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君の名前を、私が書き換える  作者: 雪見遥
第3章 2022年5月

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第9話 君を変えられたなら、きっと救えると思っていた

 補習が終わると、教室の生徒たちは少しずつ帰り始めた。ペンケースを閉じる音。椅子を引く音。そんな小さな物音だけが、静かな空気の中で微かに揺れている。


 私はいつも通りノートを整理しながら、ふと視界の端に映った南條さんの姿に気づいた。まだ席に座ったまま、帰ろうとしていない。


 机には問題集が開かれていて、手にはペンを握っている。間違えた部分を、一つずつ消していた。消しゴムのかすが机いっぱいに散っていて、まるで細かな雪みたいだった。消された筆跡は蛍光灯の下で白く光っていて、まるで失敗だけが何度も塗り潰されていくみたいに見える。


 その光景を見ていると、胸の奥に妙な感情が広がっていった。同情とも、憐れみとも違う。もっと曖昧で、理由のわからない不安みたいなものだった。


「……まだ直してるの?」


 思わず、小さな声でそう聞いた。


 南條さんはわずかに顔を上げ、手を止める。


「うん。先生に、間違いが多いから次は正しいものを提出しなさいって言われたから」


 声は平坦だった。悲しそうでも、悔しそうでもない。ただ感情の起伏だけを綺麗に削ぎ落としたみたいな声。また俯いて、紙が擦り切れそうな勢いで文字を書き始めた。


 視界に入ったその一文は、さっき授業中に私が直したばかりのところだった。同じ文字を、何度も繰り返し書き直している。


 一行目は歪んでいて、二行目は震えていて、三行目はもうほとんど形が崩れかけていた。


「……それじゃ遅すぎない? 先に正しい答えを写してから練習したほうがいいと思うけど」


 気づけば、少し強めの口調で口を挟んでいた。


 南條さんは小さく「ん……」とだけ返した。息みたいに弱い声だった。でも、そのまま書き方を変えようとはしない。ペン先は相変わらず、一画ずつ、一画ずつ、頑なに元の書き方をなぞり続けていた。


 彼女の字は、正直綺麗とは言えなかった。むしろ雑で、乱れていて、筆順まで時々おかしい。


 けれど、「ちゃんと書けるようになりたい」という執着だけは、白い紙の上で小さく燃えている火みたいに、痛いほど伝わってきた。整った綺麗な字より、ずっと胸が苦しくなる。


 私は彼女の授業ノートにも目を向けた。


 今日の内容はところどころ抜け落ちていて、まるで欠けたパズルみたいだった。漢字を書き間違えている部分もあるし、途中から空白になっている箇所もある。タイトルですら、少し歪んでいた。


 思わず眉を寄せる、嫌だったわけじゃない。もっと深いところから来るような、放っておけない気持ちだった。


 鞄から自分のノートを取り出し、今日のページを開いた。そこには内容が整然とまとめられていて、重要な部分には一つ一つ印もつけてある。


「……これ、私のノート。今日の内容、全部このページにまとまってるから。ちゃんと見やすく書いてあるし……家で見ながら、自分のノートも埋めてみたら? 次の授業のときに返してくれればいいから」


 そのまま受け取ってくれるものだと思っていた。けれど、南條さんは手を伸ばさなかった。ただ、差し出されたノートをじっと見つめている。まるで目の前に、見えない壁でもあるみたいに。


「……ごめんなさい」


 消えそうなくらい小さな声だった。


「私、本当に頭悪くて、何もできないから……だから、その……無理に助けようとしてくれなくても大丈夫です。迷惑かけるの、よくないし……」


「頭悪くて」というその言葉は、まるで自分自身の胸に直接刻みつけるみたいに聞こえた。言葉を口にするときの、かすかな震えも伝わってくる。恥ずかしさと、怯えと――まるで彼女はノートを拒絶しているんじゃなくて、誰かの負担になることそのものを拒もうとしているみたいだった。


 口を開きかけた。「違う」とか、「嫌がってるわけじゃない」とか、そんな言葉を言おうとしたのに、喉の奥に引っかかったまま、どうしても出てこなかった。結局、その場に立ち尽くしたまま、ただ南條さんを見ていることしかできなかった。


 俯いた姿は、まるで少しでも自分の存在を小さくしようとしているみたいだった。再び紙に触れたペン先が、静まり返った教室にかすかな音を刻んでいく。


 カリ、カリ、と。


 それは勉強している音というより、まるで自分自身に罰を与えているような音だった。失敗も、不器用さも、足りなさも。全部、自分の中へ押し戻すみたいに。


 胸の奥が、きゅっと締めつけられた。何かに軽く刺されたような痛み。でも深く傷つくようなものじゃない。もっと妙で、もっと細くて、息を止めてしまいそうになるような感覚だった。


 どこか距離を置くみたいな彼女の態度のせいで、空気までぎこちなくなっていた。まるで透明なガラスが、私たちの間に静かに降りてきたみたいに。


 ノートを握ったまま、半秒ほど立ち尽くす。それでも最後には、その重たい沈黙から逃げるみたいに、そっと背を向けた。でも、教室を離れる一歩一歩が、胸の上を踏まれているみたいに苦しかった。理由なんて、うまく説明できない。何かをはっきり言われたわけでもない。


 それなのに……どうしようもなく、苦しかった。

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