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君の名前を、私が書き換える  作者: 雪見遥
第3章 2022年5月

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第6話 沈黙の壁

 教室の一番後ろ、窓際の角へと歩いていく。そこは普段、誰も座ろうとしない「呪われた場所」で、皆が暗黙のうちに避けている席だった。そこに誰かが腰を下ろしたことで、周りの生徒たちは一瞬だけ驚いた表情を見せた。


 私は一度深く息を吸い、顔を南條さんのほうへ向ける。


「……ここに座ってもいい?」


 南條さんはその言葉を聞いても、すぐには口を開かなかった。ただ、ほんのわずかに頷く。その動きは羽のように軽かったけれど、それだけで十分な許可だった。


 ぎこちない笑みを浮かべながら席に座り、文具と塾の教材を取り出す。けれど心の中では、どうして自分がこんなことをしているのかを考え続けていた。あの、必死に書き写していた姿を見たからなのか。それとも、これまでの自分の見方が間違っていたと気づいたからなのか。あるいは……ただあの瞬間、どこかで何かに背中を押されたような気がしただけなのか。


 答えは、分からなかった。


 授業が始まる。教師はいつも通り、早い口調で内容を説明し、チョークは黒板の上をせわしなく走っていく。生徒たちは一斉に顔を伏せ、急いでノートを書き取る。その様子は、まるで時間と競争しているみたいだった。


 思わず横をちらりと見た。南條さんもノートを取っていたが、文字は歪んでいて、風に乱された草みたいだった。整ってはいない。それでも……確かに書こうとしている。ただ、黒板の文字を消したとき、ふと目に入った。彼女の手は、まだ半分も進んでいない位置で止まっていた。


 彼女は消えていくその文字を、ただ呆然と見つめていた。その目には、一瞬だけ戸惑いと焦りがよぎる。問題を解く場面でも、何度も文字を間違え、答えも外していた。確かに、努力はしている。でも……本当に分かっていないのだ。


 胸の奥に、言葉にできない重さが広がる。それは怒りではなく、どうしようもない無力感だった。


「……ちゃんと書こうとしてるよね」


 間違いだらけのあの一ページ、どうしてもうまく読めなかったあの一言、そして助けを求めているみたいなのに、声にできずにいるあの目……その一つ一つが、頭の中で何度も繰り返されていた。


 理性は、これは自分が関わるべきことじゃないと告げている。それでも心のどこかで、何かが少しずつ揺らぎ始めていた。


 授業が終わると、生徒たちは次々と荷物をまとめて教室を出ていく。机や椅子を動かす音が重なり合い、やがて静けさへと変わっていく。気づけば教室には、隅に置かれた古い扇風機の回る音だけが、低く単調に響いていた。


 私はその場に座ったまま、視線を南條さんの開いたままのノートへと向ける。胸の中で迷いが何度も行き来したあと、結局、口を開いた。


「……さっきの問題、間違ってるよ」


 言葉にした瞬間、自分でも分かるくらい、声にわずかなためらいが混じっていた。


 南條さんが顔を上げる。その目には一瞬だけ戸惑いが浮かび、すぐに警戒へと変わった。まるで無意識に、距離を取ろうとするみたいに。


 彼女のノートを指さし、わざと話す速度を落として、できるだけ落ち着いた、偏りのない口調になるようにした。


「七番の答え、『彼らは話す』じゃなくて、『彼は話す』だよ。前後の言葉が合ってない」


 わずかに眉をひそめ、ノートを一度見下ろした。確認しているようでもあり、目を逸らしているようでもあった。やがて、何も言わずにノートを閉じた。


「……あ、うん」


 私は数秒、黙った。ここでやめるべきだと分かっていたのに、どうしても気になってしまって、つい言葉を重ねてしまう。


「あと……『空天』じゃなくて『天空』だよ。それから、この『芒光』も、順番が逆になってる」


 彼女ははっきりと一瞬、固まった。次の瞬間、慌てたように顔を伏せる。まるで、これ以上何かが起こるのを止めようとしているみたいに。


「ごめんなさい……ごめんなさい……また間違えました……私、本当にダメで……」


 その声はとても小さく、扇風機の回る音にかき消されそうだった。視線は落ち着かずに揺れ、手はノートを隠そうとしたかと思えば、逆にぐしゃぐしゃにしてしまいそうに動いていて、どうしていいか分からない様子だった。


 あまりにも早い自己収縮——先に自分を否定してしまえば、そのあとに来るかもしれないどんな評価からも逃れられるとでも思っているかのように。こうして間違いを指摘されることに、もう慣れてしまっている。


「……ごめん、責めてるわけじゃない。ただ……たまたま見えたから、言っただけ」


 南條さんは顔を上げて、私を一度だけ見た。その視線は静かで、わずかにためらうような探りが含まれていたけれど、すぐに逸らされて、またノートへと落ちていく。まるで、そこに見えない境界線を引くみたいに。


「大丈夫です。自分がバカなのは分かってますから」


 彼女は淡々と言った。その言葉が落ちた瞬間、このやり取りも一緒に閉じられてしまったようだった。近づける隙間は何も残っていない。ただ、その一言だけが、静かに空気の中に留まっていた。


 背を向けて、そのまま教室を出ようとした。でも、数歩進んだところで、足が止まる。


「……毎回、塾来てるの?」


 少し迷ってから、もう一言付け足した。


「いつも、あんなに早く来て……あんなに遅くまで残ってるの?」


 南條さんのペン先が、一瞬だけ止まった。顔を上げないまま、静かに答える。


「ごめんなさい……あまり、人と話すのが好きじゃなくて」


 その口調はとても軽かったのに、まるで見えない壁のように人を隔てていた。言い終えると、彼女はもう一度もこちらを見ようとはしなかった。


 私はその場に立ち尽くしたまま、胸の奥にこれまで感じたことのない喪失感が、ふっと浮かび上がった。それ以上問いかけることもできず、ただ静かに教室を出るしかなかった。それでも、頭の中にはあの一言がずっと残っていた。


 そうかもしれない。人前で何度も間違いを指摘されることに慣れてしまった人にとって、こうした指摘が感謝されるようなものになるはずがない。


 それでも、どこかで思ってしまう……南條さんの言う「人と話すのが好きじゃない」は、本当に話すこと自体が嫌いという意味なのだろうか。もしかしたら、それはただ、誰にも気にかけられないことに慣れてしまっただけで、誰も近づいてこないことに慣れてしまっただけなのかもしれない。


 そして、その中には、これまでの私も含まれている。

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