第31話
どれくらい寝ていただろうか。
目を覚ますと、カーテンの隙間から日が差し込んでいる。
微睡みから覚醒し、時計を確認する。スマートフォンの画面は午前十時を表示しており、それは同時に、仮眠と合わせて十時間以上寝ていたことも表していた。
「……さすがに帰ったかな」
そう独り言ちて、大きく伸びをする。
すると、リビングの方からなにか物音がした。
「なんだ?」
のそのそと立ち上がり、リビングへ向かう。
リビングに足を踏み入れた瞬間、香ばしい匂いが鼻先をくすぐった。焼き立てのトーストの甘やかな焦げの香りに、じゅうっと脂を弾かせたウインナーの濃い肉の匂いが重なる。そこへさらに、黄身を包み込む白身が焼けていく、ほのかに温かい匂いが混じり合い、朝の空気をひとつの食卓の景色に仕立てていた。
「あ、おはよう、立野くん」
キッチンからひょこっと顔を出したのは、昨日買ってきた寝間着にエプロンを付けた旭丘だった。
エプロンなんてどこで買ったんだろうか。そんなどうでもいい疑問が浮かぶと同時に、俺の口から思わず言葉が溢れた。
「え、新妻?」
「何馬鹿なこと言ってるのよ……。さっさとシャワーでも浴びてきなさい」
旭丘は呆れながら、ぐいぐいと俺をお風呂場へと追いやる。
瞬間、旭丘の髪からシャンプーの香りが鼻腔をくすぐった。
今俺の家には、俺が使うシャンプーやボディソープしかない。つまり、旭丘からは自分と同じ匂いがするのだ。
新妻なんて冗談を言ったが故に、それを強く意識してしまう。
年頃の男子高校生にとって、それはあまりにも刺激的だった。
「よくないな……」
そう独りごちると、
「なにがよ」
と元凶が不満げに口を開く。
「お前が悪い」
「はあ?」
悪態をつく旭丘を背に、俺は洗面所のドアを閉める。
いくらか深呼吸をして、無我の境地でシャワーを浴びるしかなかった。
身支度を整えてリビングに戻ると、机の上に朝食が並べられていた。
トーストとウインナー、目玉焼きにサラダが並ぶ、シンプルながらも間違いない完璧な朝食だ。
久しぶりに見たその光景に、俺は思わずテンションが上がる。
「おお、すげえ。ちゃんとした朝食だ」
「そんなにちゃんとしていないと思うけど……。あなた、いつもなにを食べてるの……?」
「朝は基本コーンフレークだな。ここ数年」
「コーンフレークが悪いとは言わないけどもっとちゃんと食べたら……?」
「時間なくてな」
「そう……」
一人で暮らしていると、どうしても食事をおろそかにしてしまうところがある。食べられたらなんでもいいし、多少足りなくともなんとかなってしまうから、どうしても雑になる。
「まあとりあえず食べよう、冷めるぞ」
「そうね」
「じゃあいただきます」
「いただきます」
トーストにかじりつくと、表面はこんがりと軽やかな歯ざわりを立て、中からはふわりとした温かさが広がった。バターが染みこんだ部分はじんわりと甘く、口の中で香ばしさと柔らかさが溶け合う。
ウインナーを噛めば、ぱちんと皮が弾け、熱を帯びた肉汁が舌にあふれる。塩気と脂の濃厚さが喉を刺激し、思わずもう一口を欲してしまう。
皿の端に置かれた目玉焼きは、白身の香ばしさとともに黄身がとろりと流れ、トーストにからめれば、また違ったまろやかさが口いっぱいに広がった。
その一つ一つの味わいが重なり合い、朝の静けさに、確かな満足が染み渡っていくようだった。
「美味い。さすが旭丘」
「大袈裟よ、焼いただけだもの」
「いや、俺にはこんな上手く焼けない」
「おだてるのは上手ね」
「本心だって」
「はいはい。また作ってあげるから」
言質を取ったところで、朝食を終えた。朝からこんなにしっかり食べたのは本当に久しぶりで、なんだか変な満足感がある。
「ごちそうさまでした。というか、言われるがまま食べちゃったけど、なんで作ってくれたんだ?」
流れに身を任せすぎてそのままいただいてしまったが、そもそも作ってくれていることが疑問だった。
「泊まった上にお風呂まで入らせてもらったんだからこのくらいするわよ。というか足りないくらい。掃除とかもして行こうかしら?」
「いやそこまではいいから……むしろやめてくれ……」
料理をしてもらうのと掃除をしてもらうのではわけが違う。部屋とか絶対に入ってほしくないしな。
なんでもいいから話題を変えたかったので、とりあえず思いつく言葉を口にした。
「今日はどうするんだ、このあと」
「うーん、一回帰ってお父さんのところに行くかな。来なくていいとは言われたけど、心配だし」
「そうか。お父さん、大丈夫なのか?」
理由こそ聞いていないが、旭丘のお父さんは過労で倒れてしまった。頑張りすぎてしまった理由も、なんとなく察しはしているが。
「一応あと一週間くらいで退院するみたい。お父さんの分も、私が頑張らないと」
「頑張るのは結構だけど、無理はするなよ。困ったら周りを頼れ。会長も先生も、まあついでに俺も、お前の力にならないやつはいないから」
旭丘に倒れられたら本末転倒だ。気合を入れるのは構わないが、空回りしないようにしてほしい。
「あなたはついでなんだ?」
「あの二人が優秀すぎるからな」
「ふーん。でも私は、立野くんのこと一番頼りにしてるけどね」
「……なぜ」
「教えてあげなーい」
そう煽るように言うと、旭丘はテキパキと片付けを始めてしまった。
疑問は残ったが、このまま座っているわけにもいかない。旭丘の後を追うように、俺も後片付けを始めた。
「忘れ物ないか?」
「うん、元々そんなに持ってきてないし」
寝間着から制服に着替えた旭丘を、玄関で見送る。明るいし、家まで送り届けることはしなくて大丈夫なはずだ。
「改めてお世話になりました。泊めていただいた上にお風呂も入らせていただいて」
ぺこりと頭を下げる旭丘。言葉こそ丁寧だが、かしこまった感じもしない適度な温度感だった。
「こちらこそ美味しい食事をありがとうございました」
そのテンションに合わせ、俺もお礼を言う。オムライスも朝食も本当に美味しかった。やはり旭丘の作る料理は美味しいと、改めてそう思わせてくれた。
「じゃあ、また学校で」
「ああ」
振り返り、ドアを開ける旭丘。
声をかけるつもりなんてなかったのに、俺は思わずその背中に呼びかけた。
「体育祭!」
「え?」
驚いた様子で、旭丘がこちらを見た。
「あ、いや……。体育祭、頑張ろうな」
なんとなく、そう声をかけたくなった。
「――うん!」
正直不安はある。
球技大会の二の舞になるんじゃないかとか、今度は俺が迷惑かけるかもしれないとか、そんな懸念が頭から離れない。
でも、今の旭丘とならどうにかなる気がする。
二人で支え合って、乗り越えられる気がする。
そう考えると、なんだか少し楽しみにしている自分がいることに気付いた。
「楽しみ、か……」
少し前の俺なら絶対に思わなかったことだ。やらなきゃいけないからやる、その程度にしか捉えていなかった。
けれど今は違う。旭丘とともに体育祭の運営を成功させたいと、旭丘と一緒に楽しみたいと思う自分がいる。
自分が変わっていくのを、まざまざと感じる。
それは間違いなく、旭丘と出会ってからだった。
不器用ながらも真っ直ぐで、自分の弱さを認めつつもそれに立ち向かう強さも持っている女の子。
そんな子が、俺を一番頼りにしていると言ってくれた。
だったら、頑張るしかない。
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