第26話
翌日、俺は旭丘の家の前にいた。
昨日は旭丘を前に連れ戻す宣言をした後すぐに解散し、一度東京に戻った。そして今朝、もう一度秋田にやってきたというわけだ。
帰りの新幹線、そして行きの新幹線で、どうしたら旭丘の母親を説得できるかを考えた。
話を聞くに、彼女は中々の堅物。立野彩人という他人が説得したところで、きっと耳も貸さないだろう。
だからやはり、旭丘が直接母親と話す必要がある。俺にできるのは、その舞台を整えるところまで。
けれどただ話し合いを促すだけでは意味がない。旭丘のほうから話をできるよう、仕向けなければならない。
その方法を、一つだけ思いついた。
あれだけ啖呵を切ってこんなことしかできないのは情けないが、どうしても俺は部外者だ。
当事者同士で話をしなければ、いつまでも解決はしない。旭丘も、母親の呪縛に囚われたままになってしまう。
だから、旭丘次第。
俺は一歩進み、大きく深呼吸した。
これからすることはきっと、愚かで軽率で不合理で、数年後に思い出したら恥ずかしくて死にたくなるような、そんな行為。
少し前の自分だったら、思いつきもしなかっただろう。
旭丘が俺に出会って徐々に変わり始めていたように、俺も旭丘に出会って徐々に変わっていたらしい。
多分、『普通』はこんなことはしない。
けれど、『普通』より大切なものが、きっとそこにある。
俺は大きく息を吸った。
「都立井荻高校二年E組、旭丘唯っ!」
喉が張り裂けそうな程の、大きな声で。
「同じく二年E組立野彩人はっ!」
いっそこの街に住む全員に届くように。
「俺の、個人的な理由でっ!」
もう一度、心から笑ってほしいから。
「お前を連れ戻しに来た!」
作戦もなにもない、ただ思いをぶつけるだけの荒唐無稽な策。
少しでも目立てば良い。母親を引っ張り出せたら、俺の勝ちだ。
思惑通り、少しずつ街がざわめき始める。こんな平日の午前中に叫びだす人間が現れたら当然の反応だ。
そんなのお構いなしに、俺はもう一度息を大きく吸った。
「第一印象は最悪だった! あの自己紹介は特に!」
鮮烈すぎる自己紹介は、見事にクラスメイトから距離を置かれることになった。俺としても信念が真逆の人間が来たことにあまり良い気はしなかったが、どうせ関わらないから関係ないと高を括っていた。
「でもお前と関わるようになって、俺の生活は一変したんだ!」
ひょんなことから生徒会に入り、最初の仕事が旭丘を生徒会に入れること。強制的に旭丘と関わることになってしまったが、体育倉庫でのあの一件から、旭丘唯という人物の人格が見えてきた。
彼女は、普通を押し付けられ続けてきただけの、いたって普通の女の子だった。
「行事の仕切り役を任されたり、料理を教えてもらったり、一緒にご飯を食べたり! そのどれもが俺にとって新鮮で、楽しかった!」
きっと旭丘と出会わなければ、一生経験しないようなことばかりだった。それも旭丘だからこそ楽しくて、嬉しかった。
「俺はこれからも、お前と一緒になにかやりたいんだ!」
一人でもできることかもしれない。
でも俺は、旭丘と一緒にやりたい。
旭丘と一緒に経験して、笑って、後悔して、失敗して、成功したい。
「だからっ!」
一番伝えたかったことを、心を込めて。
「一緒に帰るぞ! 旭丘っ!」
そこまで言い切って、激しく咽る。ここまで大きな声を出したのは久々だ。よく最後まで持ってくれたと思う。
膝に手を付き、肩で息をする。全力で叫ぶと、意外と体力を消耗することを初めて知った。
気がつけば周りにはそれなりの住人が集まってきていた。ほとんどが野次馬だろうが、同じことを東京でやったら恐らく即通報なので、これで済んでいるのは逆にありがたい。
そんな余韻を感じる暇もなく、旭丘の家の玄関が勢いよく開いた。
現れたのは旭丘の母親だった。眉間に皺を寄せ、怒気を孕んだ表情でこちらに向かってくる。
俺は背筋を伸ばし、相対した。堂々とすること。それが旭丘の母親と対峙するにあたって重要なことだと考えている。
「ちょっと! どういうつもり!? なんでこんなことをするの!?」
旭丘母は開口一番、随分ときつい口調で捲し立てた。
今の俺に対して、その口調は間違っていない。だが、いつもそんな様子で旭丘のことを詰めていたのだと思うと、無性に腹が立ってくる。
実の親にこんな剣幕で畳み掛けられたら、言いたいことも言えなくなる。
体育倉庫での一件がいい例だ。先輩たちに囲まれた旭丘は、明らかに取り乱していた。まともに話すこともできず、ただその場に立ち尽くす。それがどれだけ異常なことか。
あれを見ただけで、彼女が心に負った傷の深さがわかる。わかってしまう。
そんな俺を気にも留めず、彼女は更に続けた。
「やっぱり東京に行かせたのは間違いだったわ。こんなことになるなら閉じ込めてでも行かせないべきだった」
どこまでも自分本位で利己的な考え方。
娘が大事なのはわかる。だが、その娘の気持ちを無視して自分の気持ちだけを押し付け続けたことが、旭丘にとってどれだけ負担だったか。
「こんなに目立って……。ご近所さんにどうやって説明すれば……」
そこで、俺の限界が来た。
「この状況で、心配ごとはそれですか」
気がつけば、そんな言葉が口から出ていた。旭丘の母親と会話する気はなかったのだが、我慢できずに口を開いてしまった。
娘のことより、自分の保身なのか。近所の評判なのか。
何を言われても動じずにいようと思っていたのだが、初っ端から上手くいかなかった。つくづく駄目なやつだ。
だが、駄目なやつなら駄目なやつなりに、できることがある。
「旭丘さんがどれだけ苦しんできたか。どれだけ苦しんでいるのか。あなたはわかろうともしないんですか」
「な、なによ急に……」
「どこまでも自分の考えだけ押し付けて。彼女の意見を聞いたことが一度でもありましたか? 聞こうとしたことはありましたか?」
「……あなたには関係ないでしょう。部外者が出しゃばらないでくださる? とにかく。学校に連絡しますから」
最後まで、旭丘の母親は俺の質問にまともに答えなかった。
今までもこうして旭丘の意見を、気持ちを無視していたのだろうか。
碌に取り合わず、いなして自分の意見を押し付けていたのだろうか。
自分のことではないのに、自分がそれをされたわけではないのに、どうしてこんなに腹が立つ。わからない。
感情がこんなにも折り合わないのは初めての経験。自分でもどうしたらいいのかわからない。
どうしても抑えきれなくて、次の言葉を準備したその時だった。
「立野くん。――ありがと、私のために怒ってくれて」
旭丘母が驚いたように後ろを振り返ると、玄関の前に旭丘が立っていた。
凛とした佇まいで、この旭丘なら負けないと、そう思える雰囲気で。
ああ、よかった。来てくれた。
俺は心の底から安堵した。
あとは旭丘が、決着をつけるだけ。
「唯っ。この人はなに? どういう関係なの? ちゃんと説明して――」
旭丘の姿を見た途端、母親は先程と同様に一気に捲し立てた。これがこの人の娘に対するコミュニケーションだと思うと、今までの旭丘の苦労も伺い知れる。
だが、今の旭丘は違った。
「お母さん」
母親の言葉を遮るように、旭丘は口を開いた。
「ちょっと待ってて」
「っ……」
思わず、旭丘の母親は黙る。娘がこんな態度を取るなんて思ってもいなかったのだろう。
旭丘は堂々とした足取りで、俺の前に来た。
「随分と派手なことをするのね」
彼女は、晴れやかな顔をしていた。憑き物が落ちたとは、まさにこのことだと言わんばりに。
「まあ、お前の門出だからな」
「ふふ、大袈裟よ」
「後はお前次第だ。でも敢えて言うよ、頑張れ」
「うん、頑張る」
そうにこやかに笑うと、旭丘は再度母親と対峙した。
ここからは母と娘の時間だ。俺が入る余地は、もうない。
「おまたせお母さん。さっきの質問に答えるけど、この人は同じクラスで生徒会でも一緒の立野彩人くん。友達兼……恩人ね」
目の前で恩人なんて言われると、なんだか全身が痒くなるような気分になる。そう言われるほどのことはなにもしていないから尚更だ。
「ならどうしてそんな人がこんな真似をするの? あなたにはなにも関係ないでしょう?」
それは至極当然な疑問だった。旭丘の母親からしてみれば、謎のクラスメイトが急に家に来て叫びだしているようなものだから。
「そうだね、関係ない。でも彼はこうして、私とお母さんが話す機会を作ってくれた。その行動で私を奮い立たせてくれた。それが事実だよ」
「話す機会……? 奮い立たせる……? さっきからあなたは何を言っているの? 話す機会なんて、今までいくらでもあったじゃない」
「お母さんが一方的に話す機会なら、いくらでもあったね」
「……! 親に向かってなんて口の聞き方……!」
母親の熱が一段階上がったのが伝わってきた。それでも、旭丘は動じない。
「お母さんはやっぱり、私が歯向かうのが気に食わないんだね。だからいつも頭ごなしに否定して捲し立てて、私が口答えしないようにしてた。違う?」
「そんなの――」
「違わないよね。だって私がそうされてきた当事者なんだから」
「っ……」
沈黙が流れる。
母親もきっと、そう言われるまでは自覚がなかったのだろう。それが彼女にとって『普通』だったから。だがこうして娘に指摘されることで自覚してしまった。それがどれほど残酷なことであったかを、理解してくれるといいのだが。
旭丘は母親の両目をしっかりと見た。旭丘が改めて母親と向き合った、その瞬間でもあった。
「お母さん、私はここを出て東京に行きたい。お父さんと二人で、東京で暮らしたい」
それが旭丘唯の、心からの願いだった。
きっと今の旭丘なら、母親の制止を振り切って東京に行くことだってできるはずだ。でも、それをしなかった。
旭丘はあくまで対話を選んだのだ。自ら厳しい道を選んだ。
面と向かって話して、円満とは言わずとも説得させる。それが旭丘なりの、けじめの付け方だったのだろう。
「……お父さん今入院中でしょ? お父さんの世話しながら家のこともなんて、無理に決まってるわ」
なおも旭丘の母は食い下がる。
静観を決め込んでいたはずだったが、俺はここでも口を開いてしまった。案外、自制心がないのかもしれない。
「お言葉ですが、――旭丘さんはあなたが思っているよりずっとしっかりしてますよ」
旭丘が行う家事の全てを見た訳では無いが、料理をする際のあの慣れた手つきはかなり安心感があった。それだけで判断するのは早計かもしれないが、旭丘ならきっと大丈夫だと、そう思わせてくれる心強さを俺は垣間見ている。
俺の言葉を受けて、旭丘が続けた。
「大変かもしれないけど、私には頼れる友達がいる。頼れる先輩も先生もいる。だから安心して、お母さん」
「……」
絶対に折れない娘に、その娘の絶対的な味方、そして次第に増えていく野次馬。
長い説得の中で、ついにその時が来た。
「……好きにしなさい。お父さんには、私から言っておく」
旭丘の母はそう言って、足早に家の中へと戻っていった。
それと同時に、野次馬も霧散していく。いちいち気に障る連中だが、ここに住んでいない俺が毒づいたって意味がない。
今は喜ぶ場面だ。
そう思って旭丘に声をかけようとした時、彼女が胸に飛び込んできた。というか、抱きついてきた。
「やった! やったよ立野くん! 私、お母さんとちゃんと話せた!」
俺の胸の中で、喜びを噛みしめる旭丘。
華奢だが柔らかい感触と、女子特有の甘くていい匂いで頭がおかしくなりそうだ。
俺はなんとか理性を保ちつつ、旭丘に声をかけた。
「そうだな、嬉しいな……。でも旭丘、今は少し冷静になってくれ……」
その言葉が届いたのか、旭丘はぴたっと動きを止めた。
そして勢いよく俺の胸を突き飛ばした。
「ぐえっ」
思わずそんな声が出るくらいには、強力な一撃だった。
「い、今のは! その! 感極まって! 別にやましい気持ちとかないから!」
「いや、うん……わかってるよ……。忘れるから……」
「わ、忘れんな!」
「ええ……?」
しばらくわたわたしていた旭丘が落ち着くのを待って、俺は口を開いた。
「じゃあ、行くか」
「え?」
「東京、一緒に帰ろう」
旭丘は一瞬目をぱちくりとさせたが、すぐに破顔して、
「うん!」
そう、最高の笑顔を見せた。
ああ、やっぱり。
お前にはその顔が、一番似合ってる。
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