3話 失われた加護と冷たい風の予感
港町での生活は、毎日が小さな発見と喜びに満ちていました。
朝、窓を開けて海風をいっぱいに吸い込むと、キラキラと輝く水面が「おはよう」と挨拶をしてくれる気がします。足元では、すっかり毛並みがツヤツヤになった黒猫のノワールちゃんが「にゃあ」と朝のミルクをねだってすり寄ってきます。
丘の上の『ワンコイン薬局』には、お金のない人だけでなく、町の人たちが色々なものを持ってやってくるようになりました。
「リアナちゃん、おはよう! この前の胃薬のお礼よ。今朝あがったばかりの白身魚なんだけど、すごく新鮮だからお刺身にして食べてね」
「こっちは焼きたてのパンだよ! 少し焼きすぎちゃったから売り物にならないんだけど、味は保証するよ。いつも肩こりの薬をありがとうな!」
銅貨の代わりにカウンターに置かれる、とれたての海の幸や、ホカホカの湯気を立てるパン。
私はそのお礼に、とっておきの薬草をすり潰し、ほんの少しの岩塩を混ぜて、パンにぴったりの特製ハーブバターを作ってあげます。それを一口食べたパン屋のおじさんは、「こいつは王宮の晩餐会に出せる味だ!」と目を丸くして喜んでくれました。
かつて引き取られた親戚の家では、私は存在しないもののように扱われていました。
どれほど懸命に床を磨いても、冷たい井戸水で手をあかぎれだらけにして洗濯をしても、労いの言葉一つかけられることすらありませんでした。ただ「遅い」「不味い」と罵られるだけの、透明な労働力。
それが今はどうでしょう。
私の作ったお薬やご飯で、誰かが笑顔になり、温かい「ありがとう」の言葉を返してくれる。そのことが嬉しくて、窓から見える青い海を眺めるたび、胸の奥がじんわりと温かく満たされていくのです。
* * *
一方、私が去った後のあの親戚の家は、まさに音を立てて崩れ去っていきました。
実家にいた頃、私が何気なく種を撒いた野菜は驚くほど豊作になり、私が撫でた家畜たちは病気一つせず丸々と太り、家族は不思議なほど幸運に恵まれていました。
私自身も気づいていませんでしたが、五百年ぶりに目覚めた魔女の血を引く私が、無意識のうちに注いでいた『光の粒』が、あの屋敷全体を清め、彼らの裕福な生活を強力に底支えしていたのです。
しかし、私が家を出た翌朝から、彼らの世界は一変しました。
最初におかしくなったのは、庭の畑でした。
あれほど青々と茂っていた野菜は、たった一夜にして水分を失ったように枯れ果て、おびただしい数の害虫が群がりました。土は驚くほど硬く凍りつき、クワを振り下ろしても石のように跳ね返されるばかり。まるで、大地そのものが彼らを受け入れることを拒絶しているかのようでした。
私が毎日優しくブラッシングをしていた家畜たちも、彼らが粗雑に餌を投げ与えようとすると暴れて威嚇し、ついには檻を壊して森へと逃げ出してしまいました。
いくら掃除をしても、家の中にはすぐに黒いカビが繁殖し、ジメジメとした不快な悪臭が漂い始めます。
「おい、今日のスープは泥水か! それにこの服のシワはどういうことだ!」
「私に怒鳴らないでよ! あの役立たずが逃げたせいで、私が全部やらなきゃいけないんじゃない!
あーもう!、せっかくの絹のドレスが井戸水でダメになっちゃったじゃない!」
最初は「あの小娘がいなくなったせいだ」と怒り狂い、互いに責任を押し付け合っていた親戚たちでしたが、日が経つにつれ、彼らの顔から余裕は完全に消え失せました。
一番の収入源だった私の薬草採りがなくなったことで、生活費はあっという間に底をつきました。高額な学費が払えなくなった従兄と従姉は、特権階級の学校を退学になり、王宮のエリートになるという夢も無惨に散りました。
やがて、借金取りが毎日ドアをバンバンと叩くようになり、かつて着飾っていた高級な服や家具もすべて質に入れ、最後には屋敷そのものを手放して夜逃げをすることになったのです。
極度の飢えと不運に追いつめられ、泥にまみれた彼らの心に芽生えたのは、自分たちの行いへの反省などではありませんでした。
「すべてを奪って逃げたリアナ」への、どす黒く歪んだ執着でした。
……港町から遠く離れた、隣町の薄暗い酒場。
酸っぱい安酒の匂いが立ち込めるテーブルで、人相の変わった叔父と叔母は、血走った目で古い地図を広げていました。
「……まだ見つからんのか。あの小娘、一体どこに消えやがった!」
叔父がバンッ!と机を叩くと、空の瓶がガタりと揺れました。
その顔は頬がこけ、目元には濃いクマができ、かつて私を見下していた傲慢な貴族の面影はどこにもありません。
「絶対に見つけ出さなきゃ……! あの子さえ連れ戻せば、また元の生活に戻れるのよ。あの便利な道具さえいれば、こんな惨めな暮らしとはおさらばなんだから!」
叔母の目は、憎悪と渇望でギラギラと濁りきっていました。
飢えと貧困が彼らの理性を食いつぶし、かつて「無能」と見下していた私を、今度は「自分たちを救う魔法の生贄」のように求めていたのです。
彼らは、あちこちの村で私の似顔絵を見せては、死に物狂いで聞き回っていました。
そして数日前、通りすがりの行商人からたまたま耳にしたのです。
『ずっと東にある港町で、テラコッタ色の髪をした小娘が、どんな痛みも治す不思議な薬をたったの銅貨一枚で売っているらしい』と。
その噂を頼りに、泥だらけの靴を引きずりながら、彼らは血眼になって東へと向かっていました。私を捕らえ、その手足を縛ってでも連れ帰るために。
* * *
そんな恐ろしい足音が少しずつ近づいていることなど、露ほども知らない私は。
今、ストーブの火が温かく燃える店内で、クロード様と穏やかな時間を過ごしていました。
「……君の淹れる紅茶は、どうしてこうも心が落ち着くんだろう」
クロード様は、いつものように私が磨き上げた松の木のイスに深く腰掛け、琥珀色の液体を静かに口へ運びます。
昨日の出来事から、彼が私に向ける視線は、以前よりもずっと熱を帯びているような気がしました。彼がこのお店を「王宮の玉座よりも座り心地がいい」と呼んでくれるたび、私の胸はトクトクと甘い音を立てて高鳴るのです。
「ふふっ、ありがとうございます。今日はお茶請けに、町のおかみさんがくれた焼き菓子を添えてみました。少し不揃いですけど、甘くて美味しいですよ」
私が小皿を差し出すと、クロード様は手袋を外した美しい長い指でそれをつまみ、ふわりと柔らかな微笑みを浮かべました。
王宮で見せる冷徹な公爵様の仮面は、この店の中ではいつも綺麗さっぱり剥がれ落ちています。私だけに見せてくれる、素直で、どこか無防備で、少しだけ疲れた青年の顔。
窓の外からは、数日後に迫った『海の祭典』の準備をしている町の人たちの陽気な音楽が、かすかに風に乗って聞こえてきました。
「ねえ、クロードさん。……数日後の、祭典の夜」
私は、エプロンの端を少しだけギュッと握りしめながら、思い切って口を開きました。
「もしよかったら……一緒に、少しだけ抜け出しませんか?」
自分でも驚くほど、大胆なことを言ってしまいました。顔が、ストーブの火よりも熱くなっているのがわかります。
クロード様は、持っていたティーカップを置く手をごくわずかに止め、一瞬だけ驚いたように目を見開きました。
しかし、やがてその深い緑色の瞳にとろけるような甘い光を宿して、カウンター越しに私の手を取りました。
「光栄だ。……君からの誘いを断る理由など、世界中のどこを探してもない」
彼の手のひらの温もりが、私の指先からじんわりと伝わってきます。
二人の静かで穏やかな時間が、この小さな薬局の中に降り積もっていく。
この時、私はまだ知りませんでした。
私を縛り付けようとする過去の亡霊たちが、すぐそこまで迫っていることを。
ガタッ。
突然、冷たい海風が丘を吹き抜け、古い薬局の窓ガラスを不吉な音で鳴らしました。
足元で眠っていたノワールちゃんが、ピクッと耳を動かし、警戒するように低い声で「るる……」と喉を鳴らします。
それはまるで、私のこの温かい居場所を脅かす、静かな嵐の始まりを告げる合図のようでした。




