第8話 手を差し伸べること
あの日の塾は、いつも通り静かだった。私は自分の問題集をめくりながら、ときどき隣の席へ視線を向ける——そこには南條千雪が座っていた。
別に、特別いい印象を持っていたわけじゃない。ただ、成績がいつも悪くて、よく先生に叱られている子。いつも一人で来て、一人で帰っていく。教室の隅の席に座って、誰とも話さず、挨拶もしない。
どうしてかはわからない。あの日、南條さんがいつも誰より早く来て、最後まで残っていることに気づいてから。そして、最初に声をかけたとき、うまく会話にならなかったあの日から、私は無意識のうちに、彼女のことを気にするようになっていた。
彼女は字を書くのが、とても遅かった。それは「集中していない」せいで遅いわけじゃない。もっと別の、何かだった。ペン先が何度も不自然に止まる。一画書くたびに、迷っているみたいに。ノートに書かれた文字を見ると、筆順がぐちゃぐちゃになっているものがあった。文字を反対に書いてしまっていることもある。
それに気づいた瞬間、慌ててそのページを手で隠した。まるで、誰かに見られることを恐れているみたいに。
どうしてそんなことが気になったのか、自分でもよくわからない。たぶん私は昔から、「間違いを見過ごせない」タイプだったんだと思う。結局、我慢できなくなって立ち上がり、そのまま南條さんの隣に腰を下ろした。
授業が終わったあと、間違っている箇所を指摘する。
「……さっきの問題、間違ってる」
できるだけ淡々とした声で、ノートの一行を指差した。
「七番の答え、『彼らは話した』じゃなくて、『彼は話した』。前後の代名詞、噛み合ってない」
彼女は一瞬固まって、それから勢いよく俯いた。
「ご、ごめんなさい……また間違えた……私、本当にダメで……」
消えてしまいそうなくらい小さな声だった。目は見る見るうちに落ち着きをなくして、両手はノートを隠そうとしているのか、それとも破いてしまいたいのか、自分でもわからないみたいに震えていた。
私は少し黙り込んだ。慰めるような言葉は、出てこなかった。どうしてそこまで怯えるのかも、私はわかっていない。ただ、少し自信がなくて、勉強が苦手な子なんだろうと思っていた。
しばらくその場に立ったまま、彼女が新しい行に書き直し始めるのを見ていた。でも、その手はまだひどく震えている。
それから、少しずつ、自分の習慣が変わっていった。
あの日以来、毎回の塾で、決まって南條さんの隣に座るようになった。机の距離は近いはずなのに、その間にはいつも、薄い霧みたいな空気が漂っていた。
問題を間違えたときには小さな声で教えて、途中で手が止まれば、横から指差して言う。
「ここ違う。こうやって解くの」
数学の時間、彼女がシャーペンを持ったまま、下書き用紙の前で止まっていた。思わず身体を少し乗り出して、その問題を指差す。
「そこ、公式の入れ方が違う。先に単位を変換してから代入しないと」
一瞬だけ固まり、それから小さく「……うん」と返して、私が言った通りに書き直した。
国語の練習になると、彼女はいつも壊滅的なくらい間違えていた。だから彼女のノートを引き寄せて、一行書き直して見せる。
「この単語はここでは使わない。文の流れなら、こっちのほうが自然」
俯いたまま、それを静かに書き写していく。動きはどこかぎこちなくて、呼吸まで慎重だった。
英語の授業では、同じスペルミスを何度も繰り返していた。何度か見ているうちに、私はとうとうノートに直接線を引き、正しい綴りを書き足した。
「この文字、向きが逆。それと次の動詞は過去形」
一度だけ顔を上げて私を見た。唇がわずかに動き、それから小さく言う。
「……わかった」
返事は、いつも淡々としていた。「うん、わかった」とか、「はい」とか。返ってくる言葉は決まってそんな短いものばかりで、声に温度はない。けれど、拒絶しているわけでもない。ただ静かで、気を抜けば空気に溶けて消えてしまいそうな響きだった。
その淡薄さは、ほとんど透明に近かった。近づこうとしても、指先が触れる前に、そのまますり抜けてしまうみたいに。だからこそ、彼女が本当は何を考えているのか、まるで掴めない。どうしても、その奥まで近づくことができなかった。
それでも、まるで気にしていなかった。疑いもしなければ、戸惑いもしなかった。ただ、人見知りなだけなんだろうと思っていた。きっと恥ずかしがり屋で、打ち解けるのに時間がかかって、自分の気持ちを表に出すのが苦手なだけだと。
そんな反応をされたからといって、引き下がろうとは思わなかった。むしろ胸の奥では、不思議な使命感のようなものが静かに灯っていた。まるで、誰にも聞こえないその一瞬に、私は何かを託されたみたいに。
私がちゃんと教えて、南條さんがちゃんと受け取ってくれれば、きっと少しずつ変わっていける。助けたいって思っていることも、この子のために向き合っている気持ちも、いつかきっと伝わる。
学校では、成績が良いこともあって、よくクラスメイトに勉強を教えてほしいと頼まれる。説明して、相手が「あ、わかった」という顔を見せてくれた瞬間、不思議と胸の奥が満たされるような安心感があった。自分の力で、誰かの役に立てる。そのことが、嬉しかった。
だからこそ、ごく自然に、その気持ちを彼女にも向けていた。
毎回の授業で、同じことを繰り返す。南條さんの問題集と、自分のノートの間を、ペンが何度も行き来する。間違いを指摘して、理由を説明して、重要な部分に線を引いて、筆順を直す。間違えて、直して、また間違えて、また直す。話して、聞く。説明して、頷く。全部が、きちんと順番通りに進んでいるように見えた。
ときどき、ふっと顔を上げることがあった。目の奥に、一瞬だけ茫然とした色が浮かぶ。それは、見落としてしまいそうなくらいかすかな表情だったけれど、私はいつも無意識に、それを「助けを求めている顔」だと受け取っていた。まだうまくできないだけなんだ。努力していないわけじゃない。ただ、人より少し不器用で、覚えるのが苦手なだけ。だからこそ、彼女には私が必要なんだと、そう思っていた。
だったら、もっと丁寧に教えればいい。もっと根気よく支えれば、きっと変われる。ちゃんと成績だって上がるはずだ。そう信じて、何度でも彼女に教え続けた。以前よりも細かく間違いを見つけるようになって、説明もどんどん丁寧になっていく。
南條さんがようやく一問書けるようになるたび、胸の奥にはかすかな満足感が広がっていった。それは、自分という存在が肯定されたような感覚だった。まるで誰にも見えないどこかで、「よくできたね。本当に誰かの役に立てている。あの子の人生を変えられているんだ」と囁かれているみたいに。
彼女は相変わらず、静かに頷いて、小さな声で「ありがとう」と言うだけだった。その声は、水面に落ちた一粒の埃みたいに、音もなく沈んでいった。
ときどき思うことはあった。もしかして、私のことをあまり好きじゃないんじゃないか。それとも、本当は助けてほしくないんじゃないか。でも、その考えはすぐに打ち消した。
——ちゃんと話は聞いてくれている。実際に、できることも増えている。
そう自分に言い聞かせる。もっと頑張ればいい。もっとわかりやすく教えれば、きっと変われるんだって。




