4話 深緑のドレスと祭典の灯り、そして公爵様の静かなる怒り
待ちに待った『海の祭典』の当日。
港町は朝からお祝いムードに包まれ、丘の上にある私のお店まで、陽気な笛の音や、屋台から漂う甘ばしい香りが風に乗って運ばれてきていました。
夕方になり、早めにお店を閉めてお祭りに向かう準備をしようとしていた私の元に、カランコロンと勢いよくドアベルを鳴らして、仕立て屋のマチルダさんが大きな箱を抱えてやってきました。
「マチルダさん? どうしたんですか、そんなに大きな荷物」
「ふふっ。いつも私の目と肩を癒やしてくれているお礼よ。さあ、早く着替えてちょうだい!」
箱の中からふわりと現れたのは、仕立ての美しい一着のドレスでした。
落ち着いた深い緑色の生地は、上質なシルクで織られており、動くたびに夜の海の水面のように滑らかな光沢を放ちます。胸元と袖口には、派手すぎない繊細な白いレースがあしらわれていました。
「あ、あの……こんなに高価なもの、いただけません! 私にはもったいなすぎて……」
「いいのよ。あなたのそのテラコッタ色のふんわりした髪には、絶対にこういう深い緑色が似合うと思っていたの。……ほら、やっぱりね。見違えるように綺麗だわ」
鏡の前に立たされた私は、そこに映る自分の姿に思わず息を呑みました。
実家で着ていた、洗っても洗っても泥の匂いが落ちない、継ぎ接ぎだらけの麻のワンピースでも。いつもの働きやすいエプロン姿でもない。
まるで、絵本の中に出てくるお姫様のように、綺麗にドレスアップした私がそこにいたからです。
カランコロン。
その時、控えめで上品なドアベルの音が鳴り、約束の時間ぴったりにクロード様がお店に入ってきました。
今日は王宮の公爵としての堅苦しい正装ではなく、仕立ての良い漆黒のシャツに、上質な薄手のロングコートを羽織った、少しだけラフな出で立ちです。それでも、彼がまとう高貴な雰囲気と息を呑むほどの美しさは、少しも隠せていませんでした。
「リアナ、迎えに……」
言葉を紡ぎかけたクロード様は、ドレスアップした私を見た瞬間、ピタリと動きを止めました。
少しだけ目を丸くして、それから、深い緑色の瞳で私をじっと見つめます
「……あの、おかしいでしょうか。やっぱり、私なんかがこんな綺麗なドレスを着るなんて、不釣り合いで……」
私が恥ずかしくなって俯きかけると、「いや、違う」と、ひどく優しく、落ち着いた声が降ってきました。
クロード様は、流れるような優雅な足取りで私に近づき、ふわりと微笑みました。
「とても綺麗だ、リアナ。その深い緑色が、君の髪と本当によく似合っている。……今日のエスコート役を任せてもらえて、光栄だよ」
大人の余裕を感じさせるスマートな称賛に、私の顔は一気にストーブの火のように熱くなってしまいました。
彼のエスコートで丘を下る間も、少しだけ触れ合う袖口や、さりげなく段差で差し出される彼の手の温もりに、心臓がトクトクと鳴りっぱなしです。
町はすっかり夜の帳が下り、祭典の魔法のランタンが幻想的なオレンジ色の光を放っていました。
屋台からは香ばしい串焼きや、バターと砂糖の焦げる甘い匂いが漂い、すれ違う人々は誰もが笑顔で笑い合っています。
「はぐれないように。……私のそばを歩くといい」
人混みの中で、クロード様は私がぶつからないように、行き交う人々の波からさりげなく守ってくれました。
屋台で売られていた、銅貨一枚のホカホカのフルーツパイを二人で分け合ったり。空高く舞い上がる光の粒を使った大道芸を、並んで見上げたり。
実家では、仕事以外で外に出ることすら許されなかった私にとって。誰かと一緒に歩くこの時間は、すべてが宝石のようにきらきらと輝いて見えました。
「少し人混みを抜けよう。君に見せたい場所があるんだ」
クロード様に案内され、私たちは喧騒から少し離れた、海を見下ろせる静かな高台へとやってきました。
眼下には、町の人々が海へ流した無数の『魔法の灯り』が、波間に揺らいでいます。それはまるで、海の中に天の川がこぼれ落ちたかのような、言葉を失うほどの絶景でした。
「わあ……っ、綺麗……」
「ああ。……君をここに連れてくることができて、本当に良かった」
海風が吹き抜ける中、クロード様は、祭典の光を映して輝く私の横顔を見て、心から安堵したように目を細めました。
その穏やかな空気に、私がほっと息をついた、その時でした。
「――見つけたぞ!! こんなところでヘラヘラ笑っていやがったのか、この恩知らずが!!」
波の音と静寂を切り裂くような、ひどく耳障りで下品な怒声。
ビクッと肩を震わせて振り返ると、そこには、信じられないほど薄汚れ、酸っぱい悪臭を放つボロボロの服を着た四人の男女が立っていました。
叔父と叔母、そして、かつて私を無能だと見下していた従兄と従姉でした。
「お前がいなくなってから、うちの生活はめちゃくちゃだ! 家も財産もすべて失って、毎日泥水みたいなスープをすするハメになったんだぞ!」
血走った目で私を睨みつけ、涎を垂らさんばかりの醜い形相で叔父がわめきます。
それに続くように、かつて仕立ての良い制服を着てふんぞり返っていた従兄が、ギリギリと歯ぎしりをして叫びました。
「そうだ! お前が俺たちの世話を放り出したせいで、俺は学院を退学になったんだぞ! 将来の王宮エリートである俺の人生をどうしてくれるんだ!」
「ちょっとリアナ! あんた、今すぐ私のドレスを洗いなさいよ!」
髪を振り乱した従姉が、ひび割れて黒ずんだ自分の両手を私に突きつけて金切り声を上げます。
「あんたがいないせいで、私が冷たい水で水汲みも洗濯もするハメになったのよ! 見てよこの手! 王宮の貴族に嫁ぐはずだった私の肌がボロボロじゃない! さあ、さっさと戻って、私のために朝から晩まで働きなさいよ!」
次々と浴びせられる、身勝手極まりない言葉の数々。
自分たちで私の加護を失い、自業自得で落ちぶれたというのに、彼らはすべてを私のせいにし、私を再び「便利な道具」として冷たい鎖に繋ごうとしているのです。
冷たい床の上で震えていた過去のトラウマがフラッシュバックし、私は思わずギュッと目を閉じ、身をすくませました。
「ほら、さっさとこっちへ来い!」
従兄が太い腕を振り上げて、私に掴みかかろうと突進してきます。
しかし。
その泥だらけの手が私のドレスに触れるより早く、私の前にスッと黒い影が割り込みました。
クロード様が、流れるような美しい動作で私を背中に庇い、従兄の振り上げた腕を、手袋越しの片手でいとも容易く受け止めたのです。
「……誰の許可を得て、私の恩人にその汚らわしい手で触れようとしている?」
怒鳴り声ではありませんでした。しかし、その静かで氷のように冷たい声は、高台の空気を一瞬にして凍りつかせました。
空気が歪むような、荒々しい魔力の暴走はありません。ただ、そこに立っているだけで息ができなくなるような、絶対的な支配者としての威圧感が満ちていました。
「な、なんだお前は! 俺たちの家族の問題に口を出すな!」
叔父が威嚇するように叫びますが、クロード様の表情には微塵の感情も浮かんでいません。ただ、路傍の小石を見るような、ひどく冷淡な眼差しがそこにあるだけでした。
「家族、だと? ……口を慎め。貴様らの吐く息一つで、この神聖な夜の空気が汚れる。彼女は、私の命を救った奇跡そのものだ。それを……貴様らのような泥にまみれた者が、所有物などと口にするな」
「ひっ……!?」「な、なんだこの力は……息が……っ!」
圧倒的な高位貴族としての威圧感に気圧され、叔父一家は四人揃って顔を真っ青にしてその場にへたり込みました。
クロード様は、まるで本日の天気を語るかのように、優雅で冷徹な微笑みを浮かべました。
「王宮で働くことが息子たちの夢だと言っていたな。ならば、私がその夢を叶えてやろう。王家の直轄地である、北の最果ての魔石鉱山……そこに空きがある。陽の光も届かない地下百メートルの底で、這いつくばって泥水をすすりながら、数百年かけて国のために貴様らの借金を返す労働に従事するといい。立派な王宮勤めではないか」
「そ、そんな……! 嫌だ、助けて! リアナ、リアナごめんなさい! 私たちが悪かったわ!」
「許してくれ! 俺たちは家族だろう!?」
今度は手のひらを返したように、私に向かって醜く命乞いを始める四人。しかし、私の心には何の感情も湧きませんでした。彼らの言葉には、ただ自分たちが助かりたいだけの身勝手な響きしかなかったからです。
「……連れて行け。二度と彼女の視界に、この者たちを入れるな」
クロード様が軽く指を鳴らすと、闇の中から音もなく黒装束の騎士たちが現れました。彼らは熟練の動きで泣き叫ぶ叔父一家の口を塞ぎ、あっという間に闇の奥へと引きずり出していきました。
遠ざかっていく悲鳴が完全に聞こえなくなると、高台には再び、優しい波の音と、遠くの祭典の音楽だけが戻ってきました。
「……リアナ」
クロード様が、ゆっくりと私の方へ振り返ります。
先ほどまでの、冷酷で恐ろしい威圧感は嘘のように消え去り、そこにあったのは、春の陽だまりのように優しく、穏やかな眼差しでした。
「怪我はないかい? ……すまない。せっかくの美しい夜に、無粋な真似をしてしまったね」
クロード様は、ご自分の着ていた薄手のコートを静かに脱ぐと、夜風に震えていた私の肩に、ふわりと優しく羽織らせてくれました。
厚みのある布地から伝わってくる温かな体温と、微かに香る紅茶のような良い匂いが、私の中に少しだけ残っていた過去のトラウマを、じんわりと溶かしてくれます。
「クロードさん……ありがとうございます。
私…平気ですよ。あなたが守ってくれましたから」
私が微笑むと、彼はホッとしたように目を細めました。
「もう、君を過去の鎖に縛り付けるものは何もない。……私がすべて断ち切ったからね」
耳元に届く落ち着いた声は、この世のどんな魔法よりも心地よく、私に安心感を与えてくれました。
「だから、どうかこれからは、この町で心穏やかに笑っていてほしい」
私を苦しめていた過去の亡霊たちは、彼の手によって完全に消え去りました。
コートの襟をぎゅっと握りしめ、眼下に広がる祭典の美しい光の海を眺めながら、私は自分の本当の居場所が、この温かい町にあることを静かに確信していたのでした。




