第5話 気になってしまう涙
翌日の土曜日、私はいつも通り塾に来た。開始時間より二十分ほど早く着いたのだが、まさか、来ないと思っていた人の姿を見ることになるとは思わなかった。
教室のドアは半開きになっていて、押して中に入ると、空気にはチョークの粉と午後の陽の光が混じっていた。自分が一番乗りだと思っていたけれど、視線を巡らせた瞬間、教室の隅にある見慣れた背中が目に入る——南條千雪だった。
彼女は相変わらず、誰も近寄ろうとしないあの席に座っていた。机の上には原稿用紙が広げられ、手にはペンを握って、ゆっくりと、それでもどこか必死に、何かを書き続けている。ただ一度ちらりと目を向けただけのはずだったのに、なぜか足を止めてしまった……彼女はまだ、あの課文を書き写していた。
『春が来た。万物が息を吹き返し、新学期が始まる』
それは昨日、教師が出した書き取りの文章だった。本来は数段落ほどを覚えて書くだけのはずだったのに、彼女の解答はほとんどすべてが間違っていた。句読点も、文法も、語順も、あちこちが崩れていたのを覚えている。先生の顔色は最初から悪かった。何かに苛立っているようで、そこへ南條さんの「目も当てられない」解答が重なって、ついに堪えきれず、爆発した。
「毎回こうだ! いったい何が問題なんだ? こんな基本的な文まで書き間違えておいて、高校を受けるつもりなのか?」
教室中の前で、教師は南條さんの原稿用紙を指差して怒鳴った。その声の大きさに、私は手に持っていたペンを落としそうになった。あの瞬間、教室は水を打ったように静まり返り、誰もが視線を落として、自分がそこにいないふりをしていた。
「百回書いてこい。こんなの小学生でも覚えられる。覚えられないなら、覚えるまで書け」
昨日、叱責のあとに言い渡されたのは、ほとんど不可能に近い罰だった——百回の書き取り。
正直、来ないか、あるいは先延ばしにするだろうと思っていた。でも南條さんは……本当にやっていた。授業が始まる前の時間を使って、ただひたすらに、同じ文章を何度も何度も書き続けている。
そっと自分の席に座ったけれど、どうしても彼女から目を離せなかった。
字は、やっぱり歪んでいた。読めない字もあるし、書き順が間違っているものもある。消しては書き直した跡が、紙のあちこちに残っている。少しでもきれいに書こうとしているのは分かるのに、書けば書くほど遅くなって、焦りが混じっていく。それでも字は整わず、体は机に覆いかぶさるみたいに前へ倒れていく。肩が、小さく震えていた。
そのとき、私は見た。一滴の透明なものが、紙の上に落ちるのを。
泣いていた。
声はない。ただ、極限まで押し殺した震えだけがある。小さく息を吸い込むたびに、体がわずかに揺れる。それさえも、誰かに気づかれないように抑え込んでいるみたいだった。まるで音を立てれば、また叱られてしまうとでも思っているかのように。彼女は書き続けながら、涙を拭っている。涙は紙に落ちて、文字をにじませて、やがて乾いて、ぼやけた跡だけが残る。
本当は、気にする必要なんてなかったはずだった。だって、ただの勉強に真面目じゃない人、そういうふうに思われている存在だったのだから。
でも、彼女はどうもそうじゃないみたいだった。ただ……本当に書けないだけなのだ。書き写しながら、声も立てずに涙を流している人なんて、今まで見たことがなかった。
それはわがままでも、怠けでも、同情を引こうとしているわけでもない。むしろ……濃い霧の中で道を見失ったまま、それでもまっすぐ進めと強いられているような、どうしようもない無力さだった。きっと、この課題をやりたくないわけじゃない。ただ、どうやればできるのかが分からないだけなのだ。必死に泳いでいるのに、それでも沈み続けてしまう人みたいに。誰にもやり方を教えられないまま、それでも見えない岸へ向かって泳げと命じられているみたいに。
「……」
気づけば、私は手にしていたペンを強く握りしめていた。昨日、先生が南條さんを怒鳴りつけていたとき、他の誰とも同じように、ただ黙っていた。これまでの塾の授業でも、彼女が大きな声で叱られるたびに、心のどこかでそれに同意していた。努力していないのだと、どこかで見下してさえいた。「受験があるのに、ちゃんと勉強しようとせず、ただいい加減に済ませている人」だと、そう決めつけていた。
でも今は、違う考えが浮かんでいた。
本当に努力していないのだろうか。それとも、ただ「どうすればできるのか」を、これまで一度も教えられてこなかっただけなのだろうか。
これまで見てきた南條さんのノートや、提出された練習問題を思い出す。確かに、どれも整っているとは言えなかった。字も乱れていて、内容もばらばらで、見ていて思わず目を逸らしたくなるようなものだった。
それでも、いつも誰よりも早く教室に来て、授業が終わったあとも残って練習を続けていた。最初に来て、最後まで残るのは、決まって彼女だった。それが、彼女なりにできる、たった一つのやり方だったのかもしれない。
窓際にいるその少女を見つめる。今も黙々と書き続けている。ページは何枚も重なり、涙で拭われた紙の端が、少しだけめくれていた。
そのとき、胸の奥で何かが、そっと叩かれた気がした。強くはない。けれど、確かに何かが揺れた。
そのとき、ふと視線が彼女とぶつかった。慌てて目を逸らし、俯いた。まるで何か悪いことをしてしまった子どものようであり、同時に、そうやって見られることにもう慣れてしまっているようでもあった。
何を言えばいいのか分からなかった。ただ、あの瞬間から、本当の意味で彼女のことを気にしてしまったのだと思う。
授業が始まるまで、あと5分。他の生徒たちも次々と入ってきて席に着いていく。その中で、どうしてか分からないけれど、心の奥で小さな声がした。ゆっくりと立ち上がり、自分で選んだはずの席から離れていった。




