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君の名前を、私が書き換える  作者: 雪見遥
第3章 2022年5月

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第7話 南條千雪

 私は南條千雪、14歳。ごく普通の公立中学校の3年生に通っている。もし自分の人生を一言で表すなら――「ずっと追いかけているのに、いつも遅れてしまう」、それが一番しっくりくると思う。


 物心ついた頃から、自分は本当に役に立たない人間だと感じていた。どの親も、自分の子どもには賢くて、多才で、成績も良くて、人前で誇れる存在になってほしいと願うものだと思う。私の両親も例外じゃなかった。よくこう言われた、「ほら、あの子はあんなに頑張っていて、あんなにすごいのに……少しは見習いなさい」って。そのたびに、胸の奥が少しだけきゅっと締めつけられるように痛くなった。それでも、頑張れば、いつかは私のことも誇りに思ってくれる日が来るんじゃないかって、そう思ったこともあった。


 でも、どれだけ努力しても、その場所にたどり着いたことは一度もなかった。


 幼稚園の頃、周りの子たちは少しずつ数字やひらがなを覚えていったのに、私はずっと遅れたままだった。先生はよく両親に言っていた。「ご家庭でもしっかり見てあげてください。もっと練習させてあげてください」


 小学校に上がると、読むことや書くことの機会はさらに増えた。でも、状況はまったく良くならなかった。テストも、漢字の書き取りも、作文も……ミスばかりで、まともにできたことなんてほとんどなかった。目には、文字がまるで勝手に動いているみたいに見えた。あちこちに跳ねて、揺れて、どうしてもきちんと揃ってくれなかった。


 そのせいで、小学校の先生にはよく叱られたし、テストで零点を取ることも少なくなかった。クラスメイトも私のことを好まなかった。先生が両親と話すたびに、必ずこう言われた――「この子は真面目じゃない、集中力がない、家でもちゃんと勉強しないで、いつも遊んでばかりいる」って。その後で、両親にも一緒になって叱られる。まるで、すべての原因が「努力していないから」だと決めつけられているみたいだった。


 両親は、少しでもいい学校に進めば、校風が厳しくて周りの生徒も優秀だから、それに引っ張られるように成績も上がるはずだと思っている。二人の中では、勉強ができることが何よりも大事だった。


 勉強ができれば、きっといい未来が待っている。いい人生につながる。だからこそ、今いちばんやるべきことは勉強で、それは子どもとして、生徒として果たすべき当たり前の役割だと、そう信じて疑っていない。


 でも結果は、もう分かっていると思う。失敗して、行きたかった学校には入れなかった。今のこの普通の公立中学に進学して、生活は相変わらずだった。この学校の勉強の雰囲気はごく普通で、大学進学を目指していない生徒も多く、全体的に成績もそれほど良くない。もちろん、その中でも一部には成績が優秀で、上位の高校を目指している人もいる。でも、どれだけ成績が悪い生徒の中でも、一番できないのはきっと私だった。


 そんな中で、お母さんは今回、進学のための専門の塾に私を通わせ始めた。目指すのは、トップクラスの国立高校――萃光高等学校。


 私だって、努力している。本当に、ちゃんと頑張っている。字の練習もしているし、毎日、学校で習ったことを復習している。それでも……どうしてこんなにも自分はダメなんだろうって、分からなくなる。あの学校に受かるなんて、正直すごく難しいって、自分でも分かっている。どうしてなのか分からないけど、できる人はいつだってできるのに、私はどれだけ頑張っても、やっぱりできない。


 すると、周りの人はこう言う――「他の人ができるなら、あんたにもできるはず。できないのは、努力が足りないからだ」って。この言葉は、もう何度も、何度も聞いてきた。


 ときどき、私自身でさえ思ってしまう。


 ――本当に、私は努力が足りないだけなのかな……? それとも……この世界は、最初から私みたいな人間のための場所なんて、用意されていなかったのかな……?


 ***


 塾の授業が終わったあと、私は鞄を背負って、家へと続く道を歩いていた。もう空はすっかり暗くなっていて、細い路地の奥から吹き抜けてくる風が、埃と油の匂いを運んでくる。


 家の前に着く。古びたアパートの外壁はところどころ剥がれ落ち、電灯はぼんやりとしか光らない。階段の入口の壁には、色あせて黄ばんだチラシが何枚も貼られている。鍵を取り出して扉を開け、中へ入ると、部屋の中で灯っているのは台所の蛍光灯だけだった。じじ、と微かな音を立てながら、冷たい白い光を放っている。


 食卓には物音ひとつない。それでも、空気の中にはどこか疲れきったような匂いが漂っていて、まるで息も絶え絶えの古い魚みたいだった。


 お父さんはまだ帰ってきていない。きっと、コンビニで荷下ろしをしている時間だろう。あの仕事は拘束時間が長くて、給料も驚くほど低い。それでも、不満を口にするのを聞いたことは一度もなかった。いつも笑って言うんだ。


「もう少し頑張れば、その分だけ貯金も増えるし、お前たちの生活も少しは良くなる。勉強に使えるものだって、もっと用意してやれるだろ」


 その笑顔は確かに優しかったのに、私の目には、重くのしかかる枷みたいに見えていた。そこから動けなくなるくらいに。


 お母さんは流し台の前に立って、腰をかがめたまま鍋を洗っていた。長年水に浸かり続けたせいで、手はひび割れていて、指の関節の皮膚は白く浮いている。まるで、今にも崩れてしまいそうな紙みたいだった。


 水の流れる音が、途切れることなく響いている。ボウルに当たる甲高い音が混じり、そのひとつひとつが、どんな叱責よりも重く胸にのしかかってきた。


 お母さんの背中を見つめていた。狭いキッチンは時間ごと閉じ込められたみたいに動かず、水音だけが何度も何度もボウルを打ち、単調で、それなのにやけに耳に残る響きを繰り返していた。


 なのに、頭の中には、塾のあの席が浮かんでいた。今日、隣に座っていたあの子が、小さな声で言った。


「ここ、間違ってるよ」


 間違っていたのは事実だった。ただ、その一言は、針みたいに胸に突き刺さった。


 先生の叱る声、クラスメイトの笑い声、両親の重い言葉……何度も何度も、耳の奥で繰り返される。水滴が石に落ちるみたいに、「ここが違う、あそこも間違ってる」って。ひとつひとつの指摘が細い針になって、同じ場所に落ち続けて、少しずつ、少しずつ私を貫いていく。


 気づけば、そこはもう感覚が鈍くなっているのに、どこかでずっと痛み続けている穴になっていた。


 間違っているのは、言葉でも答えでもないんじゃないかって、そう思い始めていた。間違っているのは、「私」という存在そのものなんじゃないかって。もしかして……最初から、ひとつの間違いとして生まれてきたんじゃないか。


 世界はまるで、声のない鏡みたいだった。不出来な自分の姿を、そのままむき出しに映し出して、どこにも逃げ場を与えてくれない。頭の中には答えがあるはずなのに、手はどうしても動かない。文字は目の前で揺れて、震えて、ぼやけていく。まるで、私にしか見えない幻みたいに。


 どれだけ間違えたのか、もう確かめるのも怖かった。問題集を開くことすらできない。ページをめくるたび、それは判決書みたいに、静かに私の無力さを裁いてくる。


「塾はどうだった?」


 お母さんは振り向かないまま、わざと落ち着いた口調でそう言った。その声は細く長い刃のようで、静かに私の胸をなぞっていく。


「……まあまあ」


 小さく答えた。声の震えを必死に押し殺して、ほんの少しでも綻びが出ないように。


 一瞬手を止めて、それから手を拭き、食卓のほうへ座った。引き出しから塾の費用の領収書と、ほかの生活費の請求書を取り出す。そこにはすべて、赤いペンで締切日が丸で囲まれていて、お父さんの作業着の下に重ねられていた。


 一枚、一枚とめくるその目には、押し殺したような、でもどこか意地のように離れない焦りが滲んでいた。まるで、その紙切れの数枚に、すべての希望を預けているみたいに。


「お父さんはね、いつも言ってるの。昔ちゃんと勉強しなかったから、今はこういうきついのに収入の低い仕事しか選べなくて、逃げ道もないって」


 その声はとても小さくて、まるで独り言みたいだった。それでも、一言一言が、確かに私の耳に打ち込まれていく。


「それにお母さんは……早くに学校をやめちゃったから、読めない字も多くて、よく人に笑われるの。それでも言い返す力もなくて、結局レストランで皿洗いをするしかなかった。手も、こんなになってしまって」


 そう言って、お母さんはその手を持ち上げた。ひび割れて、関節のあたりは白くなっている。


「だからね、勉強って、本当に一番大事なのよ。それで将来が決まるの。ちゃんと私たちの言うことを聞いて、きちんと勉強しなさい。あの学校に入らなきゃいけないの。歯を食いしばってでも、この一口の意地を通しなさい」


 声は低く、けれど硬かった。折れることを許さない細い糸みたいに、私をきつく引き留めている。


 私は視線を落とし、膝の上で手をぎゅっと握りしめた。胸が見えない縄で何重にも締めつけられているみたいで、呼吸が浅くなる。声は押し潰されて、ほとんど聞こえないほどのかすかな息になる。


「……うん、分かった」


 勉強したくないわけじゃない。負けたくないとも思ってる。


 ただ——怖いんだ。もう本当に耐えられなくなるんじゃないかって。生まれつき足りていないんじゃないかって。そして……親が望むような「いい子で、言うことを聞いて、ちゃんと結果を出せる娘」に、どうしてもなれないんじゃないかって。


 蛍光灯が、かすかに、それでも途切れることなく唸り続けている。その音は冷たい伴奏みたいに、古びたアパート全体を灰色の空気で包み込んでいた。机の上には、塾の請求書が静かに置かれていて、その下にはお父さんの作業着が押し込まれている。赤く印刷された締切日は、まるで血が滲むみたいに、紙の奥まで染み込んで見えた。


 ただ座っているだけなのに、世界の重さが、少しずつ、確実に肩へとのしかかってくる。

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