1話 新しい町と一滴の奇跡
私が、自分の中に『前世の記憶』というものがあることに気がついたのは、引き取られた親戚の家の薄暗い部屋で、ひとり高熱にうなされていた時のことでした。
冷たくて硬い、ざらざらとした板張りの床の上。
誰にも看病されることはなく、すきま風の吹き込む部屋の隅で、虫食い穴だらけの薄い毛布にくるまってガタガタと震えていた私の視界は、ぐわんぐわんとひどく揺れていました。
熱さで頭がカチ割れそうになったその瞬間。
頭のずっと奥の方で、パチンと小さな火花が散ったかと思うと、今までの私の人生にはまったく繋がっていないはずの過去の光景が、ぶわっと洪水のように流れ込んできたのです。
そこに見えたのは、長年使い込まれてすり鉢の底が滑らかになった乳鉢と、天井の梁からたくさん吊るされた、色とりどりのドライハーブたち。
コトコト、コトコトと、心臓の音のように心地よいリズムを立ててお薬を煮込んでいる、大きな銅のお鍋。
そこから立ち昇る、カモミールと蜂蜜を混ぜたような、甘くてほんの少しだけ苦い匂い。
それは、私がかつて生きていた“前世”の風景だったのでした。
私はかつて、ここではない別の場所で、貧しい人々に配るためのお薬を朝から晩まで作り続ける職人として働き、そして……過労で倒れて命を落としていたのです。
自分が一度死んでいるのだと理解した途端、冷え切っていた私の心に、一気に感情が溢れ出してきました。
それは、昔を懐かしむような穏やかなものではなく、胸をギリギリと締め付けられるような、ひどく苦しい後悔でした。
亡くなる直前、私にはどうしてもお薬を渡してあげたい、常連の患者さんがいました。
ひどく疲れた顔をして、咳き込みながらやってきたその人に、「明日、特別に効くお薬を渡しますね。だから、絶対にまた来てくださいね」と指切りをして約束したのに。
私はその約束を果たす前に、薬草を煮込むお鍋の前で倒れてしまったのです。
あの痛みを和らげる優しいお薬を、あの人に渡すことができなかった。
冷たい床に倒れ伏しながら、ただそのことだけが悲しくて、悔しくて、目からポロポロと涙がこぼれて止まりませんでした。
「……ちょっとリアナ! いつまで寝ているのよ!」
バンバンッ! と、古い木のドアがぶっ壊れそうなほど乱暴に叩かれる音と、鼓膜を突き破るような金切り声で、私はハッと我に返りました。
「開けなさいよ! あんたのあの雑な洗い方のせいで、私のお気に入りのブラウスのレースがほつれてダメになったじゃない! 王宮の見学に着ていく予定だったのに、どうしてくれるのよ!」
「おい、リアナ! さっさと起きて朝飯を作り直せ! なんだあの泥水みたいなスープは! お前のご飯は不味すぎるんだよ、家畜の餌か!」
ドアの向こうで口々に文句をわめき散らしているのは、両親を亡くした私を引き取った親戚の、同い年くらいの従姉と従兄でした。
ドアが乱暴に開け放たれ、二人が部屋にズカズカと踏み込んできます。
彼らは、仕立ての良い真新しい濃紺の制服に身を包んでいました。金糸で細やかな刺繍が施されたその服は、とても高い学費を払わなければ通えない、特権階級の学校の生徒であることの証明です。
それに引き換え、床にうずくまっている私の姿はどうでしょう。
私が着ているのは、何度も何度も井戸水で洗いすぎてすっかり色が抜け落ち、あちこちに不格好な布の継ぎ接ぎがされている、薄くて粗末な麻のワンピースでした。
毎日毎日、畑仕事と動物の世話をしているせいで、いくら洗っても泥と家畜の干し草の匂いが染み付いてしまっています。
『私たちは将来、王宮で働く選ばれたエリートになるのよ』
『お前みたいな泥だらけで無能な使用人とは、生まれながらにして住む世界が違うんだ』
彼らはいつも、美しい制服の袖を汚さないように私を見下し、少しでも私が疲れてボーッとしていると「見えないものに話しかけている気味の悪い子」と罵るのでした。
「うるさいぞお前たち、朝から騒ぐな! ……おいリアナ、寝込んだふりをしてサボるんじゃない! さっさと裏の広い畑を隅から隅まで耕して、牛と鶏の世話をしてこい! それが終わるまでお前の飯は抜きだ!」
「本当にどんくさい子だこと。それが終わったら、暇な時に森の奥へ行って、高く売れる薬草をたくさん採ってきなさい。うちの家計の足しにするんだから、雑草なんて摘んでくるんじゃないわよ」
従兄たちの騒ぎを聞きつけてやってきた父親と叔母様までが、容赦なく私に怒鳴り声を上げます。
この家で、私は家族として扱われたことなど一度もありません。ただの便利な、そして都合のいい労働力でした。
夜明け前から冷たい風の中でかまどに火をくべて全員分のご飯を作り、父親から丸投げされた広い畑を一人で耕し、家畜たちの世話をして、夜遅くまで手の感覚がなくなるような冷たい井戸水で彼らの高級な服を洗濯する毎日。
私なりに一生懸命やっても、従姉は「洗い方が悪い」と怒り、従兄は「ご飯が不味い」と私を罵るのです。
「……こんなところで、うずくまってる場合じゃないわ⋯」
親戚たちがドカドカと足音を荒立てて去っていった後。
前世の記憶と、お薬を作る『薬師』としての誇りを取り戻した私の中に、静かで、しかし決して消えることのない強い決意が湧き上がりました。
ふらつく足でゆっくりと立ち上がり、私は彼らに言われた通り、裏の畑と家畜小屋へと向かいます。
いつもなら絶望で前が見えなくなるような過酷な労働も、今の私には「ここから抜け出すための準備運動」にしか思えませんでした。
今度こそ、誰もが痛みを我慢しなくていい、温かい居場所を作りたい。
前世で叶えられなかった分まで、疲れ切った人に、ホッとできる優しいお薬を届けたい。
その夢を叶えるための「逃亡資金」なら、私には心当たりがありました。
実は私、叔母様に「暇な時に採ってこい」とこき使われて森へ入る合間に、こっそりと一番効き目の良い『薬草』だけを自分の手元に分けて、月に一度村へやって来る行商人の元へ通っていたのです。
私には、五百年ぶりに覚醒したという『魔女』の血筋が流れています。
火を出したり空を飛んだりといった派手な魔法は一切使えませんが、私の目には大気中や植物の中に宿っている『光の粒(魔力)』が、まるできらきらと輝く朝露のようにはっきりと見えているのです。
この光の粒がたくさん集まっていて、元気いっぱいに瞬いている薬草は、お薬としての効果も抜群でした。
私は、薬草たちが「ここを切ってね」と教えてくれる場所を、指先で丁寧に摘み取っていました。
「リアナちゃんの持ってくるハーブは、なぜかすごく効くんだ。王都の貴族も高値で欲しがるくらいだよ! いつも本当に助かってる、ありがとうね」
そう言って行商人の顔なじみのおじさんは、私が持ち込んだ薬草を、いつも私が驚くような高い値段で買い取ってくれました。
王宮のエリートになることしか頭にない家族たちは、泥だらけの私が足元の雑草でそんな大金を稼いでいるなんて、これっぽっちも気づくはずがありません。
私はそのお金を、誰にも見つからないようにベッドの下の床板を剥がし、その奥に隠し続けていたのです。
その日の夜。
暖炉の前で高いワインを飲み、大きないびきをかいて眠る親戚たちの目を盗み、私は自室の床板の下から小さな革袋を取り出しました。
ずしり。
手に乗せると、チャリン、と重たくて硬い音が鳴ります。
それは何年も何年もかけて、私が過酷な労働と理不尽な罵倒の合間に、一枚一枚大切に、命を削るようにして貯めてきた、たくさんの銀貨と銅貨たちでした。
「さようなら。明日からはご自分で、美味しいご飯を作って、泥水にならないように綺麗にお洗濯をしてくださいね。」
親戚たちに向けて誰にも聞こえない声で呟くと、私は長年着古したボロボロのワンピースのまま、誰にも気づかれないように最小限の荷物をトランクに詰め込みました。
自分の特徴的なテラコッタ色のふんわりとした髪をすっぽりと帽子に隠して、私は夜明け前の薄暗い中、こっそりと裏口から家を抜け出しました。
潮風の香りがする方へ。
優しいお薬の匂いがする方へ。
私は、私を虐げ続けてきた親戚の家から遠く離れた、はるか遠くの静かな港町へとやってきたのでした。
数日間の旅の末に港町に着いてすぐ、私は町の不動産を管理している大家さんの元を訪ねました。
「あの、私のような若い娘でも借りられる、お家賃の安い空き家はないでしょうか?」
人の良さそうなおひげの大家さんは、私の身なりを見て少しだけ困ったように頬を掻いてから、窓の外の遠くを指差しました。
「町から少し離れるが、海風が吹き抜ける小高い丘の上に、古い風車小屋があるんだ。見晴らしは最高なんだが、長いこと誰も住んでいなくてね。外壁にはツタは絡まり放題だし、中もホコリだらけのボロ小屋だ。掃除するだけでも骨が折れると思うよ」
「お掃除なら得意中の得意です! 実家で毎日、広いお家も動物小屋もピカピカに磨いていましたから! あの……お家賃はおいくらになりますか?」
「そうだな……。君が自分で掃除して、お店なり住居なりに直して使ってくれるって言うなら、月に『銀貨一枚』で貸してあげるよ」
月に銀貨一枚。
それなら、私がコツコツ貯めてきた逃亡資金でも、十分にお釣りがくるくらい払っていけます。
「本当ですか!? ありがとうございます、ぜひお借りします!」
それからの毎日は、とても忙しくて、これまでの人生で一番楽しい時間でした。
バケツいっぱいの水を何度も何度も汲んできて、木の床をゴシゴシと力いっぱい磨き上げます。
くすんで外が見えなくなっていた窓ガラスを布巾でピカピカに拭き上げると、そこからはキラキラと光る青い海が、まるで一枚の巨大な絵画のように広がって見えました。
町の中古屋さんで、傷があるけれど丈夫な松の木のテーブルやイスを、銀貨の端数で安く譲ってもらい、丘の上までえっちらおっちらと運びます。
誰かに「洗い方が悪い」と文句を言われることも、「飯が不味い」と理不尽に怒鳴られることもありません。
自分の手を真っ黒にして、泥臭くお店を自分好みに整えていくこの時間が、私はたまらなく好きでした。
そうして三日三晩かけて出来上がったのが、私の小さなお城。
手作りの木の看板には、湯気を立てるお鍋を描いて『ワンコイン薬局』と名付けました。
どんなお薬でも、お代は銅貨一枚だけ。
お金のない漁師さんや、今日食べるものにも困っているような町の人たちが、誰もがお金の心配をせずに気軽に立ち寄って、痛みを癒やせるように。
それが、前世で薬師だった私が決めた、一番大切なルールなのでした。
いよいよ、お店のオープン日。
さっきまで晴れていたはずなのに、急に空が鉛色に暗くなり、ぽつぽつと冷たい雨が降り始めました。
あっという間に雨足は強くなり、窓ガラスをパラパラ、バラバラと激しく叩き始めます。
初めてのお客様は、雨の日になっちゃったかな。
少し寂しいけれど、ストーブの暖かさが、お鍋でコトコトと煮込んでいるお試し用のシロップの甘い香りをより一層引き立ててくれます。
カウンターを丁寧に拭きながら、のんびりと海を眺めて待っていると。
カランコロン。
雨音に混じって、控えめで上品なドアベルの音が鳴りました。
「あら、いらっしゃいませ。雨宿りですか?」
お店に入ってきたのは、ずぶ濡れの男性でした。
月光のように美しいプラチナブロンドの髪に、深い緑色の瞳をした、息を呑むほどに美しいお方。
身にまとっている外套は雨に濡れて重たそうでしたが、その生地がどれほど最高級品であるかは、毎日親戚の高級な服を洗濯させられていた私にはすぐにわかりました。
立っているのもやっとというご様子なのに、決して取り乱すことなく、気高い雰囲気を崩そうとしません。
無理をして背筋をピンと伸ばしている姿が、ひどく痛々しく見えました。
私の目には、彼の体の中で強大すぎる魔法の力が暴走しているのが見えました。
赤黒く煮えたぎるような『光の粒』の塊が、彼の肉体を内側からめちゃくちゃに焼き続け、悲鳴を上げているのです。
それは、ひどい激痛と、誰にも触れられない孤独な呪いでした。
前世で、最後のお薬を渡せなかったあの日の後悔が、私の胸をギュッと締め付けました。
「すぐに、痛みを和らげるお薬をお作りしますね。少しだけ待っていてください」
私は慌てて、銅の小鍋をストーブの火にかけました。
お鍋の中に、甘いシロップと、痛みに一番よく効く薬草を乳鉢で丁寧にすり潰して入れていきます。
パチパチとはぜる薪の音を聞きながら、木べらでゆっくりと円を描くようにかき混ぜました。
ぐつぐつと沸騰させてしまうと、お薬の優しい成分が飛んでしまいます。
私には、薬草たちが「ここだよ! 今だよ!」と光の粒を瞬かせて教えてくれるのがわかります。
シロップの中の光の粒たちが一番元気になって、ふっくらと膨らんだ瞬間。お鍋から甘くて優しい匂いがふわりと立ち昇ったその時が、火から下ろす一番の合図なのです。
難しい呪文なんていりません。
ただ、薬草の声を聞くだけ。素材の力を信じて、丁寧に接するだけ。
「今日、あなたがホッと息をつけますように」
「お待たせしました。特製の、甘い鎮痛シロップです。お代は銅貨一枚になります」
私は、のほほんとした琥珀色の瞳で男性を見つめました。
彼がどれほど身分の高い人であろうとも、私にとっては痛みに耐えている、一人のひどく疲れた患者さんなのです。
男性は小さく頷くと、震える手で優雅にカップを受け取りました。
そして、ゆっくりと一口飲みます。
一口飲んだ瞬間。
彼の苦しそうだった表情が、嘘のようにふわりとほどけていきました。
険しかった眉間から力が抜け、強張っていた肩がゆっくりと下りていきます。
私のお薬の香りと甘さが、彼の暴走する赤黒い魔力と優しく手をつなぎ合い、その熱を温かな安らぎへと変えてくれたのでした。
「ああ……痛くない。息が、できる」
男性は、大切にカップを両手で包み込みました。
生まれつき彼を苦しめ続けていた呪いのような激痛が、たった一口のシロップで、完璧な形で癒やされてしまったのです。
男性は、深い緑色の瞳で、じっと私を見つめてきました。
その瞳の奥には、ひどく熱を帯びた、深い感情が渦巻いているように見えました。
それは、私が生み出した「お薬」に対する驚きと、自分に初めて温もりを与えてくれた私自身に対する、重たくて静かな執着の始まりだったのでした。
「……本当に、素晴らしい薬だ。奇跡と呼ぶにふさわしい。私はクロードだ」
「ふふっ、ありがとうございますクロードさん。ゆっくり休んでいってくださいね」
私がそう言うと、クロードさんは少しだけ驚いたように目を丸くし、それからひどく優しい顔で微笑みました。
彼にとっては、国宝にも等しい秘薬が、たったの「銅貨一枚」で振る舞われている現実に、ほんの少しだけ目眩がしたのかもしれません。
でも、公爵としての品格を崩すことなく、彼は静かに銅貨を一枚、カウンターに置きました。
「店主。私は明日もここへ来る。……毎日でも」
そんなに真剣なお顔で言われると少しびっくりしてしまいますが、彼がもうあんなに苦しそうな顔をしないですむのなら、いつでもお薬を作ってあげたいなと思いました。
「はい。いつでもお待ちしておりますね」
私がのほほんと笑って手を振ると、美しいお客様は静かに一礼をして、雨の中へと帰っていきました。
雨はいつの間にか上がり、雲の間から優しいお日様の光が丘の上を照らし始めていました。
私は空になったカップを丁寧に片付けながら、ふふっと小さく笑いました。
丘の上にある、古い風車小屋の小さなお店。
明日もまた、優しいお薬を作ろう。
誰かがここに来て、ホッと笑顔になれるように。
【本作の世界のお金について】
本作の世界では、「銅貨1枚 = 日本円で約100円」という価値観で設定されています。
銅貨1枚(約100円): リアナの特製シロップや、ちょっとしたお菓子が買える値段。子どもがお小遣いでも気軽に払える、本作の基本となる「ワンコイン」です。
銀貨1枚(約10,000円): 銅貨100枚分。リアナが丘の上で借りたボロボロの風車小屋の、1ヶ月のお家賃です(訳あり物件のため破格です)。
金貨1枚(約1,000,000円): 銀貨100枚分。クロードなどの高位貴族や、王宮の人間が日常的に動かす大金です。




