【第二章 】第三話:雨音の境界線
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その日は、朝から雨が降っていた。梅雨の時期、当然と言えば当然の光景だ。
私はハルミ様のことを思い浮かべた。あの手では傘など差せぬだろうし、合羽を着るのも一苦労だろう。車も校門の中までは入れない。
『雨ですが、濡れずに校舎へ入れますか?』
そうメッセージは送ったが、彼女はいま気軽にスマホを操作できる状態ではない。
私は胸騒ぎを覚えながら傘を片手に自転車のペダルを漕いだ。しとしとと降り注ぐ雨は、合羽を着るほどではない。
私が着くのと、ほぼ同時に白いセダンが校門前に止まった。
運転席から女性が降りてきて、足早に助手席の方へ回り込む。慣れた手つきでドアを外から開けると、助手席からハルミ様が降りてきた。
ハルミ様は透明なポンチョを着ていらっしゃった。彼女の母君と思われる女性が助手席のドアを閉め、運転席に戻っていく。ハルミ様はゆっくりと歩き始めた。
そのお姿は、巡礼する聖職者がローブを纏っているかのようだった。
一歩、また一歩。転ばぬように慎重に歩く様は、神聖な儀式の一場面のようで、私は声を掛けることも忘れ、しばらくその光景を見惚れていた。
私は自転車を校門に止め、傘を片手に彼女のもとへ駆け寄った。
「ハルミ」
私が声を掛けると、彼女は透明なポンチョのフードの越しに柔らかく微笑んだ。
「ナイトさん見てください。これ水族館のイルカショーを見るときに買ったものなんですよ」
「濡れませ……濡れないか?」
「はいちっとも」
「ならばいい」
「でも一人だと脱げないので、お手伝いしていただけますか?」
「もちろんで……もちろんだ。私はそのためにここに居るようなものだ」
「まだ敬語になっちゃいますね」
うふふ、と彼女は喉を鳴らして笑われた。
「じきに慣れる。今しばらく辛抱してくれ」
「私だけ敬語でごめんなさいね」
「構いま……構わない。あなたにはそれが合っている」
私の言葉に彼女は嬉しそうに目を細める。
「そう言ってもらえると嬉しいです。あ、そうだ今日は病院に行かないといけないので部活に顔を出せません。皆さんにもよろしく言っておいてもらえますか?」
「承知した。部室はたまり場のようになっているが、基本的には呼び出されたときだけ来れば問題ない。葉月も今日は確かバイトでいないはずだ」
「そうですか。でもアルバイトっていいですね憧れます。私も手が治ったら挑戦してみたいです」
「あまり想像がつかんな」
「なんですか? 私が労働に向いてないというんですか?」
ハルミ様は少しだけ頬を膨らませられた。
「そうではありません。失言でした」
私は慌ててこうべを垂れる。
「敬語になってます」
「すまない」
「どんなアルバイトが向いていると思います?」
「喫茶店などどうだ? ハルミはお茶やコーヒーが良く似合う」
「いいですね! でもそういうのは学園祭でやりたかったですね……」
「学園祭は来年も再来年もある。大学に入ればプラス4回だ。飽きるほど出来る」
不意に、ふふふとハルミ様が笑われた。
「どうした?」
「いえ、みはるちゃんが言っていたのを思い出したんです。ナイト君は喋ると案外普通だよって。敬語を辞めてよりそう感じるようになりました。ちょっと変わった喋り方ですけどね」
「それは褒めているのか?」
「もちろん」
「しかし、私が変人であることには変わりはない。数日の付き合いでしかないが、それはわかるだろう。普通に考えれば高校生にもなって騎士などどバカげている」
ハルミ様は私の自虐を真正面から受け止めた。
「ナイトさんをよく知る人は誰もナイトさんをバカになんてしてませんよ。短い付き合いの私ですらそうです。あなたは行動できる人です」
「お褒めに預かり光栄です」
「また敬語」
「今のは心よりの謝辞だ。許してくれ」
やがて私たちは玄関の庇の下に辿り着いた。ハルミ様との心温まる会話のひと時は、あっという間に終わりを告げてしまった。
「ポンチョを脱がせてもらえますか?」
「もちろん」
私は傘をその場に置き、彼女のポンチョのボタンに手をかけた。決してお体に触れぬよう慎重に一つまた一つと計五つのボタンを外した。ポンチョを大きく振って水分を飛ばすと、私はそれを丁寧に折りたたんだ。
「ポンチョは靴箱に入れてください」
「ハッ。靴に触れても?」
「構いませんよ」
私は下駄箱に収められていた上履きをハルミ様の足元に並べ、代わりにポンチョをしまった。ハルミ様の脱いだローファーを手に取り、それもしまう。
「何から何まで、ありがとうございました」
ハルミ様は怪我人とは思えぬ美しい所作で、静かに頭を下げられた。
「頭を上げてくれ。私は毎日でも構わない。元を正せばあなたが不自由しているのも私のせいだ」
「そういう言い方はやめてください。助けられたのは私です。ナイトさんに責任なんてありません」
ハルミ様は表情を曇らせた。
「いや、あなたは後方の生徒の不注意で押されただけだ。それを支えきれなかった私が悪い」
「やめてください」
彼女口からはじめて聞く、突き放すような冷たい声だった。
「仮にそうだったとしても、あなたの頭に手を伸ばしたのは私の自己満足です。この件に関して私たちは対等なはずです。違いますか?」
「言っていることはわかる。だが私はそんな風に自分を見れない。私がハルミの立場だった場合、私はあの状況で相手にそこまで出来なかっただろう。あなたの行為を神聖だと感じたから、私は今あなたのお役に立ちたいと思っている」
「お互い頭を冷やしましょう」
ハルミ様はため息をひとつ。
「ありがとうございました。また明日」
腰のウエストポーチを揺らしながら、ハルミ様は私の前から去って行った。
私は傘を手に取り、校門までの道を戻った。
私は主君に逆らったのだろうか。
私は私の忠心を言葉にしただけのつもりだった。しかし、ハルミ様はそれを拒絶なさった。
雨脚がにわかに強くなっているように感じた。
傘を片手に走って行く生徒、諦めたようにゆっくりと歩く生徒、その流れとは逆方向に私は歩いた。
遠目に見える私の自転車は、見るまでもなくぐしゃぐしゃに濡れているだろう。
予鈴が鳴る。
だが足を速める気にはならなかった。
ハルミ様が負傷したあの日。あの瞬間のあの骨の折れる音が、雨音に紛れて何度もリフレインしていた。
ハルミ様は自らの身を捧げて、私を守った。
その聖女のような崇高な行いは、騎士の理想とも言える。
私は守れなかった。
腰に差した新聞紙の剣は、水を吸ってすっかりへたっていた。




