ミルメークの香
コーヒーではない気がする、まだコーヒーが飲めなかった時分な気がする。
住んでる家とわたしとがいまよりも随分と幼い気がするから、一緒に住んでる相手は妻なのに、どうしても妻という気がしない。
ママよりももっと肉感的な母の入ってる語彙で呼んでしまう。
わたしのそれを聞く度に、彼女は薄ら寂しい軽蔑を向ける。
なにをまた・・・・わざとらしく・・・・むりをして・・・・・よそよそしく・・・・・世間体ばかりな・・・・と続くまなざしだ。
世間体でないのだ。
前にそういうことがあったからといって、一度や二度のことだからに被けて、過ちにしてるわけでない。そのことから断絶する壁を作って見えないよう逃げてるわけじゃない。
いまは、ただ、軟らかな温浴に浸かるように、息を止めることなく日常を過ごしていたいだけ。
だからといって、別にいまからでも温浴に浸かった顔のまま今日は少し日が高いけれど早めに○○しようと、夕餉の支度の彼女を後ろから抱きしめることだってやぶさかでない。
ただ、抱き寄せる掌が少し弱くなっている。遠い距離に向かうように離れてしまう。
今日の夕餉に買い忘れた一品をツーブロック先のコンビニまで買い足す距離なのに、家もわたしも随分と幼くなってしまったから、そのことが、子どもらで勝手に行っちゃいけない学校区を飛び越えたような異境の景色に模様替えしている。
見えているものは、壊そうとしない廃墟のビルディングなのに、いつまでもそこがデパートだった時分の屋上に遊園地が回ってるのを見続けようとする浦島太郎のわたしがいる。
ただ、それだけのことだ。
してはいけないこと、できないことじゃない。弱虫なのは認めるが、弱虫だからしないできないの類じゃない。
鼻の奥に人差し指をつっこむと、奥の詰まってるものが剝がれて溶け出し、なつかしいミルメークの香がこぼれた。コーヒーが飲めるようになっても、ずーと鼻の奥にはミルメークの香が詰まって残っていたのだった。




