四月八日 (月)
隆志はシャープペンシルを握って、一時硬直した。高校生初めてとなる授業は数学だったのだが、このノートの取り方に隆志は激しい葛藤を覚えたのである。
まず、ノートの二ページ目の一番上に自分の名前を書く。一ページ目を使わないのは、万一の時の保険で、交換ノート部では常識だと近藤先生が教えてくれた。問題はその次だ。
三角関数についての例題が、黒板には示されていた。隆志はこの問題を見た時、真っ先に持参した定規を使って三角形を書き上げたのだが、どうも直角になるべき角が鋭角に見える。書き直してみると、次は鈍角に見える。何度か書き直してやっと直角になったと思えば、今度は辺の長さがおかしくなって、他の角がおかしくなった事を告げてくる。四苦八苦してかれこれ七分、隆志は未だに有効な書き方を思い付けずにいた。
これが自分一人のノートだったらここまで悩む事もないのだが、このノートは全員のノートである。一切の妥協は許されないのだと近藤先生に念を押された隆志は、持ち前の負けず嫌いの血も影響して、ノート作りに対する士気を最高にまで持ち上げていた。
そこへ、この難題である。
<定規だけでなく、最低限分度器は持ってこないといけないわよ>
先週金曜日の近藤先生の言葉が脳に甦ってくる。すっかり忘れていたというか、分度器は追い追い向こう一ヶ月ぐらいの内に買おうと隆志は思っていた。まさか、近藤先生の忠告がこんなにも早く現実になろうとは考えもしなかった。ノート作りとは、意外と深い物なのかも知れない。
横方向に大きさ四センチメートルの辺を引く。更に、その左端から上へ、三センチメートルの辺をおよそ直角になるように引き、その上端と横線の右端を結ぶ。あとは、この線が五センチメートルになるよう、微調整を繰り返すしかなかった。明日からはちゃんと持ってこよう。そう隆志は、心に誓った。
四時間目の国語の授業を終え、隆志はかばんにノートと教科書をしまって立ち上がった。交換ノート部の活動は昼に行うのが通例らしく、それには昼食を一緒に食べる事により部員同士の繋がりをより密にするという目的があった。
いつか掃除をしようと決心した南館の埃っぽさが、何となく今日には心地良く感じられる。床の軋みを耳に気持ち良く聞きながら、隆志は重い交換ノート部部室のドアを開いた。
「お、やっと来た」
「遅いぞ。隆志……くん」
「そうだそうだ! うちの可愛い妹を待たせやがって。あと変な気回させやがって!」
「すまんすまん、教室が遠いんや。あと、呼び捨てにしてくれたらええで、和美ちゃん」
中から次々に掛かる言葉に応えながら、隆志は中に入って戸を閉じた。
そのまま、既に固定席である一番右の席へ座る。
「じゃあ、れっつ交換っ、だよ~」
美樹の号令に従い、全員が唇を固く結んでかばんからそれぞれが交換するべきノートを取り出す。隆志が出すのは、数学と生物、英語、それから国語のノートだ。まずは一番右の隆志が立ち上がって、それぞれのノートを渡すべき相手へと手渡した。そのまま無言で、足音もできる限り出さないようにと静かに自分の席へと戻る。同じ動作で今度は大樹が立ち上がってノートを配り、次は和美、次は美樹、最後は祐と進んでおよそ五分ほどでその作業は終了した。ふぅ、と息を吐く音と共に、
「よしよし、良い感じね。さすがは私が見込んだだけの事はあるわ」
と笑う近藤先生の声が室内に響いた。
「別に何もしていないような……:
「いいや、そんな事はないぞ妹よ! お兄ちゃんは、ちゃんとお前のノートを読んでやるからなっ」
「お兄ちゃんとは交換してない」
「なにいっ!」
遠野兄妹のコントに耳を傾けながら、隆志は近藤先生に、
「これは今見てもええんかな?」
と尋ねる。そして近藤先生が小さく頷いたので、ひとまず上から二冊目の目立つ黄色のノートを開いてみた。それは、隆志が苦労した数学のノートだった。二ページ目の一番上には、隆志の数倍丁寧な字で杉野美樹と記名されていた。
「……ほんま綺麗やなぁ」
これ以上ない程正確な、それでいて主張しすぎない線が、直角三角形を丁寧に描いていた。
「おっ。なんだ、可愛い妹のノートか? 俺はちょっとむさいノートを読んじまってテンション急降下中なんだが、良かったら見せてくれよ。むしろ悪くても見せろ!」
「最後むちゃくちゃやで。これ美樹ちゃんのノートやし。あと、そのノートに書き覚えあるわ」
「なにいっ!」
隆志は自失混乱している大樹をよそに、次のノートに目を移した。こちらは明るい水色である。書かれている名前は……小松祐、国語のノートだった。
「はいはい。交換ノートの魅力に取り憑かれるのは良いけど、早く食べないと昼食抜きになるわ。先に食べなさい」
近藤先生がそう言う。隆志は、それに従ってノートを閉じながら、さっき苦慮した縦書きの文字並びがとても綺麗だった事に感動を覚えた。
「自分ら、ほんまノート上手いなあ」
「俺の愛しき妹が居るからだな」
「違うから、お兄ちゃん。……んー、でも隆志だって、上手だと思うけど」
隆志が和美に渡したのは、英語のノートだった。中学校の頃から、日本語にも増してアルファベットを書くのは苦手だった。
「お世辞上手いなあ、自分」
「俺の愛しき妹だからな」
「違……わないけど違う、お兄ちゃん。お世辞じゃないよ、文字が大きくて読みやすいし」
「そうやとええんやけど……。まあ、下手でも勘弁してやってな」
多少照れながら、隆志は答えた。交換ノートの充実感は半端ではない。これがこれから毎日続くと思うと、心が躍る。
そんなドキドキを全て胸に押し込めて、隆志は弁当をかばんから取り出した。




