けられるところは助けようと思った。どうせ塾の授業なんて退屈なものだし。その退屈さの中で、誰かが少しでも前に進めるなら、それでいいじゃないかと思った。
***
数日後の塾の授業で、教師は南條さんに問題文の中の長い一文を読ませ、その後の読解問題に答えるよう求めた。文の構造も複雑で、意味も抽象的だった。誰にとっても決して簡単なものではなかった。
彼女はわずかに唇を開いた、声は途切れ途切れだった。まるで細かな風に切り裂かれていくみたいに、言葉がうまく繋がらない。一つひとつの音節が、喉の奥から無理やり押し出されてくるように聞こえた。
「……え……と、こ……こ……」
一音ずつ、喉の奥から無理やり押し出しているみたいだった。
教室の空気が、少しずつざわめき始める。前の席では小さな笑い声が漏れて、後ろでは誰かが身じろぎする音が響いた。黒板を叩くチョークの音まで、妙に耳障りに感じる。
眉を寄せ、わずかに苛立った声で言った。
「わからないなら、わからないって言いなさい。みんなの時間を無駄にしないで」
肩が、ぴくりと小さく震えた。指先はペンを強く握りしめたまま、俯いている。返事の声は、小さすぎてほとんど聞き取れなかった。
その光景を見つめながら、胸の奥がきゅっと痛むのを感じていた。同時に、何か言わなければならないような衝動が静かに込み上げてくる。だから、口を開いた。
「その一文は、情景描写を通して登場人物の孤独感を表現しているんだと思います」
その瞬間、教室の空気がぴたりと静まった。教師は私を見て、小さく頷く。
「うん。よく答えられたね」
言ってから、南條さんのほうへ視線を向けた。
「南條さん、次は自分で頑張りなさい」
――次は自分で頑張りなさい。
その一言は、何気ない締めくくりの言葉のようだった。けれど、教室の空気の中には目に見えない重さだけが残った。
南條さんの唇がわずかに動く。
「……ありがとう」
それは初めてだった。
声には、ほんの少しだけ本物の感情が滲んでいた。私は胸の奥がかすかに揺れるのを感じた。言葉にできないような嬉しさが広がっていく。
――ああ、本当に彼女の力になれたんだ。
授業が終わったあとも、あの「ありがとう」の余韻に浸っていた。その声はまるで何かの報酬みたいで、自分のしてきたことがちゃんと認められたような気がした。
心の中で、これで間違っていないんだと密かに言い聞かせていた。このまま彼女を支え続ければ、きっと良い方向へ変わっていくはずだ。もう今みたいに何度も自分を責めたりしなくなるはずだ。諦めずに続けていけば、いつか正しい道へ戻り、幸せな人生を送れるようになる。
そのときの私は気づいていなかった。
その短い間だけ味わった「自分は誰かを救えている」という優越感は、実のところ自分自身を安心させるための幻想にすぎなかったことに。
自分が彼女のために扉を開いたのだと思っていた。けれど見えていなかった。沈黙は、学ぶことを拒んでいたからではない。この仕組みそのものが、彼女に息をつくための余白を一度も与えてこなかっただけだったのだ。




