2話 呪われた黒猫と、国宝級のベリージャム
港町の朝は、遠くから聞こえる定期船の汽笛の音と、ウミネコたちの元気な鳴き声で始まります。
丘の上にある私のお店『ワンコイン薬局』の木でできた重たい雨戸をよいしょっと押し開けると、キラキラと輝く青い海が、まるで一枚の巨大な絵画のように広がっていました。
昨日の冷たい雨が嘘のように、今日は雲ひとつない澄み切った青空です。
朝の海風が、ほんの少しの潮の香りと一緒に、お店の中へと吹き込んできます。
私のテラコッタ色のふんわりとした髪をくすぐっていく風は、実家の畑で毎日嗅いでいた泥と家畜の匂いとは違って、とても優しくて、胸がいっぱいになるくらい気持ちのいいものでした。
「……にゃあ」
大きく深呼吸をしたその時、足元からか細い鳴き声が聞こえました。
視線を落とすと、入り口の木箱の影に、雨風に打たれて泥だらけになった小さな黒猫がうずくまっていたのです。
「あらあら、どうしたの? 迷子になっちゃった?」
私がしゃがみ込んで覗き込むと、その黒猫は警戒するように「シャーッ」と弱々しく牙を剥きました。
でも、ただの野良猫ではないことが、私にはすぐにわかりました。
泥だらけの毛並みの下にある金色の瞳はとても賢そうに輝いていて、何よりも私の目には、その小さな体にどす黒くて冷たい『ヘドロのような呪いの澱』が、べっとりとへばりついているのが見えたのです
「かわいそうに。昨日の雨の中、ずっと寒かったわよね。少し待っていてね、今すぐ温かくしてあげるから」
私がそう言って立ち上がろうとすると、黒猫は器用に前足を使って、どこから持ってきたのか、銅貨をチャリンと一枚、私の足元に押し出しました。
まるで「これでお代は払う」と言わんばかりの誇り高い仕草に、私はふふっと笑ってしまいました。
「いらっしゃいませ、小さなお客様」
私は急いでストーブに火を入れ、カウンターの奥から小さな乳鉢を用意しました。
甘みのある薬草の根っこと、体をポカポカに温めてくれる木の実を入れ、乳棒でゴリゴリ、トントンとすり潰していきます。
お薬の優しい成分が一番出やすくなるように、繊維を傷つけないよう優しく、でも力強く。
実家で毎日、従兄たちに「遅い!」と怒鳴られながら、硬い麦を朝から晩まですり潰させられていた経験が、こんなところで誰かを助ける役に立つなんて思いもしませんでした。
きめ細かい粉末になったところで新鮮なミルクを注ぎ、銅の小鍋に移してストーブの火にかけます。
パチパチとはぜる薪の音を聞きながら、焦げないようにゆっくりと木べらでかき混ぜます。
ミルクの中に宿る温かい光の粒たちが、薬草の光の粒と手をつなぎ合い、元気いっぱいにふっくらと膨らんだ瞬間。
お鍋の縁に細かな泡が立ち、甘くて香ばしい匂いがふわりと立ち昇ったその一瞬を見計らって、さっと火から下ろしました。
「はい、お待たせ。特製の甘いミルクのお薬よ。火傷しないように、ゆっくり飲んでね」
小さな浅いボウルに入れて鼻先に置いてあげると、黒猫はくんくんと匂いを嗅いだ後、ペチャペチャと勢いよく飲み始めました。
その瞬間です。
ポンッ、と小さな音を立てて、黒猫の体を覆っていた重たい呪いのモヤモヤが、温かい光に包まれて空気に溶けてしまったのです。
「……あたたかい。なんだこれは、体が雲のように軽いぞ!? あの忌々しい呪いが、こんな甘い汁で解けたというのか!?」
いきなり猫が低い男の人の声で喋り出したことには少し驚きましたが、前世では喋る鳥の患者さんもいたので、私はのほほんと微笑みました。
孤独と苦痛に満ちていた彼の金色の瞳に、元気な光が宿ったことが何よりも嬉しかったのです。
「我輩はノワールだ。人間の小娘、お前の腕を気に入った。今日からここで用心棒をしてやろう」
「ふふっ、よろしくね、ノワールちゃん」
ノワールちゃんは、ストーブのそばにある私のお手製クッション(実家から持ってきたボロ布を縫い合わせたものですが、ふかふかです)にぴょんとよじ登り、丸くなって気持ちよさそうに寝息を立て始めました。
どうやら、お店に新しい家族ができたみたいです。
そんな可愛い寝姿を横目に見ながら、私は開店のお掃除に取り掛かります。
今日念入りにお手入れをするのは、患者さんが座るイスです。
町の中古屋さんで、「傷だらけだから」と銀貨の端数で安く譲ってもらった松の木のイス。ところどころに深い傷があって、座るとほんの少しだけギシッと音が鳴る、年季の入ったものでした。
実家の従姉なら「こんな汚いイス、私の制服が汚れるわ!」と蹴り飛ばしていたでしょう。
でも、私にとっては大切な、患者さんを迎え入れるための家具です。
「せっかく来てくれる患者さんには、リラックスして座ってほしいものね」
私は蜜蝋をたっぷりと布に取り、木目に沿って丁寧に、丁寧に磨き込んでいきます。
傷のあるところは特に優しく、オイルが染み込むように。
蜜蝋の中に宿っている小さな光の粒たちに「ツヤツヤになあれ、座る人を温かく包み込んでね」と語りかけると、光の粒たちは嬉しそうにチカチカと瞬いて、木の中へとスッと染み込んでいきました。
磨き終えたイスは、ボロボロだった昨日とは見違えるように、しっとりとした温かい飴色の光沢を放っていました。
王宮の貴族が使うような、金箔やビロードが張られた高級な家具には敵わないかもしれません。
でも、私の愛情がたっぷり詰まった、自慢のイスです。
カランコロン。
オープンしてすぐ、控えめで上品なドアベルの音が鳴りました。
「いらっしゃいませ!」
そこに立っていたのは、オープン初日の雨の夜に来てくださった、あの美しいお客様でした。
月光のように美しいプラチナブロンドの髪に、深い緑色の瞳。
昨日のような苦しそうな顔はすっかり消えていて、思わず見とれてしまうほど綺麗なお顔立ちをしています。
上質な布地で作られた細身の服も、今日は雨に濡れておらず、本当に立派な貴族様という雰囲気が漂っていました
。
「おはよう、店主。約束通り来たよ」
「おはようございます、クロードさん! よく眠れましたか? お体の痛みはもう大丈夫ですか?」
「ああ。君の薬のおかげで、まるで生まれ変わったように体が軽い。長年私を縛り付けていた重い鎖が、完全に解けたようだ」
「よかったです! 今日も、いつものお薬になさいますか?」
「お願いする」
クロードさんは、お店の中をぐるりと見渡した後、クッションで眠るノワールちゃんを見てわずかに目を細め、それから私が今朝ピカピカに磨き上げたばかりのイスへと歩み寄りました。
そして、優雅な動作でゆっくりと腰掛けます。
少しだけギシッ、と古い木が鳴る音がしました。
「ふふっ。クロードさん、どうですか? 今日は患者さんに気持ちよく座ってもらえるように、一生懸命蜜蝋で磨いたんですよ」
私が胸を張って尋ねると、クロードさんは肘掛けの滑らかな手触りを確かめるように、そっと指先で撫でました。
「……ああ。とても素晴らしい。まるで王宮の玉座よりも、ずっと座り心地がいい」
クロードさんは、深く、穏やかな声でそう言ってくれました。
「君の手は、本当に魔法のようだな。こんなにも温かい場所を作り出せるのだから」
クロードさんの深い緑色の瞳が、真っ直ぐに私を見つめています。
その眼差しは、ただの患者としてではなく、私という人間そのものを丸ごと肯定してくれるような、ひどく熱を帯びた優しいものでした。
実家では「洗い方が悪い」「掃除が雑だ」と文句ばかり言われていた私のお掃除を、こんなにも喜んで、褒めてくれるなんて。私はすっかり嬉しくなって、胸の奥がぽかぽかと温かくなりました。
カランコロン
クロードさんにお薬をお出ししたちょうどその時、もう一人のお客様がやってきました。
「あら、こんな丘の上に薬局なんてできていたのね。坂道で息が切れるわ」
入ってきたのは、とても仕立ての良い、細かい刺繍が施されたドレスを着た上品な老婦人でした。
ただ、眉間には深いシワが刻まれていて、とても機嫌が悪そうです。
「いらっしゃいませ!」
「私、マチルダっていうの。町の中央通りで仕立て屋をやっているんだけど……最近、目が見えにくくて、針の穴に糸を通すのも一苦労なのよ。おまけに肩も石みたいに凝ってしまって、大好きなドレス作りも引退しようかと思っているところなの。何か気休めになる薬はあるかしら?」
マチルダさんは、ふうっと重たい深いため息をついて、テーブルの席につきました。
「お任せください! 目の疲れと肩こりにぴったりの、甘くて美味しいお薬がありますよ」
私は、裏庭で摘んできたばかりの紫色のベリーと、爽やかな香りの薬草を乳鉢に入れました。
ゴリゴリ、トントン。
果実が潰れて、瑞々しい紫色の果汁が溢れ出します。
そこに少しのお砂糖と、お水を加えて小鍋でコトコトと煮込んでいきます。
実家では「不味い飯を作るな」と罵られていた私の手仕事ですが、お薬の調合となれば話は別です。
鍋の中でベリーの光の粒たちが、薬草の光の粒たちと一緒にぐるぐると嬉しそうにダンスを踊り始めました。
トロリと綺麗なとろみがついて、ジャムのような艶が出たところで、ガラスの小さな器に移します。
「お待たせしました。『特製ベリーの食べるお薬』です。お代は銅貨一枚になります」
マチルダさんは、不思議そうに器を見つめました。
「ふん、銅貨一枚の薬ね。まあ、見た目と匂いだけは悪くないわ。パンに塗るジャムみたいね」
ツンとした態度のまま、マチルダさんは小さな銀のスプーンでお薬をすくい、口へ運びました。
その瞬間。
「……えっ?」
マチルダさんの目が、パチクリと大きく見開かれました。
「な、なんなのこのお薬は……! 口の中で、ベリーの甘みと酸味がジュワッととろけて……すーっと爽やかな香りが、鼻から頭へと抜けていくわ……!」
マチルダさんは、夢中になって二口、三口とお薬を頬張りました。
私の目には、マチルダさんの目や肩の周りにこびりついていた『疲れ』や『老い』のどんよりとしたモヤモヤが、ベリーに宿っていた元気な光の粒たちに優しく包み込まれ、すーっと洗い流されていくのが見えました。
「あっ……あれっ!? 嘘でしょ!?」
お薬を平らげたところで、マチルダさんがガタッと勢いよく立ち上がりました。
そして、慌てて自分の手元や、お店の隅々をキョロキョロと見つめます。
「見える……! 最近ずっとぼやけて見えなかった、自分のドレスの縫い目の、極細の絹糸まで、はっきりと見えるわ! それに……重い石が乗っていたみたいだった肩の荷も、嘘みたいに消えちゃってる!」
マチルダさんは両腕をぐるぐると回して、信じられないというように何度も瞬きをしました。
「これなら、今すぐ一番細い針に糸を通せるわ! 引退なんてとんでもない、私、あと五十年は現役でドレスが縫えそうよ!」
マチルダさんは、ツンとしていた先ほどの態度が嘘のように、私の両手をギュッと力強く握りしめました。
「あなた、とんでもない腕前の薬師ね! まるで魔法使いみたいだわ! こんな効き目のお薬、王都の高級な病院で金貨を積んでも出してもらえないわよ!」
「ふふっ、ありがとうございます。大好きなドレス作りが続けられそうで、本当によかったです」
「明日も絶対来るわ。針仕事の合間の楽しみに、毎日通わせてもらうからね!」
マチルダさんは、チャリンと銅貨を一枚カウンターに置くと、まるで少女のようにスキップでもしそうな軽い足取りで、丘を下っていきました。
「喜んでもらえてよかったわ。ねえ、クロードさん……あら?」
私がほっと息をついて振り返ると。
カウンターの席で、クロードさんがなぜか片手で美しいお顔を覆い、もう片方の手でひどく痛そうに胃のあたりを強く押さえていました。
「……クロードさん? どうかしましたか? お薬、甘すぎましたか?」
「いや……。あの、王宮の司祭が一生をかけても作れない『若返りと明眼の霊薬』に等しい奇跡を……たったの銅貨一枚で、だと……?」
クロードさんは、深く、本当に深いため息を一つ吐き出しました。
その横顔はどこか真剣で、お店の外の丘の斜面や、私が薬草を摘んでいる裏庭の方へと、鋭い視線を巡らせていました。
「……リアナ。君は、自分の生み出している薬の価値を、本当にわかっていないんだな」
クロードさんが静かに立ち上がり、私の目の前まで歩み寄ってきました。
長身の彼に見下ろされると、その圧倒的な存在感に少しだけドキッとしてしまいます。
「君のその優しさは、時としてひどく無防備だ。もし、王都の欲深い貴族どもがこの奇跡を知れば、何をしてでも君を奪いに来るだろう」
「えっ? 奪うって……ただのベリーのお薬ですよ?」
「君にとってはそうかもしれない。だが、世界はそうは思わない」
クロードさんは、私の荒れた小さな指先を、彼の手袋越しにそっとすくい上げました。
そして、ひざまずくような敬意を込めて、深い緑色の瞳で私を見つめました。
「約束しよう。私が、君のこの穏やかな日常を必ず守り抜く。君はただ、そののほほんとした笑顔のまま、この温かい手で優しい薬を作ってくれれば、それでいい」
それは、ただの患者さんがかける言葉の熱量ではありませんでした。
絶対に私に危険を近づけさせないという、強烈な意志。
彼の言葉の奥にある、海のように深くて静かな過保護の始まりに、私はコクリと頷くことしかできませんでした。
「ごちそうさま、リアナ。今日もとても体が楽になった。また明日も、必ず来るから」
クロードさんが帰った後のお店のテーブルには、チャリンと銅貨が置かれていました。
私はその銅貨を大切に革袋にしまうと、ほうきを持ってお店の前に立ちました。
キラキラと光る海風が、私のテラコッタ色の髪を優しく揺らしていきます。
明日もまた、ここで優しいお薬を作ろう。
誰かがここに来て、ホッと笑顔になれるように。




