第15話
「お、お邪魔します……」
俺が暮らしているマンションの一室に、旭丘が足を踏み入れる。
提案したときはさすがに旭丘も難色を示したが、結局他に良い案は浮かばず立野家に決定した。幸い俺と旭丘が使っている路線が同じで駅も近いことが判明したので、旭丘がすぐ帰ることのできる場所でもある。
そんな彼女はといえば、どうやら緊張しているらしい。少しでもほぐれれば、そんな思いで俺は冗談を言って場を和ませることにした。
「ちなみに今日は親帰ってこないから助けを呼んでも誰も来てくれないぞ」
「死ね」
お、和んだ和んだ。
まあ俺も緊張していないと言えば嘘になる。誰かを家に呼んだことすらまずないし、女子なんてなおさらだ。こんなことがあるなんて思ってもなかった。
そもそも家に異性を呼ぶという時点で『普通』ではないのだが、料理を教えてもらうのにこれほど最適な場所はなかった。お金も時間の制約もない場所なんてそうありはしない。
「キッチンはどこ?」
すっかりいつもの調子に戻った旭丘にそう聞かれたので、俺はキッチンに案内した。
立野家のキッチン。普段全く使われずに非常に綺麗な状態を保っているそれは、本日ようやく日の目を見る。
「立派なキッチンね」
「まあ誰も使ってないからな」
このマンションに越してきたのは俺が高校生になるタイミング。そのときにはもう一人暮らしのようなものだったし、親はたまに返ってきても料理はしないので、まともに稼働するのは今日が初めてということになる。今までごめんな……。
とはいえ最低限の調理器具だけは揃っているので、先程寄ったスーパーマーケットでは今日使う食材と調味料一式を買い込んだ。
食材を冷蔵庫に入れて、調味料をキッチンに並べる。
その様子がどうもカップルみたいだったので、
「なんか同棲してるみたいだな」
と冗談で言ったら本気で脇腹を殴られた。もう緊張は解けたらしい。
調味料を並べるだけで、ちゃんとしているキッチン感が出てきた。もしかして料理できちゃうか、俺……。
「なんか愚かなこと考えてそうな顔ね」
「失礼な。未来の俺に思いを馳せてたんだよ。それよりお前、普段どれくらい料理するんだ?」
俺のふとした質問に、旭丘は事もなげな顔で答えた。
「毎日ね。私とお父さんの分毎食」
「……それ、すごく大変じゃないか?」
「そう? 慣れちゃったからわかんない。……もう良い時間だし、そろそろ始めましょうか。でも、作るもの本当にこれでいいの?」
「ああ、それが食べたかったから」
「なら、いいけど。じゃあ始めるわよ」
「よろしくお願いします」
こうして、旭丘唯によるお料理教室が始まった。
正直、かなりのスパルタが待っていると思っていた。それこそ罵詈雑言が飛んでくるとか、そういうレベルの。
だが現実は違った。
俺の包丁の持ち方が危うければ、
「あ、ちょっとその持ち方だと危ないわね。こうやるといいわよ」
と後ろから持ち方を教えてくれたり、俺が野菜をそれなりに切ることができれば、
「あら、意外と上手いじゃない。結構筋良いわよ」
と褒めてくれたり、俺がありえないミスをしても、
「最初はそんなものよ。気にしないで次行きましょう」
と慰めてくれたりする。
「いや優しすぎる!」
気がつけば俺は叫んでいた。
「うわびっくりした……なによ……」
「もっと厳しいのかと思ってたよ! なのに蓋開けてみたらこれ! 面倒見良すぎるだろ!」
「あなたは一体何に怒っているの?」
旭丘の冷静なツッコミも今の俺には届かない。
いくらお礼とはいえ、あまりにも丁寧すぎる指導に俺は驚きを隠せずにいた。だってもうこんなのマンツーマンの料理教室だ。いや、確かに料理教室は料理教室なのだがクオリティが想像の五倍は上だった。
「……すまん、取り乱した」
なんとか冷静さを取り戻し、もうほとんど完成と言っていい料理たちに向き直る。
「ほんとよ……。変なこと言ってないで手伝って」
俺は旭丘の横に並び、一緒に盛り付けを開始した。旭丘はさすがと言ったところか、作業に何一つ迷いがない。毎日料理しているとこんなにもスムーズに事を運べるのか。
「にしても手慣れてるな」
俺のふとした言葉に、今まで何があっても動いていた旭丘の手が一瞬止まる。
だが何事もなかったかのように盛り付けの作業を再開した。それと同時に、口を開いた。
「母親にね、仕込まれたのよ。女は料理できなきゃだめって。それこそ小学生の時くらいからね」
「そんな小さい時から」
「そう、危ないわよね」
そう言って彼女は笑った。その笑顔がどういった感情から来たものか俺にはわからないが、なんだか哀しく見えるのは、きっと気のせいじゃない。
「でも、今になって意外と役に立ってるのよ。こうしてあなたに教えられてるし、お父さんにご飯だって作ってあげられる。……皮肉なものよね。あれだけ嫌だったのに今はこうして自分のためになってる。感謝しないと、いけないわね」
「そうか?」
「え?」
予想していない言葉だったのか、旭丘は驚いたような顔をこちらに向けた。
「確かにきっかけは母親だったかもしれないが。そこからここまでできるようになったのはお前の努力があったからだろ。しかも並大抵の努力じゃない。だから感謝する必要なんてないな」
料理ができないから詳しいところまではわからないが、素人目に見ても彼女の手際の良さというのは料理を少しかじったくらいじゃできないものであることは確かだった。
それは紛れもなく彼女が努力で獲得したもので、決して誰かのおかげではない。
無理に感謝する必要なんてないのだ。そして感謝しないからといって、それを誰かになにか言われる筋合いもない。
「これは私の努力だって、胸張って言っていいものだと俺は思うぞ」
「……」
旭丘はぽかんとした顔をしている。
だがその表情も一瞬で、彼女は可笑しそうに笑った。
「……あなたって、やっぱり変」
「何言ってんだ俺は普通だぞ」
「そういうところよ。ほら、できたからお皿運んで」
そういうところってどういうところだと思いつつ、俺は旭丘の指示通りにお皿をリビングのテーブルへと運んだ。
「じゃあ食べましょうか。いただきます」
「いただきます」
俺のリクエストは豚の生姜焼きだった。理由は単純に食べたかったからである。決して簡単そうとか思ったわけではない。
実際難しくはなかったが、思っていたよりも工程が多かった。というより、旭丘が味に妥協せず手間をかけたから増えた、という方が正しいかもしれない。
豚肉には下味をつけ焼く前に小麦粉を軽く降り、にんにくや生姜はチューブを使わず生のものを使い、付け合せのキャベツや野菜なども出来合いのものを使わなかった。
もちろん俺もボトルで売っているタレやチューブを使うことが悪だなんてことは一ミリも思っていない。楽できるならしたほうがいいとさえ思っている。
けれど彼女はどこまでも料理に真摯だった。そして料理自体を楽しんでいると、俺は勝手にそう思った。
湯気を立てる皿の上には、きつね色に焼き上がった豚肉が幾重にも重なっている。表面には生姜の香りを含んだ照りのあるタレが絡みつき、照明の下でつややかに光っていた。
箸で一枚をつまむと、肉は柔らかく、それでいて少し弾力を感じさせる。口に運んだ瞬間、熱々の肉汁と一緒に、甘辛い醤油のコクと生姜の爽やかな香りが広がった。
「うまっ」
気づいたときには、そう口に出していた。
噛むたびに肉の旨みとタレの濃厚な味わいが舌に染み込み、ご飯を思わずかき込みたくなる。ほんのり香ばしい風味と生姜の爽快さが後味を引き締め、箸が自然と次の一枚へと伸びていった。
「え、うまい。今まで食った生姜焼きの中で一番うまい」
「そんな大げさな……」
「いやまじだって。うますぎる」
そう言って俺は白米をかき込む。
「美味しそうに食べるわねあなた……」
「だってうまいから」
「……そう」
手伝ったといえど、この料理をメインで進めたのは旭丘だ。彼女の丁寧な工程は、間違いなく味にも影響していた。
そして気がつけば、豚肉を二枚ほど残し白米を完食してしまっていた。
「あ、なくなった……」
「……おかわりあるけど」
「お願いします!」
「はいはい」
旭丘は仕方なくといった感じで俺からお茶碗を受け取り、白米をよそって持ってきてくれた。
「どうぞ」
「ありがと」
その様子がなんだか可笑しくて。俺は思わず笑ってしまう。
それにつられてか、旭丘も笑った。
「なんだ今の」
「ほんとよ」
「でもあれだな、人とご飯食べるっていいな」
夕食時に笑ったのなんていつぶりだろうなんてことを考えていたら、そんな言葉が漏れていた。
「……」
「あ、いや悪い。変なこと言った」
平日の昼食こそ湊や知佳と一緒に食べることはあるが、夕食は毎日一人だ。それが何年も続いているのでもうそれに慣れてしまったと思っていたが、どうやらそうではないらしい。
「……別に、たまになら料理教えに来てあげてもいいけど」
旭丘はそっぽを向いてそんなことを言った。けれどその提案は、俺にとって願ったり叶ったりだった。
「ほんとか!? めちゃめちゃ助かるぞそれ。というか毎日でもいいな。もういっそ一緒に住むか?」
「住まないわよ!」
不思議と旭丘が家にいるのは嫌じゃなかったので提案してみたが、やはり難しいみたいだ。クソ、俺が女の子なら……。
「でも、一週間に一回くらいならいいわよ……」
一週間に一回くらいならいいんだ。
結構な頻度だぞそれは思いつつもそこに突っ込むと来てくれなさそうなので、あえて黙っておく。
「じゃあ、頼むよ」
「ええ、わかったわ」




